7月26日社会的インパクト評価研修

7月26日、愛知県主催の社会的インパクト評価の研修に行きました。

社会的インパクト評価、成果志向、ソーシャルインパクトボンド・・いけいけなNPOやソーシャルビジネスのもの・・とひとまとめ、あんま好きじゃないもの・・と思ってて、前のめりで研修を受けに行こう思わなかった。

そうこうしているうちに、基礎基本を改めて学べる機会もなくなっていくのかも?!と思っていたら、ちょうど開催されるということで行きました。
「イベント主催者側でいるのが好き」というのは、実は人の話を座って聴いてるのが苦手であるからなのか・・と思った。学校で授業なんてよく受けられたもんだ。
受け身で聞いてると寝落ちそうだったため、記録を書くつもりでメモを取ったら寝ないで済んだ(汗)

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※レポートは研修の内容をすべて記録しているわけではなく、私が印象に残ったことをピックアップ

しています。

 

最初は藤田滋さんのお話。

日本財団経営企画部パートナー開発チーム 社会的インパクト評価イニシアチブ共同事務局)
社会的インパクト評価とは

休眠預金を民間の社会的事業に活用する際の評価指標として位置付けられているもの。

ステークホルダーがどのように変化していくか。自分たちがテーマにする社会課題が解決されるにはどのようなアウトカムを生み出していくかを考えるのがロジックモデルというフレームワーク

どっちかというと、ファンドレイジングとか助成金を申請するときに示していくもの=社会的インパクト評価なのか?と思っていた。

金をもらうため・・ではなく、自団体の事業の評価と計画づくりに生かしていくためのものでもあるというのは、自分の捉え方が違ったのがわかった。

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津富宏先生のお話(静岡県立大学教授・NPO法人青少年就労支援ネットワーク静岡理事長)

 

「社会的インパクト評価は何のためにあるのか」

社会的にどのようなインパクトを生み出すのか・・それを考えるのは大事。いやいやでもさー、なんでもかんでも評価や成果を求めていく、それでいいのか?!と、成果志向で考えていくことには違和感もある。
事業は、「知のコモンズとケアのコモンズの往復運動」の中で、成熟していく。
知のコモンズは理論、ケアのコモンズは実践。

 

就労支援なら、就労支援の方法としてこうするといいというエビデンスを元に、実践をする。実践してみて、現場レベルで修正していく。

 

その往復運動の「助け」になるのが社会的インパクト評価。
社会的インパクト評価が何のためにあるのか・・というのが「公共をつくっていく」という考え方が私は好きだし、興味がある。

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津富先生:「すべての団体が成果志向で資金分配することには賛同しない」と仰っていた。
これは実際にもう起きていると思う。

助成金申請をしていて、誰でも認識している社会課題への助成金は多くて、そして、その申請のときにも成果志向であることを求められていると思う。

でもそんな大きなインパクトは生み出せないけど、地域の中に人のつながりをつくるとか、市民のシチズンシップを醸成しているとか・・そうした価値を生み出している団体には「価値」ないのか・・世の中全体が、成果志向がいいんだという風に傾いていくとき、成果を出せない団体のことをよく思わないとか、活動がぬるい・・とかって思うようなことも起きているのではないかと思う。

組織が身の丈に合わない成果を求めていくときに、無理な圧がかかることもあるなぁ。
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津富先生「成果、生産性、アウトカムがあることを優先していくと、人権保障が弱まっていくのではないか・・」
(例えば、生活保護を削り、生活困窮の事業に充てるというようなこと・・成果に傾くことは人権を守るために必要なサービスは低下していくのではないか?)

教育なら、上手にプレゼンができる、ハキハキ喋れる、新しいことを創造できる・・そういうアウトプットができる子がいい子。おしゃべりもできないし、フットワークも重い、それではダメだと言い切っていいのか?その子なりの個性・・とか言いながら、アウトプットすることがいいという価値観に人を導いてないか?

