分からないことを分からないまま探索する

阿部謹也の「世間とは何か」を以前読んでいたら、網野善彦の「無縁・公界・楽」が参考文献で出てくる。少し経って、神崎宜武(宮本常一系の民俗学者)の「盛り場の民俗史」を読んでいても、「無縁・公界・楽」が出てくる。あら、この本は重要な本なのね・・!とわかってくる。そういえば、網野善彦の本はいっぱいあるのに読んでなかったわ・・!と思い出して、家の本棚の本を読んでみる。

 

何冊か読んでいると、網野さんが言いたいことはコレだったのね・・とわかってくる。

どの本でも、百姓についての言及が出てくる。違う本の中での言い換えを読むことでまた理解も深まるし、網野さんのこだわりたいところだったんだなぁとわかる。

著者の考え方がだいたいわかってくるため、著者の違う本、関連する領域の本を読んでも、前に読んだことがベースとなりスーッと頭に入る。

阿部謹也さんの本も神崎宣武さんの本も全部数年来のつんどく本で、積んでおくだけの本こそ大事だね!と思う。

 

ぼんやりした世界ところにいろいろ見えるようになってもっと読んでみたい~と思うようになる。

 

例えば、1冊の本を読んで全然わからないところがあったとしても、わからないところをわからないままにしておくと違う世界が見える・・という感覚はこういうことかなと思った。(勉強の哲学で確か書かれていたような気がする)

1冊の本で読んだことが積み重ねとして残り、次の理解につながる。

 

手取り早く、わかりやすく伝える、教えるばかりの情報提供は溢れている。

本でも、ビジネス系の本だと太字で大事なところを太字で書いてあるというのも多いけど、私は、「大事なところは自分で見つけるわ・・!」と、押し付けられたように感じるし、鬱陶しく思う。

 

手っ取り早く、「~分でわかる」とか「これで絶対わかる」という本などで、自分の頭ではなく、誰かの頭でもって階段を一足跳びに飛んだときと、自分の頭で自分の階段を上がったとき、どちらも同じところに行けるということではないように思う。それが全てではなくても、人から見たら間違っていても、ゆっくりでも、自分で得てきたという感覚のものは自分の中に残っていく。

でも、「わからない」という時期を過ごすのは辛いことでもあるし、非効率とも言える。効率ー非効率という軸だけで見ていたら、わからない時からわかる楽しさは見えないのだろうなぁと思う。

 

知るということの楽しさは新しい世界が見えること。

「知性」はあった方がいいと、みんな思っているようだけど、それが何のためなのか?と問われるとなんだかぼんやりとしてしまう。

知ることが楽しい、探索していく楽しさ・・その実感がその人の中にないなら、そんな知性求めなくていいと思う。誰かより優位に立つため、誰かにバカに思われないためにわかっていないのに知識で武装していくことではないと思うなぁ。

 

         

教えなくてもいい。

我が子、ただいま2歳8ヶ月。

少し前に、いとこのなおくん5歳がはさみを使っているのを見る。

やりたい!!やってみる、難しい・・。

そんなさとちんを見ていた、ばあちゃんが、2歳児から使える危なくないハサミを買ってプレゼントしてくれた。

 

ハサミをもらった日、まさに寝食を忘れるほど、夜ご飯の時間になってもご飯食べずにハサミで紙を切ろうとしている。

お風呂でて、裸ん坊のままハサミをすぐに手に持つ。

2歳の手の使い方の発達度合いではハサミでチョキチョキスムーズに切るのは難しく、紙を挟めるけど、切れる角度で歯を入れる・・ということがなかなかできない。

「やって〜」と私に助けを求めるも、求めてみるけど、やっぱりイヤだ!と、ハサミをポーイと投げつける・・。

でも・・何度やっても切れないのに、アラ、切れた・・!もう一度切れた!というのが10回に1回くらい訪れる。

 

また別の日には、とーさん、かーさんが使っている箸に興味をもち、「やってみたい〜」となる。

こども用の箸あったなぁとごそごそ探して渡す。箸もハサミと同じく難しい・・。

 

とーさんや、かーさんのようにできない、もどかしい。

もどかしいから、「やって〜」という。

こうやって持つんだよと手を箸とセッティングする。

やってみる、できない。

やって〜。イライラ・・ポーイと投げつける。

しかしやっているうちにまぐれのように掴めたりする・・!

