娘、10ヶ月になりました。
10ヶ月になりました。1歳まであと2ヶ月!早い〜。
この1ヶ月の変化といえば、つかまり立ちと、はいはいが腕で腰・お尻を持ち上げてはいはいする「高這い」になったこと。
できたことを認めてほしいと、私の顔を見ることが増えた。
これもコミュニケーションだと思う。
言葉によるコミュニケーションはできないけど、仕草やバブバブ言う喃語で、本人が伝えようとしているのを感じる。コミュニケーション=言葉と思いがちだけど、実は違うし、言葉以前にコミュニケーションは始まっているのだと思う。
9ヶ月⇨10ヶ月の変化
・つかまり立ちできるようになる。
・はいはいの姿勢から座れるようになる。
自分では座れないから、私が持ち上げて座らせていたけど、それをやる必要はなくなった。プレーリードックみたい。
・「物と物をぶつけると音がなる」ということを発見して、鳴らす度に「音がなるよ!」とドヤ顔で私の顔を見る。自分が能動的に関わって動かす、音を鳴らすということが面白くてたまらない様子。なんでも嬉しそうに振り回して、音を鳴らして遊ぶ。
・いないいないばぁをセルフでやる。
私がいないいない〜というと、布で顔を隠す。
・積み木を手に持って、私の前に「ぶつけて〜」と差し出す。ぶつけると喜ぶ。
・うつ伏せ寝をするようになる。
コロンコロン転がれるようになったからか?
・気になるものを触りたそうに人差し指を伸ばす。
気になるものに対して、「あっ⚪︎⚪︎だ!」と指を指しているというよりは、触ろうとしているように見える。
・「自分でやりたい」「それを触りたいのに〜」「ヤダヤダ」と自分の欲求を主張する。抱っこを求めることが多くなって、家事がままなりません・・w
子どもを託して外泊してみた。
結婚する前も、結婚してからも1年に2〜3回一人で国内旅行に行っていて、
妊娠・出産で2シーズンは行っていない。ああ行きたいな〜と思いながら、ずるずると予定を立てずにいた。
ある本を読んでて、暮らしを楽しくするヒントとして、「娯楽の予定を立てましょう」という項目をみた時に、〝そういえば、娯楽の予定って最近考えたことがない!〟と、ハッと気づいて、その日にエイっと、宿を予約してしまった。
夫は、いいよ行っておいで〜と軽々と返事。
一人で旅行に行くんだ!と決めたものの、いつもならわくわくするのに、なぜか憂鬱。
母乳ではないから、母がいなくても食について困ることはなさそう。
日中も父と二人で過ごすことが多いから大丈夫そう。
夜、寝る時だけが、気がかり。
夜の寝かしつけは私が担当していて、夫だと絶対に寝ない。
旅行に行く1週間前から夫の寝かしつけも試しておこうと思って、担当してもらうも、「担当者がそこにいるのに〜!!!担当を出せ!」とばかりに、この世の終わりみたいな泣き方をして、寝る気配なし。で、私が代わるとピタっと寝る。
「やっぱり母が必要なのね〜」なんて言ってほしいんじゃなくて、もしも一晩いなかったらこの壮絶な泣き方を一晩中続けるのか・・そして、それに夫は一人で対応するんだろうか・・と考えたら、私が旅行に行くことは誰にとってもいいことはないのではないか・・と、思った。
やっぱり行くのやめる・・か、日帰りにするか・・と、うじうじと考えていた時、
ここで予定を変えたら、きっとあとあと、「私ばっかりいけない」と根に持つのではないか・・・と思って、予定は変えずに行くと決めてしまった。
どんな1日を過ごすのかと、ドキドキして、出発。
旅行を楽しんで、宿で夫から、21:00くらいに就寝メールが来た。
なんとー。信じられない・・。1泊2日して、帰った日もいつもと同じようにミルクを飲んで、眠りにつきました。
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今回、旅行に行ったのが、いい学び、経験になったと思う。
子どもを産む前は、365日毎日お世話をしているうちの1日夜いないなんてことはできるものだと思っていた。
こんなにも子どもと離れるということが、自分ができないなんて・・。
これからも、このまま進むべきか、止まるべきかと迷う場面がたくさんあると思う。
泣き叫ぶ娘を見て、「やっぱりいけない」と思ったように、大丈夫できる!なんていうことはなくて、考え出すとなんにも「できない」ように思える。
たくさんの「できない」を心に溜めていると、世の中も、夫も娘のことも曇って見えてくるんだろうな〜と思う。
なので、最初の一歩を踏み出してみる経験が大切で、それをしないといつまでも「できない」ところから進んでいけないのだと思う。
さと9ヶ月
さと9ヶ月になりました〜。
ずり這いで自分で動けるのを謳歌していますw
ずり這いから、膝立ちができるようになって、ますます楽しそうです。ますます目が離せない。
8ヶ月⇨9ヶ月
・つかまり膝立ち完成。
毎日毎日ゼーハー言って、足をプルプルさせながら、鍛錬。赤ちゃんってエライね。。
ラクラクつかまり膝たちできるようになりました。
・面白いものを見つけると同意を求めるようにこちらを向く。
・床をペシペシ叩く。
何かを叩いて音を鳴らすのを楽しむ。
・手づかみ食べできるようになる。
ほとんど落下していたりするけど、一人で黙々と食べているときに私がゆっくりご飯が食べられることもある。
・私が何かを食べていると「うまそうだな」と、よってくる。
・気になるものを人差し指でつんつん触る。
・言葉の意味がわかっている?