学術研究の分野でも世の中に役に立つ分野のこともあれば、すぐに役には立たない基礎研究という分野もあるよね・・とか。

教育、文化、福祉には成果では計れないことがたくさんあるから、社会的インパクト評価とか成果志向に振り切るのは賛同できないなぁと思う。

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津富先生:「人とつながりという価値を社会に生み出している・・というのは、「社会関係資本」という視点で評価していくことも必要」

おお、そうだよね、そんな視点で見ていけばいいのだと思う。では、社会的インパクト&社会関係資本という視点で評価していくようなフレームとか流れはあるんだろうか・・・。。

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感想

・自団体の実態を正しく捉え、本当に必要な計画を立てられるのか?

中長期計画、ステークホルダーがどう変化していくか、社会がどう変わっていくか・・を考えて計画を立てたりすることはよくあることだけど、その中で事実を盛る、背伸びしてみせる、背伸びした未来を描いていくということはあるのではないかと思う。そして、背伸びした未来に巻き込まれていく人たちもいるのでは。研修やワークで考えるので終わり、実際はやれない計画を考えていることってあるあるだと思う。

助成金の申請書にあるから、とりあえず急しのぎで書く。そんな評価とロジックモデルでは何も意味がないと思う。評価を意味あるものにするには、理事の役割も重要ではないかと思う。金を取るためではなく、自団体を映す鏡のようなものとして、使っていけるなら意味があると思うけど、、実際はどうかなぁ・・。

・知のコモンズとケアのコモンズの往復運動→市民社会の成熟

 そこに資するのが「社会的インパクト評価」

評価や調査が活動を成熟させていく・・ということは、知を集積している学術機関や図書館、中間支援組織もまた、社会的インパクト評価に関わっていくということか・・

コモンズをつくることにそれらの組織はどうかかわるのか、それらの組織にも社会的インパクト評価を取り入れようって流れはあるのかな〜?と最後に質疑応答の時間に質問したら、他の人の質問に埋もれ、スルーをされたような気がする・・笑

ソーシャルインパクトボンドで図書館をつくることも出てきたみたいですが。

gendai.ismedia.jp

 

私は、社会的インパクト評価と図書館がつながったー!ということがすごく腑に落ちたんだけど、フロアーの関心と少し違う視点すぎたのだと思うのと、そこで図書館につなげてしまうのは図書館のことを考えている人間だからだと思う。

図書館とそこはつながらないのが、広く一般の人の見方だと思う。

その次元で話し合おうとするとますます遠いものになると思いました。

それに気づいたのが一番大きな気づきだったなぁ。

 

で、研修を受けてみて、私はコモンズをどうつくるかに興味があるということを再認識したのと、これも一つの潮流と遠くで眺めておこうと思いました。笑

社会的インパクト評価のフレームをつくる側の藤田さんと、それでいいの?!と突っ込む側の津富先生、両端いたからとても面白かった。

 

 

 

自分の当たり前は、自分の強みでもある。

Suzuki Minori主催のストレングスファインダーについての企画「魅力の味方」に行きました。

ストレングスファインダーは、弱みを、平均にあげるよう頑張るという視点ではなく、強みをもっと伸ばすという視点。

自分の「強み」は何かを測るテストをして、強みトップ5を出した上で参加者と講師のよこさんとお話しする時間でした。

関わりの長い人、初めて会う人もいて、みんなの資質からその人が見えてきてすごい面白い時間でした。
自分の持っている「資質」は当たり前すぎるから、他の人もそうなのではないか・・と、気づかないところで思っている。

自分の当たり前は他の人の当たり前ではない。
自分の当たり前が、強みであることで、自分が元気になる・・と同時に、その人がなぜそう考え、求めるのか・・その背景に理由があると知ることができる。
相互理解やよりよい関係づくりにもつながるんじゃないかなぁと思った。

 

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自分の強みトップ5

1.内省
・考えるのが好き。自分の考えを様々な方向から考えるのが好き。
・思考が内側に向き、自分と向き合いじっくり考える時間を持つ。じっくり考えて処理する時間を持てると、知恵や明瞭さが生まれる。
・周りの人が視野を広げ、問題の解決や作業品質の向上に新たな方法を発見するための手助けをできる。

