こどもにやさしい街って

この前遊びに来てくれた、こどもNPOというNPOで、子育て支援や子どもの地域教育に携わる本岡さんは衝撃を受けたと書いてくれた。

 

確かに中村区は名古屋でも下町。

うちの近所は歩いていて、いろいろな人に寛容だなぁと思う。

いろいろというのは、福祉施設も多いから障がいの人もたくさん見る。

経済的に豊かではない人もたくさんいる。空き缶をたくさん自転車に積んで走っているおじちゃんもよく見る。自由すぎる子どもに対して苛立ちや、親がちゃんとしなくてはならないという目を向けられたことはない。

 

スーパーで我が子が寝転がってイヤイヤしていたり、泣き叫んでいたり、混み合っているのに自分で袋に入れたいとか、レジでやってもらいたい・・と主張しても、並んでるおじちゃんもおばちゃんもレジの人もニコニコしている。泣いていたら、飴ちゃんあげようかと言うおばちゃんもいる(いや、まだ飴玉は食べられないのともらったら食べる!となるからご遠慮したけど・・)

むしろ孫みたいなかわいい子を眺められてよかったわーって感じで、子どもはおじちゃん・おばちゃんたちが元気になるという社会貢献してるんだなぁとか思っていた。

 

それが当たり前すぎてしまい、外の人から見ると衝撃を受けるほどなのか!ということには気づかない。逆に子育てに不寛容だと感じていても、それが当たり前になると、そういうものだと思ってしまうのかもしれない。

 

そういう地域に出会うとそんな地域こそ素敵な地域だとみんなは思うかもしれないけどそうなのかなぁと思った。「地域のつながりこそ大事、つながりがある昔ながらの地域は素敵だね〜」とみんなは言う。

でも、それに対して、「地域のつながり」は地域の保守性、呪縛となってある人にとっては居心地の悪さにもなる。子どもにやさしいおばちゃんたちも働く母に対しては不寛容かもしれない。子どもが1歳になる前、10ヶ月の頃に保育園に入所働き始めた時、子どものことを暖かく見ていたおばちゃんたちは、心の底では母である人が働くということをよく思ってないんだろうなぁ・・と他愛もないよくある会話から感じた。それを「不寛容」と受け止める人もいると思う。

 

街全体にいろいろな人がいるという多様性、いてもいいという寛容さがあるから、その人自身が孤立感や閉塞感を感じていないということではないと思う。子どもを抱っこしていたらにっこり笑ってもらえるか、疎まれるか、にっこり笑ってもらえた方がいい。でも、そんな子どもにやさしい街に住んでいても、途方に暮れている人はいるかもしれない。

 

いろいろな子どもや親子、家族をふんわりと受け止めることと、多彩なソーシャルキャピタルを「わたし」の周りにつくること。その中で、「わたし」が自らを助け、誰かを助けて生きていける(助けるというのは具体的な行為だけでなく、関係性も含む)ようにするのが子育て支援なんじゃないかなぁと思う。(子育て支援だけでなく、様々な人への支援や地域づくりや街づくりも)サービスや施設があればそれで大丈夫ではなく、人々の寛容さ、文化が一番の支援で、それを育てるのが一番難しいんだなと思う。

母になって一人で旅行する。

今回、1泊2日でどこかに行こうと思って、モリソンに言う→会いたい人にアポイントをとる→宿をとる・・までがハードルがとても高くて、思ってはやめようかなぁの繰り返し。保育園に送って、仕事して、迎えに行って・・も日々は過ぎていく。むしろそうした流れを止めて、旅行に行くことの方が労力がいることでもある。

でも、疲れたなぁ、どっか行きたいなぁ・・・。

行きたいということは行った方がいいということなんだと思って、エイっと予定を入れました。で、行ってみて、やっぱり3ヶ月に1回(次は1月くらい)はどこかに一人で行きたい。

長野に行って、会いたいなぁという人にあって話して帰ってきた。

旅行っぽい、観光はせず、帰りに塩尻のえんぱーくに行こうかなと思ったけど、予定詰め込まないで帰ってきた。前ならえんぱーくも行ったかもしれない。

一つのことができたらそれで十分と、動き方も変わったのは疲れてるからなのか、年を重ねて成熟したからなのか?