できない・・イライラ、ポーイ。

そんなことを繰り返しながらも正しい持ち方ではないけど、2歳児のさとちんなら、ここまでかな・・という持ち方で持って箸を使ったり、スプーン、フォークを使ったりしている。

 

人間の発達は数ヶ月という単位でできることが切り刻まれて決まっているわけではないのだと思う。でも、歯が生えるのは何ヶ月だの、離乳食は何ヶ月からだの、ハサミは何歳からだの、箸は何歳からだのと全てスケジュールが決まっているかのように親が思わされているのもある。

 

そして、そこに間に合わないと困るから教えないといけない、親が〜してあげないといけない・・。子育てに関する様々な便利グッズや教育教材や〜教室など、子育て産業は、それらを使わなければ子どもは育たないかのように迫ってくる。

お箸も補助具的なのはあるけど、さとちんが必要としてないならいらないのではないかと思う。お箸一つとってもそうした補助具を使わないと持てるようにならない?そんなわけない。お猿さんから人間になる、道具をもち、使い始めた頃、助けてくれるものは何もなかったはず。

 

親がこどもにたいして、レールを敷かないとダメなのよ!ってセリフは巷で聞いて親になった。親またはおとながこどもに教えないとダメ・・と思ってしまうのはどうしてか。こどもが欲しているのではなく、突き詰めると親、大人の不安からなんだと思う。

子どもがどう育つかなんてわからないのが当たり前。不確実なことへの不安。

形のないものへの確証がほしい、コントロールしたい。

それを子どものためとか、子どもの意思にすり替えられたりすることはアルアルなのだ。

 

さとちん見てたら、教えなくてもできていく。

それを早く、近道でできるのがいいことでもない。

ハサミもお箸もうまく使えないけど、使ってみたい、できるようになりたいと思ってやること、その小さなチャレンジが大切なのではないかなぁと思う。

自分に返すと自分(おとな)だってやりたくないことはやらないし、やりたい!という気持ちで動いているのに・・?

 

 子育てについてのいろいろというのは、誰かを批判するようなこと、私が正しいのよ、本質わかってんのよ・・みたいな風に受け止められてしまいかねない。

なかなか思ったことを発しにくいと感じる。

 

新しいグッズを使ったり、何かこどもに教える、与えることが悪い・いいと言いたいわけではない。自分のこどもを見てみるとわかることってあるねという自分の気づき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意味があるとかないとかいうことはどうでもいい。

最近は、3月尾頭橋のにんげん図書館のイベント、オープンデータソンの街歩きのための資料を探したり、本を読んで、図書館、文献の中を探検するのが大変楽しい。

尾頭橋は実はパチンコ発祥の地で第1号店の場所は不明という30年前の新聞記事におー!と、テンションが上がったり…。尾頭橋界隈の住宅地図を見て、公園の名前が時代ごとに変わっているのを発見してテンションが上がったり。

中川区の金魚まつりの由来は廓まつりであるということを知って、すごい名前だな!とテンションが上がったり・・。文献検索をして、図書館の書棚をウロウロ、請求記号を追っていき、資料一冊見つけることが発掘作業。重たい資料を持って複写する…。

そんなことをやってからコーヒーを飲み、おやつを食べる時間は至福の時。

 

こうした地域のトリビアネタというのは、テレビやイベントで「知らなかったことが知れて楽しかった。以上」と誰から与えられる知識。

人は、面白いことを知ったと価値を感じる、感想を言って、終わり・・・。

そうじゃなくて、自分でそれを探すことの方に楽しさがあるんだがなぁと思う。

 

パチンコの一号店がどこかわかることがどれほど重要か?