2.個別化
・一人一人のユニークな個性に興味を持つ。人を一般化することに我慢できず、個人個人の違いに注目する。
個々の人の性格、動機、考えかた、関係の築きかたに注目する。
・生産性の高いチームをつくるときにも貢献する。
・人によってアプローチを変え、映画の配役担当者のように、人に対する理解力を使って、最適な場所に配置する。

3.最上志向
・他の人が自分の可能性にワクワクできるようにサポートするのが好き。
・平均ではなく、卓越していることが評価基準でそれを追い求める。自分や他の人の得意分野に焦点を当て、弱点を管理する。
・最適な人と最善結果を残すように仕事をすることを好む。

4.戦略性
・混乱をかきわけて、最適な道順を見つける。
・世界を大局的に捉える。
・常にもしこうなったら?を考える。
・繰り疑問を抱いて、未来を予見し、計画し準備する。

5.アレンジ
・最も生産性の高い組み合わせで、要素をアレンジし、自分で管理することを楽しむ。
・常に最善の構成を探す。
・人や資源を調整して効率性を高める。

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すごく合点がいって、まさに自分!!という感じ。

内省がトップ・・
いつも考えてる。
仕事や育児や生活してて、違和感のある現象、面白いことに出会うと、それは一体どういうことだったんだろう・・と自分の中で問いを繰り返して、抽象化、意味をみつけることをやってる。その問いを人にも出す。
そしてブログやフェイスブックに長々と書いてるわ・・。笑

人にも興味があるから、カフェでしゃべってるカップルの会話から、「あー彼氏の話を彼女は鬱陶しそうにしている・・それはどうしてか・・」と考えている。

みんなそんなもんじゃない?と思っていたら、「内省」資質を持っていない昨日の参加者メンバーから、「そんなに考えてるの?!」と驚かれ、「自分が苦なく普通にやっていること」が強みなのだなぁと思いました。「個別化」資質と「内省」資質の間でいったりきたりしている。

内省が暴走すると、現代社会で働きながら生きていくのはとても大変そうだけど、最上志向、戦略性、アレンジ資質の資質が助け、バランスをとる。個別性・最上志向・戦略性は矛盾することもあり、それについて内省して考えている・・
というわけで、2〜5の中で起きることは1で考えるというサイクルになってるんだなぁ。

あと、自分の魂が喜ぶことをてあげないといけない・・と聞いて、「内省」の人は考える時間を持てなくなると魂が死ぬ・・。そういえば、一人の時間を持てなくなると、頭から湯気が出そうになったり、様々な音がストレスフルなノイズに聞こえて、猛烈に一人になりたくなったりする・・

今日みたいなイベントの時も、イベントの前に一息ついて本でも読まないと、脳やメンタルが整わないから、コンビニのイートインスペースでコーヒー飲んてからイベントに行った。。これも内省資質なのか。

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「内省」資質がトップというのは、「まぁそうなるよね」と納得はいくけど、この資質を全肯定できるほど好きかというと・・好きなことばかりでもなかった。

自分が違和感を感じる、なんか違う、本質的にはこんなことが問題なんだ・・と話すと、自分が偏屈、理屈っぽい、めんどくさい!自分とも思っていたけど、これが誇れる強みなら、どうしたら伸ばして、活かせるかということに目を向けようと思いました。

頭の中で転がしていること→ブログの下書きに入れる→公開する・・という段階で、頭の中で転がす、ブログ下書きに入っていることがたくさんある・・笑

未完成でもアウトプットすることをしようと思いました。

めんどうくさいわたし

この前、それはもやっとするな〜と言うことをラインである人にお返事をしたら、

「なんだかアカネさんの言うことは難しい」とお返事来て、プチへこんだ。笑

 