 

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結婚してから、子ども産んでお母さんになってから、女ってめんどくせー、女であることの生きずらさがあるんだと初めてわかった。女であるから仕事の範囲が決まってるとかそんなこともないところで働いて、人が足りないんだから仕事はいくらでもあります、裁量もあります・・というところでキャリア形成してきたからだと思う。

モリソンと結婚する前も一人で旅行には行ったし、モリソンも一人でスキーに行く。
子どもが生まれても、わたしは、一人で旅行に行くし、モリソンも一人でスキーに行く。それは変わらないというのがわたしとモリソンの間の合意事項、独立した個であるというのが、家族の理念だと思ってる。

 

さとちんにとっては、お母さんとお父さんの存在は違う、違う役割を持っているとも感じている。でも、365日のうち1日お母さんがいないということの重さよりも、日常が大事。わたし・モリソン・さとちんの日々の関わり関係性が、暴力的・抑圧的・依存的・過干渉・不寛容・無関心ではないということが大事で、それは外からは見えない。


お母さんが一緒にいる時間の長さ=愛情、安心できる環境ではないと思ってる。
おかあさんがいない時があっても、さとちゃんが楽しく、やりたいことをやり、
安心して過ごしている、その環境があるか。

でも、世の中はお父さんが出張してても、夜いなくても何も言われないけど、
お母さんが夜いなかったり、旅行すると良く思わない人もいる。
(わたしの周りはそれいいね!という人がいるからありがたいですよ!)

帰ってきて、モリソンに、

「男の人はいいなー、泊まりでどこか行ったり、どんなに夜が遅くても、
『ツマに任せっきりで〜でへへ』とか言って、社会から干されなくていいよね」
と、ぼやいたら、「そういう生き方ができるところにいて、できているならそれで
いいじゃん」と言われ、確かにそうだと思った。

お母さんは、という一般名称に対しての声は自分に向けられてないわけで、
わたしがどんな環境にいるかが事実だよなぁと思う。

ふてくされずに、軽やかにいこうと思った。

本や図書館を高いところにおく。

本についてあれこれ思うこと。


図書館=本=文学。私たちとは遠い高いところにおいてる人が多いと感じる。

図書館は地域にとって必要、図書館って素敵だよね・・・と、私が図書館や本をテーマにしているから言われることも多い。

 

でも、必要・素敵の中身ってなんだろう、どうしてそう思うの??
なんとなく、文化的なものをないがしろにしてはいけないってことを感覚にはあっても、その人の生きる現場の中にはないのではないかとよく思う。

 

図書館や本について、あるあるコメントとして、「私は本は自分の好きなものしか読まないので〜」と謙遜、申し訳なさそうにいうこと。

その時のその人にとって好きな本は、もしかすると料理の本や雑誌やペットの本や趣味の旅行やどうしたらダイエットできるか・・という本なのかもしれない。

そうした実用的な本を下等なものとし、文学や小説や現代社会や経済に関する本を高等なもの。
自分は読むのが億劫になってしまう難しいものを読むのが読書であり、本であるって思ってるんだなぁと、会話の端々に感じることは多い。

 

どうして好きなものばかり読んでたらダメなの?
読みたいから読んでいたらダメなのか。読みたくないなら読まないでいたらダメなのか。

 

人にとっての学び、心の滋養、元気になる、ちょっと進むための本、情報は、自分とは関係ないと捉えている文学にも、自分が親しんでいる趣味、芸能人の本や雑誌や漫画やセックスについての本にも同じようにあって、優劣はない。

その人が日々を楽しく生きる、ちょっと元気になる、そのために、それらの本がある・・
そうした場所として本も図書館もあると思うんだけど、本や図書館を高いところにおいて認識しているんだなぁと思う。

 