誰かに調べてもらって手に入ればそれでいい?

時間をかけずに情報を手にいれる方法はたくさんあるし、この情報はそんなに重要か?と聞かれたらどうでもいいこととも言えるかもしれない。

もちろん命をかけている人もいるけど。

世の中で起きている様々な問題に比べたら、わからなくても済んでいくこと、誰にも気づかれずにいること。

意味があるとかないとかではなく、ただ知ることそのものが目的で、探検のように楽しい。世界の見え方が変わること。こうやって探すことにキリはなく、お金をかけずとも、街の中には無限に楽しいことがある。

 

先日、たまたま、起業したい人の起業の事業プランの一覧のようなものを見ていて、何か明確に問題となっていることに取り組む、街に新しいことを生み出すことに対して、今は街にはないものを探していくようなことはどうでもいいことのように見えるなぁと思った。

 

問題と認識されている空き家の問題をどうするか、虐待や孤立死をどうするか、子育てママをどう助けるか…そんなことに比べたら、どこにパチンコ屋があったとか、ここに遊郭があったとか、昔ここに川があったなんてことがわかってもわからなくても世界は変わらない。

それについて時間を使う?なんの意味があるの?と、思う人もいるかもしれない。

 

意味があるとかないとか、そんな基準は傍に置く。

意味がないことを楽しむこと、その態度は大事な生きる力なのではないかと思う。

一見全然関係ないこと、問題になっていないことの中に、日々、自分が子育てして、日々仕事するための力、智慧、感性をもらっている。パチンコ1号店を見つけることと、2歳児と向き合うことはつながっているかもしれないのだよ。

 

別に、これが街の活性化とか何かにつながらなくても、ただ、地域にあるものを楽しむ態度は、自分や地域の未来をつくることにつながってる(かも)。

意味がなくていいから、「かもしれない」でいいのだと思う。

 

 そういうわけで、本を読むこととか、にんげん図書館の活動のために助成金をもらうようなとき、意味は?成果は?と聞かれることに対しての答えって、意味などありませんとも言える。社会にとっていいことであると言うために言葉を用意して言っている感覚を覚えることもあるんだなぁ・・。

 

 

同じ言葉が通じる人の中でつるまない。

この前、保育園の父母の会のメンバー3人で忘年会をして、とっても楽しかった。

たまたま子どもを持ったタイミング、たまたまこの保育園に入ったタイミングで出会った人たちで、みんな年齢も働き方、仕事も違う。

あーこんな出会いも保育園にはあるんだなぁ。

 

私はずっとNPOの周りで働いてきたから、コミュニティがどうのとか、場づくりとか、組織や事業のマネジメントがどうのとか、そうした発想、視点で物事を見る。

 

だから、父母の会という小さな組織も同じように捉える。

理念に沿った取り組み、集まる人々の力を引き出す、新しい出会いが生まれる組織にしていけるといいと思ってる。

そんなノリで話していると、「茜さんはすごいこと考えてるね〜」とか言われちゃう。笑。

 仕事でおんなじことを話しても、すごいとか言われたり、浮いてしまうようなこともない。仕事で関わる人たちも多様に様に見えて、広い社会の中では特定の人たち。

言葉が通じる人たちの中に自分はいるんだと、メタ的に気づくという機会は大事であるなぁと思う。

 

コミュニティとか場づくりとか、ファシリテーションとか、ソーシャルとか、そうした言葉が出てこない場こそ、公共で自治があるんだと思う。

ここに集う人々が緩やかにつながる、自分のためだけでなく、利他の視点を持って、ちょっと声を掛け合う仲になり、助け合う存在になっていく。

公共であるからみんなが同じ方向を向くわけでもないし(おんなじ方向向いたら気持ち悪いけど)、だからたまに面倒臭いこともあるし、物事は簡単には進まない。

難しいことを難しいままにしないで、難しいことをやさしく。

これも実験の機会として関われたいいなぁと思う。

 