その方は保育園父母会の仲間。

これ、周りの知人・友人には伝わる文だったかも・・と思った。

私も含め、私の周りには論理的な思考の人が多くて、そのノリで発したから、その枠の外にいる人には「難しい」となったんだろうなぁ。

 

もやっとすると思えた現象は、ちっとも難しいことではないけど、言葉があることで「難しく」見えてしまう。

 

「なんだか難しいこと言ってるね」という言葉は、相手の「理解することはやめます」と、シャッターを降ろす意思表明みたいなもので、その瞬間、その人と私との間には壁ができてしまうところが寂しい。

 

こういう感覚、昔にもあった・・とふと思い出した。

子どもの頃、「真面目だね」と言われることが多く、それがとっても嫌だった。

 

高校生の頃に、先生が授業で紹介した本?が面白そうだったから、授業が終わったあとに先生に聞いたら、それを見ていたクラスの男子は「いい子ぶってんじゃねーよ」と笑いながら言ってきた。「いい子ぶってねーよ。バーカ」なんてことを言う肝も座っていなかったから、そうじゃないのに・・という言葉は飲み込んだ。

 

大学は、自分が学びたいことを学ぶために選んで、暗記のためではなく純粋に学問として学ぶということはとても楽しくて、授業は面白いと思っていた。(先生やる気ない、聞いてほしいと思ってないでしょという授業もあったけど。)

 

友達と子どもの保育(児童教育・保育についての学科だった)について思うことをよく話していたけど、「あの子たちはなんだかいつも熱く語っていて真面目だ・・」と、見えている・言われることもあったし、「考えるのめんどくさい」「授業だるい」と、思っている人との間にも壁はあったと思う。

 

本を読む、考える、誰かに話す、これはこういうことかな、こうかなと言葉を使って、現象を理解していく・・ということはとても面白いと思う。

それはある人には「めんどくさい」「オタクっぽい」人と映るのだと思う。

 

「難しい」「考えたくない」と言う人を否定したい、自分は「考えられる」人と上に置きたいわけではない。私にも難しいから考えたくない、そんなヒマはない・・ということがある。(勉強の哲学にんも、勉強することはキモい人になることだ・・と全く同じようなことが書いてありました)

 

「真面目だね」と言われるたびに、自分が思ったことは言わない方がいい、何かを考えたい、知りたい・・と言わない方がここではよいとされているんだ・・と、子どもの頃、周りからそう言われることで思ったものだ。

 

今は、真面目だとか、めんどくさい人と思われても、自分が感じたことを言葉として置いていくことは、また誰かの言葉、自分の次の言葉を生むと思っている。

書けばいいし、表現すればいいと思っている。

難しいことを難しいまま、受け止める。そして、考える、話す。

難しいと思えるからこそ、相手と生まれる対話も関係もあると思う。

 

ジェンダーもやもや会(2018年5月13日)

ジェンダーについて日頃もやっとすることを話そう!と友達と集まって話す会を行いました。みんなスクールカーストの低層に生息していたのね?!ということがわかり、みんなそれぞれサバイブしてきた歴史があったんだということがわかりました。

 

以下備忘録

たまたま、私が机に置いていた本を切り口に話は展開。

「承認をめぐる病」斎藤環 ちくま文庫

「勉強の哲学」千葉雅也 文藝春秋

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教室の「キャラ化」と「コミュ力」について

「承認をめぐる病」で書かれていたことを要約すると・・

クラスの中で、いじられキャラ、おたくキャラ、天然キャラ・・などのように、「自分」がどんな人間かが固定化されている。そしてその「キャラ化」が序列化、スクールカーストを生んでいる。

スクールカーストの序列を決定ずけるものは何か。

それは、「コミュ力」(コミュニケーションスキル)

ここで言う「コミュ力」とは、場の空気が読めて、笑いが取れるような才覚のことを言う。カースト最上位のグループは、自分はいじられることはなく、ほかの生徒をいじって笑いが取れるエリートの集団。最下層のグループはスキルが低いために他の生徒に絡むことが増えてでいじられ、笑われ、あるいはときにいじめの対象となる。