難しい本を読む時、この本1冊読めないとダメ、読めない自分はバカなのか・・と知らず知らずのうちに思わされていることはあると思う。


読まないと生きていけないわけでもないし、心がわくわくしない・・自分にとっていいと思えないなら読まなければいい。

面白そうと思って買って、最初だけちょっと読んで、途中で興味がなくなって読まなくなってもいい。

 

1冊の本を「人」に例えると、その人とおしゃべりして、その人のこと全部わかったなんて言えるか?様々な対話、一緒に経験をともにしてその人の見え方も変わってくることがある。

そんなことと同じで、自分と対話をする相手が「本」であるとして、その本との対話が終わってしまったり、興味がなくなったり、分かり合えなくてもそれでいいじゃん。

また、いつか会いましょう、その時話しましょうって思って、「本」との関わりを捉えたらいいのになと思う。

 

義務としての読書、辛い思いをして読みたくないけど、賢くなるための読書。
本とはそのようなものだ、図書館はそうした本がある場所だという捉え方があるから、
図書館、その周りにある地域の人たちにとって、わたしたちの場所になっていかないのだと思う。

 

で、その諸悪の根源はどこにあるかというと、「読書感想文」だと思ってる。
義務で読む、義務で感想を書く。読みたい本ではなく、何か正しい、道徳的なことをいってるいい本と大人が認定する本を読む。読書をするのも感想を書くのも内発的な動機によるものではないということを、刷り込んでいる読書感想文をやめたらいいのにと思う。

 

そんな本についての認識を持っていて、本にも図書館にも近づかない人は一生近づかないかもしれない。

持っている見方を変えるのは、「知る」ということが楽しいという実感。

それが本なんだよ、それが情報なんだよと捉え直す機会。

それを通して図書館的な場の姿を分かち合っていけるのではないかと思う。

 

 

 

本や図書館を高いところにおく。

本についてあれこれ思うこと。


図書館=本=文学。私たちとは遠い高いところにおいてる人が多いと感じる。

図書館は地域にとって必要、図書館って素敵だよね・・・と、私が図書館や本をテーマにしているから言われることも多い。

 

でも、必要・素敵の中身ってなんだろう、どうしてそう思うの??
なんとなく、文化的なものをないがしろにしてはいけないってことを感覚にはあっても、その人の生きる現場の中にはないのではないかとよく思う。

 

図書館や本について、あるあるコメントとして、「私は本は自分の好きなものしか読まないので〜」と謙遜、申し訳なさそうにいうこと。

その時のその人にとって好きな本は、もしかすると料理の本や雑誌やペットの本や趣味の旅行やどうしたらダイエットできるか・・という本なのかもしれない。

そうした実用的な本を下等なものとし、文学や小説や現代社会や経済に関する本を高等なもの。
自分は読むのが億劫になってしまう難しいものを読むのが読書であり、本であるって思ってるんだなぁと、会話の端々に感じることは多い。

 

どうして好きなものばかり読んでたらダメなの?
読みたいから読んでいたらダメなのか。読みたくないなら読まないでいたらダメなのか。

 

人にとっての学び、心の滋養、元気になる、ちょっと進むための本、情報は、自分とは関係ないと捉えている文学にも、自分が親しんでいる趣味、芸能人の本や雑誌や漫画やエロ本にも同じようにあって、優劣はない。

その人が日々を楽しく生きる、ちょっと元気になる、そのために、それらの本がある・・
そうした場所として本も図書館もあると思うんだけど、本や図書館を高いところにおいて認識しているんだなぁと思う。

 

難しい本を読む時、この本1冊読めないとダメ、読めない自分はバカなのか・・と知らず知らずのうちに思わされていることはあると思う。


読まないと生きていけないわけでもないし、心がわくわくしない・・自分にとっていいと思えないなら読まなければいい。

面白そうと思って買って、最初だけちょっと読んで、途中で興味がなくなって読まなくなってもいい。

 

1冊の本を「人」に例えると、その人とおしゃべりして、その人のこと全部わかったなんて言えるか?様々な対話、一緒に経験をともにしてその人の見え方も変わってくることがある。