 

 

こどもにやさしい街って

この前遊びに来てくれた、こどもNPOというNPOで、子育て支援や子どもの地域教育に携わる本岡さんは衝撃を受けたと書いてくれた。

 

確かに中村区は名古屋でも下町。

うちの近所は歩いていて、いろいろな人に寛容だなぁと思う。

いろいろというのは、福祉施設も多いから障がいの人もたくさん見る。

経済的に豊かではない人もたくさんいる。空き缶をたくさん自転車に積んで走っているおじちゃんもよく見る。自由すぎる子どもに対して苛立ちや、親がちゃんとしなくてはならないという目を向けられたことはない。

 

スーパーで我が子が寝転がってイヤイヤしていたり、泣き叫んでいたり、混み合っているのに自分で袋に入れたいとか、レジでやってもらいたい・・と主張しても、並んでるおじちゃんもおばちゃんもレジの人もニコニコしている。泣いていたら、飴ちゃんあげようかと言うおばちゃんもいる(いや、まだ飴玉は食べられないのともらったら食べる!となるからご遠慮したけど・・)

むしろ孫みたいなかわいい子を眺められてよかったわーって感じで、子どもはおじちゃん・おばちゃんたちが元気になるという社会貢献してるんだなぁとか思っていた。

 

それが当たり前すぎてしまい、外の人から見ると衝撃を受けるほどなのか!ということには気づかない。逆に子育てに不寛容だと感じていても、それが当たり前になると、そういうものだと思ってしまうのかもしれない。

 

そういう地域に出会うとそんな地域こそ素敵な地域だとみんなは思うかもしれないけどそうなのかなぁと思った。「地域のつながりこそ大事、つながりがある昔ながらの地域は素敵だね〜」とみんなは言う。

でも、それに対して、「地域のつながり」は地域の保守性、呪縛となってある人にとっては居心地の悪さにもなる。子どもにやさしいおばちゃんたちも働く母に対しては不寛容かもしれない。子どもが1歳になる前、10ヶ月の頃に保育園に入所働き始めた時、子どものことを暖かく見ていたおばちゃんたちは、心の底では母である人が働くということをよく思ってないんだろうなぁ・・と他愛もないよくある会話から感じた。それを「不寛容」と受け止める人もいると思う。

 

街全体にいろいろな人がいるという多様性、いてもいいという寛容さがあるから、その人自身が孤立感や閉塞感を感じていないということではないと思う。子どもを抱っこしていたらにっこり笑ってもらえるか、疎まれるか、にっこり笑ってもらえた方がいい。でも、そんな子どもにやさしい街に住んでいても、途方に暮れている人はいるかもしれない。

 

いろいろな子どもや親子、家族をふんわりと受け止めることと、多彩なソーシャルキャピタルを「わたし」の周りにつくること。その中で、「わたし」が自らを助け、誰かを助けて生きていける(助けるというのは具体的な行為だけでなく、関係性も含む)ようにするのが子育て支援なんじゃないかなぁと思う。(子育て支援だけでなく、様々な人への支援や地域づくりや街づくりも)サービスや施設があればそれで大丈夫ではなく、人々の寛容さ、文化が一番の支援で、それを育てるのが一番難しいんだなと思う。

母になって一人で旅行する。

今回、1泊2日でどこかに行こうと思って、モリソンに言う→会いたい人にアポイントをとる→宿をとる・・までがハードルがとても高くて、思ってはやめようかなぁの繰り返し。保育園に送って、仕事して、迎えに行って・・も日々は過ぎていく。むしろそうした流れを止めて、旅行に行くことの方が労力がいることでもある。