教室のような限られた空間において自分の居場所を獲得するために「キャラ」を必要とする。生徒間に身分差はないが、キャラには身分差がある。

キャラとしての承認を求めることは、必然的に承認の根拠を他者とのコミュニケーションに依存することを意味する。

承認とは本来、客観的な評価(個人の才能や能力、成績や経済力、親の地位や家柄など)に基づいて行われていたのが、承認の基準は、相対的かつ間主観的な「コミュ力」に一元化されつつある。

「承認」とはなんぞやというところについては、その後に、ヘーゲルラカンの理論から解説されているけど、今回は割愛。

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スクールカーストのようなことは、会社の中にもあることだ・・。

 中高生のクラスの中でいけていない奴のことをあざ笑ってネタにする・・という会話や関係性は企業の中にもある。

 

スクールカーストのようなことは中高生の教室の中で強く感じたけど、大学生になると、みんな大人になるのか、「教室」という閉じた場所ではないからか、互いの存在を認め合うようになる。クラスとか無くしたらいいんじゃない?

スクールカーストというものはないようで、漂っている見えない壁。

 底辺にいた人たちは、上位にいる人(キラキラ、面白い、明るい、おしゃれ)たちと話してはいけないくらいの断絶を感じていた。

 

・セクハラ×パワハラ

女であることを売りにして、仕事を取っていくということは、古くから様々な業界の中にあり、それが普通のことになりすぎて、感覚が麻痺している。

上の世代がそれをよしとしてきたために、今も残っている。

Me too のように発信する人がで始めたことで、告発をする人も出てきた。

 

働き方改革したいなら、マッチョな組織文化を変えていくことが最も大事じゃないか?

 右向けと言えばみんな右を向く、そこにある文脈、価値観に違和感を持つ人の神経を壊していくような組織の文化そのものを変えていくことなのではないか・・と思うけど、高度経済成長を支えた世代がそうしたやり方をよかった、それで鍛えられるんだ・・と善としているから変わらないのでは。

それぞれの環境の中にある価値観、文脈、「こうするもんだ」という中に、人は生きていて、ある一つの目的を持つ環境のことを「環境のコード」と言う。

そこに同調するか、そこに違和感を持つか。違和感を持ち、違う環境へとお引越しするのが勉強・・というのは「勉強の哲学」に書かれているのでよかったら読んでみてね。

 

スクールカーストがある世界に子どもを送り出す不安・・

どんなに親が受容的な態度を取っても親と子どもという関係がある以上、力関係は生まれてしまうのではないか。親が完璧な存在になろうとするよりも、スクールカーストの中で生きずらくても他で生きていけるサードプレイス、人を資源として持っていってほしい。

 

 

 

 

 

 

子育てトークと二元論

以前、自分よりも年上の子どもを持つ友達と話していて、友達の1人は子どもチャレンジのような通信教育をしていて、もう1人は自分もやろうかな・・と話していた。

通信教育に興味がない私も、そういうのをやらないと、情報を取りこぼしていくかのような空気になった。

 

情報過多の今の時代、「正しいことをいかに選ぶか」ということが子育てをする人を苦しめているようにも、それが子育てには大切だとも言われているようにも思うけど、「正しいことを選択」するのが子育てではないと、思って子育てするのをポリシーとして心に思っている。

 

さとちんが赤ちゃんの頃、子育て系の講座、シュタイナーなどの幼児教育の講座などに行ったほうがいいんだろうなぁ・・と思ったけど、行こうとは思わなかった・・

特に⚪︎⚪︎式という教育方法についての講座は、これがいいのよ!という「正しさ」の圧を受けそうだなぁと思った。

 

「正しいこと」はどこにもない。

何かを選択したら、何かを選択できない。

 

何がどのように作用して、出会って、どんな人になるかわからないから面白いのではないか・・と思うけど、いざ子育てになると、「正しいことを選ぶのが親の責任である」というプレッシャーが親の心の中に現れ、環境からも受けるように思う。