そんなことと同じで、自分と対話をする相手が「本」であるとして、その本との対話が終わってしまったり、興味がなくなったり、分かり合えなくてもそれでいいじゃん。

また、いつか会いましょう、その時話しましょうって思って、「本」との関わりを捉えたらいいのになと思う。

 

義務としての読書、辛い思いをして読みたくないけど、賢くなるための読書。
本とはそのようなものだ、図書館はそうした本がある場所だという捉え方があるから、
図書館、その周りにある地域の人たちにとって、わたしたちの場所になっていかないのだと思う。

 

で、その諸悪の根源はどこにあるかというと、「読書感想文」だと思ってる。
義務で読む、義務で感想を書く。読みたい本ではなく、何か正しい、道徳的なことをいってるいい本と大人が認定する本を読む。読書をするのも感想を書くのも内発的な動機によるものではないということを、刷り込んでいる読書感想文をやめたらいいのにと思う。

 

そんな本についての認識を持っていて、本にも図書館にも近づかない人は一生近づかないかもしれない。

持っている見方を変えるのは、「知る」ということが楽しいという実感。

それが本なんだよ、それが情報なんだよと捉え直す機会。

それを通して図書館的な場を分かち合っていけるのではないかと思う。

 

 

 

7月26日社会的インパクト評価研修

7月26日、愛知県主催の社会的インパクト評価の研修に行きました。

社会的インパクト評価、成果志向、ソーシャルインパクトボンド・・いけいけなNPOやソーシャルビジネスのもの・・とひとまとめ、あんま好きじゃないもの・・と思ってて、前のめりで研修を受けに行こう思わなかった。

そうこうしているうちに、基礎基本を改めて学べる機会もなくなっていくのかも?!と思っていたら、ちょうど開催されるということで行きました。
「イベント主催者側でいるのが好き」というのは、実は人の話を座って聴いてるのが苦手であるからなのか・・と思った。学校で授業なんてよく受けられたもんだ。
受け身で聞いてると寝落ちそうだったため、記録を書くつもりでメモを取ったら寝ないで済んだ(汗)

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※レポートは研修の内容をすべて記録しているわけではなく、私が印象に残ったことをピックアップ

しています。

 

最初は藤田滋さんのお話。

日本財団経営企画部パートナー開発チーム 社会的インパクト評価イニシアチブ共同事務局)
社会的インパクト評価とは

休眠預金を民間の社会的事業に活用する際の評価指標として位置付けられているもの。

ステークホルダーがどのように変化していくか。自分たちがテーマにする社会課題が解決されるにはどのようなアウトカムを生み出していくかを考えるのがロジックモデルというフレームワーク

どっちかというと、ファンドレイジングとか助成金を申請するときに示していくもの=社会的インパクト評価なのか?と思っていた。

金をもらうため・・ではなく、自団体の事業の評価と計画づくりに生かしていくためのものでもあるというのは、自分の捉え方が違ったのがわかった。

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津富宏先生のお話(静岡県立大学教授・NPO法人青少年就労支援ネットワーク静岡理事長)

 

「社会的インパクト評価は何のためにあるのか」

社会的にどのようなインパクトを生み出すのか・・それを考えるのは大事。いやいやでもさー、なんでもかんでも評価や成果を求めていく、それでいいのか?!と、成果志向で考えていくことには違和感もある。
事業は、「知のコモンズとケアのコモンズの往復運動」の中で、成熟していく。
知のコモンズは理論、ケアのコモンズは実践。

 

就労支援なら、就労支援の方法としてこうするといいというエビデンスを元に、実践をする。実践してみて、現場レベルで修正していく。

 

その往復運動の「助け」になるのが社会的インパクト評価。
社会的インパクト評価が何のためにあるのか・・というのが「公共をつくっていく」という考え方が私は好きだし、興味がある。

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津富先生:「すべての団体が成果志向で資金分配することには賛同しない」と仰っていた。
これは実際にもう起きていると思う。