「いないいないばあ」で、いないいない〜というと自ら顔を出す。
よく読む、きむらゆういちの「ごあいさつ」で、
〝ことりのぴいちゃんがやってきて トントントン こんにちは〟というところで、私がトントンと本を叩くんだけど、その場面になると自分からペシペシと叩いている。
・遊んでいるときに、取り上げると怒る。
・ペンとか、危ないもので遊んでいて、取り上げて隠すと探す。
・毎日の日課
タンスの引き出しからタオルを出す。
おしりふきのケースからおしりふきをつまんで出す。
目の前にある社会
妊婦になったころに、「マタニティマークをつけていると電車やバスで煙たがられる・・・」というような、声をネットで見たけど、実際はそんなことは全然なく、
席を譲ってもらえたり、お腹が大きくなってきたら、話しかけてくれた人が妊婦だったころの話なんかをしてくれた(たいてい、おばちゃん)
子どもを育てるようになって、「ベビーカーうざい・・」とか、「電車やバスで赤ちゃんが泣きやまないと冷ややかな目で見られる」というような声もネットで見るけど、
そんなことを、感じたことがない。
ウチには車がないから、生まれてからずっと、電車・バス移動。
バスに乗るときはベビーカーを固定してもらう。
ベビーカー固定してもらう時、しばらくの間停車するけど、周りからネガティブな感情を受け取ったことはない。娘がぐずったりすると声をかけて、あやしてくれる。
いつものミスタードーナツで、ぐずりだした娘を抱きながら、「そろそろ帰ろうかな」と思ってコーヒーを飲んでいたら、隣に座っていたおばあゃん2人が「抱っこしてあげようか」って言ってくれた。お手洗いに行きたかったから、その間みてもらうお願いしたら、快くOK!と言ってくれた。
インターネットの中に渦巻く、様々な状況の人への心ない言葉の数々は、そのまま全ての人の思考で、そして、社会全体を現しているかのように錯覚してしまう。
でも、それって私の目の前に見えている社会ではない。
今の社会全体は、不寛容で、殺伐としている。
昔は、人々が暖かくて、余裕があって、思いやりがあった。
見慣れた表現でもって社会を見ると、そのように見えるものなのかもしれない。
自分の目の前にある風景を信じたら、みんなが思っている社会の姿は変わるのではないかと思う。
堂々と助けを求める
今朝、起きたら膝が痛い!
病院に行きたい・・。
でも、診療中、じっとしていられない娘を見ている人が必要。
⚪︎⚪︎さんは仕事だなぁ・・
⚪︎⚪︎さんも、子どもがいるから難しいよな〜
⚪︎⚪︎さんに遠くから来てもらうの申し訳ないな〜
当日の朝にお願いなんて申し訳ないな〜
森ママ(義母)は仕事かなぁ・・
夫に早めに帰ってきてもらって夕方行くかな〜。でも、仕事を早く切り上げれば、その分どこかで時間を取らないといけなくなるから、できれば外部リソースの力を投入したい。
色々、考えをめぐらせ、何かあったらお願いできる人リストの人たちに連絡できず、
結局フェイスブックで募集した。(お願いしてしまうと、相手も申し訳ないーって感じになるから、できる人に手を挙げてもらう、フェイスブック募集がいい)
すると、すぐに、私できるよ!って言ってくれる人が現れ、病院に行くことができた。
「こんなことをお願いしたら申し訳ない」って思っているうちに、自分のためのことが置き去りになっていくのだと思う。
こんなところに困ることがあるんだと、子どもを産んでわかった。
ちょっと病院にいくなんてことに「困る」なんてことはない、行きたいと思えば、行けたのが子どもがいなかった頃。
でも、今は、病院に行きたいと思ったら、その瞬間に色々なことを段取りしないと行くことができない。
そこに人の助けが必要。
私の周りの人たち、今まで気づいてあげられなくてごめんなさい・・・って思う。
私みたいにフェイスブックで助けてなんて募集している人、見たことないし、みんなきっとやりくりしてやってるんだろうなぁ。甘えすぎなんじゃないか?という思いもよぎるけど、自分が「困っている」ということが事実なんだと思う。
「こんなことを頼んだら申し訳ない、甘えてるんじゃないか、もっとやれるんじゃないか」って思うことそのものが、育児を自分一人で抱える、孤立の始まりではないかと思う。
だから、困ったら、助けてっていうことをどんどん言った方がいいんだろうなと思う。どんどん言っていけば、これから先も、助けを求めることも、助けることも当たり前にできるのではないかと思う。
人に会うのが面倒くさい
子どもを産んで育てて、7ヶ月経過して、7ヶ月は毎日が日曜日みたいな感じ。
さとさんの午前睡の時間が終わると、だいたい10時から11時。
どっか、外に出ようと思う。もしも出なかったら、このまま忙しく夕方のご飯の準備して、1日が終わってくんだろうなぁと思う。
さて、どこに行こう・・と思った時に、
そこに行って、「何ヶ月ですか?」って声かけられて、「頭がふさふさですね」って言われて・・・って会話があるんだろうなぁ・・・なんてことを想像すると、「面倒くさい・・」と思って、児童館や子育て支援センターは「却下」となる。
児童館や子育て支援関連のお仕事をしてる人ごめんなさいー!