 

正しいことを探すんじゃなく、日々観察と観察で気づいたことを試行実験できてさえしていたらいいんじゃないかなぁと思う。

 

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「子育てには正解がない」とみんな言うけど、「正解」を結局はみんな求め、「正しいかどうか」という二元論に支配されているんじゃないかと思う。

 

ただ自分が気づいたことをぽんと置く・・そのノリで、子育てでの気づきを同じく子育てをしている人に話すと、「自分はできてすごいでしょ」みたいな構図になってしまう。

 

会話をする人と自分との間には、正しい・いい母であるか・・という価値基準が無自覚に流れている。

育児においての気づきも、「ほら私はこんなに正しいことをしているのよ」的な圧として、私の言葉を、相手は、「自分はできていない・・」と感じてしまうものとして、受け止めるんじゃないか・・と思うと何にも言えなくなる・・。

 

中高生の時に、テスト前に「全然テスト勉強していない~」と、ほんとは勉強やってるくせにみんな言うみたいな感じで、自分がいかにちゃんとやっていないか・・全然できていないか・・ということを、謙遜して言うのが、会話のテンプレート。

そうやって言っているほうがお互いに安心する。

 

気づきをただ気づきとして言えない、一つ一つの言い方を考えて言わないといけないなんて、面倒だ・・。だから、子どもが赤ちゃんの頃から子育てをする当事者同士が子育ての話をする場所に全く行きたいと思わなかったんだなぁ。

 

でも、大学時代に一緒に子どもの保育のことを考えて色々話した友達や、子どもを産む前からの友達には気づきをただ、気づきとして置くように話すこともできる。そこには正しいかどうか、比較する、評価する・・ということは相手と私の間にはないからだと思う。

 

子育てトークには「正しいか」「いい母親か」という二元論から、そこにいる人が自由になることと、安心安全に話せるという自分と相手との関係が大切なんだなぁと思う。

 

日々続いていく子育ての流れの中での観察と気づきをただポンと置くという風に会話をしたいんだがなぁ。そのように観察したことをただ言う時、「客観的ですごいね、私はそんな風にできない」と言われるとそれは褒められたのかもしれないけど、なんだかモヤっとする。

いつも冷静で、客観的であるわけでもないし、そんな私がすごいでしょと言いたいわけなのではなく・・もごもごと思う。「子育てに正しいことはない」という考え方さえも、相手が二元論で捉えていたら、相手には正しさとして心に届いてしまう・・。

お互いに観察したこと、気づいたことをただシェアできたらいいのにな・・。

 

さと1歳8ヶ月の記録

1歳8ヶ月の記録(2018年2月)

 ・イヤー!となると倒れこんで泣く。
 朝起きてから、保育園から帰宅してからずっとイヤイヤ、泣いてる気がする・・

 

・服を選ぶようになる。

今までなんのきなしに、今日着る服を出して着せていたのが、今日はこれがいい!と伝え、ちがーう!とそれがスイッチになって泣くことしばしば。なので、昼間からはらぺこあおむしのパジャマを着ていたり、昨日履いたアンパンマンのズボンを今日も履いていたり。靴下も選ぶ~といって選ぶ。

 

・問題はそこじゃない!

これも嫌、あれも嫌って言っている時は、嫌なのではなく実は眠いかお腹が減っているか疲れた時。

 

・テキトーに返事をする。

 

夜ごはんを17時台に食べると、19時くらいにおやつ~となって、おやつがあるところに手を伸ばす。

「1個だけだよ」というと、

(おかーさん何言ってるかわからんけど、とりあずウンウンって言っとこ!)という感じで、ニコニコしてウンウンとテキトーに返事。すぐに食べてもう1個!と言いに来る。

 

・両足で足踏みできないでもどかしそう。

 

・保育園で、お友達との関係ができる。

 いつもはぼーっと見ていることも多いらしいけど、触発されて一緒にやるようなことも増えてきたらしい。

 