助成金申請をしていて、誰でも認識している社会課題への助成金は多くて、そして、その申請のときにも成果志向であることを求められていると思う。

でもそんな大きなインパクトは生み出せないけど、地域の中に人のつながりをつくるとか、市民のシチズンシップを醸成しているとか・・そうした価値を生み出している団体には「価値」ないのか・・世の中全体が、成果志向がいいんだという風に傾いていくとき、成果を出せない団体のことをよく思わないとか、活動がぬるい・・とかって思うようなことも起きているのではないかと思う。

組織が身の丈に合わない成果を求めていくときに、無理な圧がかかることもあるなぁ。
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津富先生「成果、生産性、アウトカムがあることを優先していくと、人権保障が弱まっていくのではないか・・」
(例えば、生活保護を削り、生活困窮の事業に充てるというようなこと・・成果に傾くことは人権を守るために必要なサービスは低下していくのではないか?)

教育なら、上手にプレゼンができる、ハキハキ喋れる、新しいことを創造できる・・そういうアウトプットができる子がいい子。おしゃべりもできないし、フットワークも重い、それではダメだと言い切っていいのか?その子なりの個性・・とか言いながら、アウトプットすることがいいという価値観に人を導いてないか?

学術研究の分野でも世の中に役に立つ分野のこともあれば、すぐに役には立たない基礎研究という分野もあるよね・・とか。

教育、文化、福祉には成果では計れないことがたくさんあるから、社会的インパクト評価とか成果志向に振り切るのは賛同できないなぁと思う。

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津富先生:「人とつながりという価値を社会に生み出している・・というのは、「社会関係資本」という視点で評価していくことも必要」

おお、そうだよね、そんな視点で見ていけばいいのだと思う。では、社会的インパクト&社会関係資本という視点で評価していくようなフレームとか流れはあるんだろうか・・・。。

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感想

・自団体の実態を正しく捉え、本当に必要な計画を立てられるのか?

中長期計画、ステークホルダーがどう変化していくか、社会がどう変わっていくか・・を考えて計画を立てたりすることはよくあることだけど、その中で事実を盛る、背伸びしてみせる、背伸びした未来を描いていくということはあるのではないかと思う。そして、背伸びした未来に巻き込まれていく人たちもいるのでは。研修やワークで考えるので終わり、実際はやれない計画を考えていることってあるあるだと思う。

助成金の申請書にあるから、とりあえず急しのぎで書く。そんな評価とロジックモデルでは何も意味がないと思う。評価を意味あるものにするには、理事の役割も重要ではないかと思う。金を取るためではなく、自団体を映す鏡のようなものとして、使っていけるなら意味があると思うけど、、実際はどうかなぁ・・。

・知のコモンズとケアのコモンズの往復運動→市民社会の成熟

 そこに資するのが「社会的インパクト評価」

評価や調査が活動を成熟させていく・・ということは、知を集積している学術機関や図書館、中間支援組織もまた、社会的インパクト評価に関わっていくということか・・

コモンズをつくることにそれらの組織はどうかかわるのか、それらの組織にも社会的インパクト評価を取り入れようって流れはあるのかな〜?と最後に質疑応答の時間に質問したら、他の人の質問に埋もれ、スルーをされたような気がする・・笑

ソーシャルインパクトボンドで図書館をつくることも出てきたみたいですが。

gendai.ismedia.jp

 

私は、社会的インパクト評価と図書館がつながったー!ということがすごく腑に落ちたんだけど、フロアーの関心と少し違う視点すぎたのだと思うのと、そこで図書館につなげてしまうのは図書館のことを考えている人間だからだと思う。

図書館とそこはつながらないのが、広く一般の人の見方だと思う。

その次元で話し合おうとするとますます遠いものになると思いました。

それに気づいたのが一番大きな気づきだったなぁ。

 

で、研修を受けてみて、私はコモンズをどうつくるかに興味があるということを再認識したのと、これも一つの潮流と遠くで眺めておこうと思いました。笑

社会的インパクト評価のフレームをつくる側の藤田さんと、それでいいの?!と突っ込む側の津富先生、両端いたからとても面白かった。

 