場の価値そのものを否定しているワケではありませんので・・。
母になる以前からの自分は、どういう人間であったかってことだと思うんだけど、もともと、私は、一人で行動するのが好きで、表面上の会話が苦手な人なんだった。だから、知らない人に会って、誰にでも共通の話題となるような会話を続けることは疲れることなんだった。
改めて、私は一人が好きで、会話が苦手な人だったんだと、長いお休みを機にわかった。そんな会話をするなら、本を読んで、本の中の人と対話してたいと、思ってしまう・・。笑
だから、最近、知らない人に会うのが面倒くさい病・・。
んーどこに行こうって思って、あ、あれを買いに行こうとか適当に目的を見つけ、買いにいく、ご飯を食べる・・という過ごし方をするけど、消費することでは心は満たされないんだなぁと思う。こうやって行き場のない人たちがイオンに集まってるのかもね。
だから、
市民活動支援センターに行って、まこちゃんに会うとか、
地域資源長屋なかむらに行って、起業支援ネットの皆さんや、さとちゃんのばーばとなってくださる皆さまにさとさんを抱っこしてもらうとか、
カレーのさいさいに行って、店長と話すとか、
図書館に行って、司書さんとおしゃべりするとか、
大門の実家に行って、森ママ・お義父さんに会うとか、
自分のソーシャルキャピタルである場所に行って、そこにいる人に会って・・基本行動は一人という過ごし方をしている。そういえば、子どもを産む前もこうやっていつも過ごしていた・・自分の過ごし方ってのは変わらない。
どんな思いを抱いているか、どんなことを学んだか、興味があるか、違和感を持っているか・・ということを話せる場所や人。日々の暮らしや人生で、人に出会って、支援をしようなんて思わないけど、互いに支援されているような場や人が、私にとっての子育て支援の場なんだと思う。
赤ちゃんを育てるのに、24時間稼働はしていても(あ、最近は24時間も稼働してないか・・)、どこかに雇われているわけでもなく、1日はどう過ごそうか自由で、忙しいのに時間がたくさんある・・。
仕事をしていたら、仕事で出会う人々のコミュニティの中で日々は続き、毎日行く場所があり、毎日やることがある。なんて素晴らしいことなんだーもうお休みは終わっていい!と思っていたけど、今だから出会える人たちもいるから、それを大切にできたらいいな。
身の丈に徹するからこそ見える世界観
起業支援ネットさんに、にんげん図書館のことを相談に行きました。
これからどうするか?と、どっちに行こうか?と考えるときに必ず相談に行く。
昨年卒業した起業の学校の卒業証書には、
「身の丈に徹するからこそ見える世界観を丁寧に育み、本と人をつなぐ事業を通して、小さなところに宿る『にんげん』の根源的な美しさを世に問い続けることを強く期待し、ここに第11回起業の学校後期課程全課程を修了したことを証します。」と書いてある。生徒、一人ずつに、その人を表現するような言葉を書いてくださる。
修了証書に書いてあるくらいなんだから、私にとって、「身の丈」であるということはとても大切なことなんだなーと思う。自分がやれない、やりたくない身の丈ではないことを掲げても、後から辛くなるし、きっとやりたくなくなる。
「身の丈」って挑戦せずに、無理せず、頑張らずにやる・・・みたいな印象もあるけど、それとも違う。
自分のやりたいことや、自分のやれなさや、自分の弱さから逃げないのが身の丈。
何かをやり続けるということは面倒なこと、やりたくないけど、自分の中でちょっと頑張ることの連続なのだと思う。やりたいけど、やりたくない、面倒くさい、怖いっていう気持ちもいつも同時にある。
起業支援ネットさんに行って、久野さんや鈴木さんの前では、嘘はつけないと思うし、身の丈以上、虚勢を張るようなことは言えないと思う。
やりたいけど、面倒くさい、やりたくないっていう気持ちから逃げないために、面談しに行って、自分の中でちょっと頑張る、腹をくくるために、相談に行く。
そして、相談に行くと自分の目の前に既に存在していた階段が見えてくるんだな〜と、相談の帰り道で思いました。