・怖いという感情がある。

 NHKでばい菌みたいなオバケのぬいぐるみが登場した時、怖くて怯える。

  

・甘える

 おかーさん抱っこ~と甘える。

 

・ハングル、中国語みたいな抑揚のさとちゃん語を話す

 まだ日本語ではなくて、バブバブ赤ちゃんっぽい言葉ではあるんだけど、一応さとちゃんなりのリズムに乗って喋っている。

 

・泣くのをこらえる

 終わり、ダメというニュアンスを受け取ると、半べそになってぜーはー言って泣くのをこらえている時がある。

 

・わんわん・とーたん・たーたんに加えて話せる言葉が追加。

 「あいしぃ~」(美味しい)「こぅでぇ・・」(コレ)

運動トラウマ

今シーズンもスキーに2回ほどこっそり行きました。

 

たった2回なのに、ちゃんと成長する!

前はターンや急なところも転ぶというリスクは常に頭にあって恐る恐るなところはあったけど、今年は転ぶ不安がない。

「曲がろう・ターンしよう」と思わないでいいときは上手にターンができる。

これって多分、無駄な力が入ってないということなんだろうなと思う。

そして板をまっすぐにしたままターンもできる・・!すごい!!と一人で感動してニヤニヤしそうだったけど、モリソンによれば、初級の中の一番上、あと少しで中級だそう・・。

 

でも、私の人生史上で「運動して何かができるようになっていく」とか、「人と同じように成長曲線に乗れる」ということはなかったので、自分の人生史上ではこれはすごい出来事。

 

「運動が苦手キャラ」でずっと生きてきて、むしろ、運動部的なノリとかキラキラ感から距離を置いて眺めていたときもあったのに、今更、「運動ができる」という体験とか、「スキーって楽しい〜」とか声に出すことが死ぬほど恥ずかしいけど、スキーは楽しい・・。

 

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ちょうど、「運動トラウマ」がある人のためのランニング教室のことを知り、運動トラウマ・・自分にもあるなぁと思った。

 

一番古い思い出は、小学校のドッジボール。いつも一番に当たる。当たっても中に入れない。とろくさいので、一番に狙われる・・。

大縄跳びで、みんなで数をカウントして入る・・そんなの絶対タイミングとって取れない、記録をぶち壊すだけ。私はご遠慮願いたいわ・・と思う。

ポートボールのチーム編成で、選手をトレードするときに、チームの人から「能力」がないとみなされた私は、トレードに出される。

持久走も、持久走の日までに地震が来て学校が休みにならないかなとか、学校が爆発されたらいいのに・・と、思いながら迎え、持久走の日1日が嫌で嫌で・・。

走るとみんなを待たせて周回遅れでゴールする。

そういうことばかりで、体育の時間(あと音楽の時間もだ)は、自分はみんなに迷惑をかける存在でしかない・・と思っておりました。

 

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 体育の授業の中でも、水泳だけ得意だったけど、水泳もスキーも自分との対話型のスポーツだと思う。

こうするといいかなと自分でやって、振り返って試して・・で、うまくなっていく。他の人に迷惑かけないように上手にできないといけない・・・という圧力がかからない。

夫・モリソンも「学校の体育」の球技や大縄ではおんなじ思いをしていたみたい。

モリソンも私も多分そうしたタイプの人間なんだと思う。

 

そう思うと、学校の体育の授業の本当の狙いは、スポーツを楽しむということよりも、お友達と仲良くやるとか、協調行動、集団行動を培うという狙いの元で設計されていたのではないかと思う。

 

そのフォーマットにはまっていける一定の運動能力とか器用さがある人はそのフォーマットの中で運動への自己肯定感を高めて、成功体験を積んでいく。

そのフォーマットに乗れないモリソン・私的な人間に向いてるスポーツの種類もあるのではないかと思う。学校が提供するスポーツのフォーマットにはまれないだけで、運動を楽しめる能力が全くゼロ、「運動が得意なあの人たちの世界にはいけない」ということを思わされていたのだなぁ・・と思う。