 

 

自分の当たり前は、自分の強みでもある。

Suzuki Minori主催のストレングスファインダーについての企画「魅力の味方」に行きました。

ストレングスファインダーは、弱みを、平均にあげるよう頑張るという視点ではなく、強みをもっと伸ばすという視点。

自分の「強み」は何かを測るテストをして、強みトップ5を出した上で参加者と講師のよこさんとお話しする時間でした。

関わりの長い人、初めて会う人もいて、みんなの資質からその人が見えてきてすごい面白い時間でした。
自分の持っている「資質」は当たり前すぎるから、他の人もそうなのではないか・・と、気づかないところで思っている。

自分の当たり前は他の人の当たり前ではない。
自分の当たり前が、強みであることで、自分が元気になる・・と同時に、その人がなぜそう考え、求めるのか・・その背景に理由があると知ることができる。
相互理解やよりよい関係づくりにもつながるんじゃないかなぁと思った。

 

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自分の強みトップ5

1.内省
・考えるのが好き。自分の考えを様々な方向から考えるのが好き。
・思考が内側に向き、自分と向き合いじっくり考える時間を持つ。じっくり考えて処理する時間を持てると、知恵や明瞭さが生まれる。
・周りの人が視野を広げ、問題の解決や作業品質の向上に新たな方法を発見するための手助けをできる。

2.個別化
・一人一人のユニークな個性に興味を持つ。人を一般化することに我慢できず、個人個人の違いに注目する。
個々の人の性格、動機、考えかた、関係の築きかたに注目する。
・生産性の高いチームをつくるときにも貢献する。
・人によってアプローチを変え、映画の配役担当者のように、人に対する理解力を使って、最適な場所に配置する。

3.最上志向
・他の人が自分の可能性にワクワクできるようにサポートするのが好き。
・平均ではなく、卓越していることが評価基準でそれを追い求める。自分や他の人の得意分野に焦点を当て、弱点を管理する。
・最適な人と最善結果を残すように仕事をすることを好む。

4.戦略性
・混乱をかきわけて、最適な道順を見つける。
・世界を大局的に捉える。
・常にもしこうなったら?を考える。
・繰り疑問を抱いて、未来を予見し、計画し準備する。

5.アレンジ
・最も生産性の高い組み合わせで、要素をアレンジし、自分で管理することを楽しむ。
・常に最善の構成を探す。
・人や資源を調整して効率性を高める。

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すごく合点がいって、まさに自分!!という感じ。

内省がトップ・・
いつも考えてる。
仕事や育児や生活してて、違和感のある現象、面白いことに出会うと、それは一体どういうことだったんだろう・・と自分の中で問いを繰り返して、抽象化、意味をみつけることをやってる。その問いを人にも出す。
そしてブログやフェイスブックに長々と書いてるわ・・。笑

人にも興味があるから、カフェでしゃべってるカップルの会話から、「あー彼氏の話を彼女は鬱陶しそうにしている・・それはどうしてか・・」と考えている。

みんなそんなもんじゃない?と思っていたら、「内省」資質を持っていない昨日の参加者メンバーから、「そんなに考えてるの?!」と驚かれ、「自分が苦なく普通にやっていること」が強みなのだなぁと思いました。「個別化」資質と「内省」資質の間でいったりきたりしている。

内省が暴走すると、現代社会で働きながら生きていくのはとても大変そうだけど、最上志向、戦略性、アレンジ資質の資質が助け、バランスをとる。個別性・最上志向・戦略性は矛盾することもあり、それについて内省して考えている・・
というわけで、2〜5の中で起きることは1で考えるというサイクルになってるんだなぁ。

あと、自分の魂が喜ぶことをてあげないといけない・・と聞いて、「内省」の人は考える時間を持てなくなると魂が死ぬ・・。そういえば、一人の時間を持てなくなると、頭から湯気が出そうになったり、様々な音がストレスフルなノイズに聞こえて、猛烈に一人になりたくなったりする・・

今日みたいなイベントの時も、イベントの前に一息ついて本でも読まないと、脳やメンタルが整わないから、コンビニのイートインスペースでコーヒー飲んてからイベントに行った。。これも内省資質なのか。

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「内省」資質がトップというのは、「まぁそうなるよね」と納得はいくけど、この資質を全肯定できるほど好きかというと・・好きなことばかりでもなかった。

自分が違和感を感じる、なんか違う、本質的にはこんなことが問題なんだ・・と話すと、自分が偏屈、理屈っぽい、めんどくさい!自分とも思っていたけど、これが誇れる強みなら、どうしたら伸ばして、活かせるかということに目を向けようと思いました。

頭の中で転がしていること→ブログの下書きに入れる→公開する・・という段階で、頭の中で転がす、ブログ下書きに入っていることがたくさんある・・笑

未完成でもアウトプットすることをしようと思いました。

めんどうくさいわたし

この前、それはもやっとするな〜と言うことをラインである人にお返事をしたら、

「なんだかアカネさんの言うことは難しい」とお返事来て、プチへこんだ。笑

 

その方は保育園父母会の仲間。

これ、周りの知人・友人には伝わる文だったかも・・と思った。

私も含め、私の周りには論理的な思考の人が多くて、そのノリで発したから、その枠の外にいる人には「難しい」となったんだろうなぁ。

 

もやっとすると思えた現象は、ちっとも難しいことではないけど、言葉があることで「難しく」見えてしまう。

 

「なんだか難しいこと言ってるね」という言葉は、相手の「理解することはやめます」と、シャッターを降ろす意思表明みたいなもので、その瞬間、その人と私との間には壁ができてしまうところが寂しい。

 

こういう感覚、昔にもあった・・とふと思い出した。

子どもの頃、「真面目だね」と言われることが多く、それがとっても嫌だった。

 

高校生の頃に、先生が授業で紹介した本?が面白そうだったから、授業が終わったあとに先生に聞いたら、それを見ていたクラスの男子は「いい子ぶってんじゃねーよ」と笑いながら言ってきた。「いい子ぶってねーよ。バーカ」なんてことを言う肝も座っていなかったから、そうじゃないのに・・という言葉は飲み込んだ。

 

大学は、自分が学びたいことを学ぶために選んで、暗記のためではなく純粋に学問として学ぶということはとても楽しくて、授業は面白いと思っていた。(先生やる気ない、聞いてほしいと思ってないでしょという授業もあったけど。)

 

友達と子どもの保育(児童教育・保育についての学科だった)について思うことをよく話していたけど、「あの子たちはなんだかいつも熱く語っていて真面目だ・・」と、見えている・言われることもあったし、「考えるのめんどくさい」「授業だるい」と、思っている人との間にも壁はあったと思う。

 

本を読む、考える、誰かに話す、これはこういうことかな、こうかなと言葉を使って、現象を理解していく・・ということはとても面白いと思う。

それはある人には「めんどくさい」「オタクっぽい」人と映るのだと思う。

 

「難しい」「考えたくない」と言う人を否定したい、自分は「考えられる」人と上に置きたいわけではない。私にも難しいから考えたくない、そんなヒマはない・・ということがある。(勉強の哲学にんも、勉強することはキモい人になることだ・・と全く同じようなことが書いてありました)

 

「真面目だね」と言われるたびに、自分が思ったことは言わない方がいい、何かを考えたい、知りたい・・と言わない方がここではよいとされているんだ・・と、子どもの頃、周りからそう言われることで思ったものだ。

 

今は、真面目だとか、めんどくさい人と思われても、自分が感じたことを言葉として置いていくことは、また誰かの言葉、自分の次の言葉を生むと思っている。

書けばいいし、表現すればいいと思っている。

難しいことを難しいまま、受け止める。そして、考える、話す。

難しいと思えるからこそ、相手と生まれる対話も関係もあると思う。