でも、疲れたなぁ、どっか行きたいなぁ・・・。

行きたいということは行った方がいいということなんだと思って、エイっと予定を入れました。で、行ってみて、やっぱり3ヶ月に1回(次は1月くらい)はどこかに一人で行きたい。

長野に行って、会いたいなぁという人にあって話して帰ってきた。

旅行っぽい、観光はせず、帰りに塩尻のえんぱーくに行こうかなと思ったけど、予定詰め込まないで帰ってきた。前ならえんぱーくも行ったかもしれない。

一つのことができたらそれで十分と、動き方も変わったのは疲れてるからなのか、年を重ねて成熟したからなのか?

 

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結婚してから、子ども産んでお母さんになってから、女ってめんどくせー、女であることの生きずらさがあるんだと初めてわかった。女であるから仕事の範囲が決まってるとかそんなこともないところで働いて、人が足りないんだから仕事はいくらでもあります、裁量もあります・・というところでキャリア形成してきたからだと思う。

モリソンと結婚する前も一人で旅行には行ったし、モリソンも一人でスキーに行く。
子どもが生まれても、わたしは、一人で旅行に行くし、モリソンも一人でスキーに行く。それは変わらないというのがわたしとモリソンの間の合意事項、独立した個であるというのが、家族の理念だと思ってる。

 

さとちんにとっては、お母さんとお父さんの存在は違う、違う役割を持っているとも感じている。でも、365日のうち1日お母さんがいないということの重さよりも、日常が大事。わたし・モリソン・さとちんの日々の関わり関係性が、暴力的・抑圧的・依存的・過干渉・不寛容・無関心ではないということが大事で、それは外からは見えない。


お母さんが一緒にいる時間の長さ=愛情、安心できる環境ではないと思ってる。
おかあさんがいない時があっても、さとちゃんが楽しく、やりたいことをやり、
安心して過ごしている、その環境があるか。

でも、世の中はお父さんが出張してても、夜いなくても何も言われないけど、
お母さんが夜いなかったり、旅行すると良く思わない人もいる。
(わたしの周りはそれいいね!という人がいるからありがたいですよ!)

帰ってきて、モリソンに、

「男の人はいいなー、泊まりでどこか行ったり、どんなに夜が遅くても、
『ツマに任せっきりで〜でへへ』とか言って、社会から干されなくていいよね」
と、ぼやいたら、「そういう生き方ができるところにいて、できているならそれで
いいじゃん」と言われ、確かにそうだと思った。

お母さんは、という一般名称に対しての声は自分に向けられてないわけで、
わたしがどんな環境にいるかが事実だよなぁと思う。

ふてくされずに、軽やかにいこうと思った。

本や図書館を高いところにおく。

本についてあれこれ思うこと。


図書館=本=文学。私たちとは遠い高いところにおいてる人が多いと感じる。

図書館は地域にとって必要、図書館って素敵だよね・・・と、私が図書館や本をテーマにしているから言われることも多い。

 

でも、必要・素敵の中身ってなんだろう、どうしてそう思うの??
なんとなく、文化的なものをないがしろにしてはいけないってことを感覚にはあっても、その人の生きる現場の中にはないのではないかとよく思う。

 

図書館や本について、あるあるコメントとして、「私は本は自分の好きなものしか読まないので〜」と謙遜、申し訳なさそうにいうこと。

その時のその人にとって好きな本は、もしかすると料理の本や雑誌やペットの本や趣味の旅行やどうしたらダイエットできるか・・という本なのかもしれない。

そうした実用的な本を下等なものとし、文学や小説や現代社会や経済に関する本を高等なもの。
自分は読むのが億劫になってしまう難しいものを読むのが読書であり、本であるって思ってるんだなぁと、会話の端々に感じることは多い。

 

どうして好きなものばかり読んでたらダメなの?
読みたいから読んでいたらダメなのか。読みたくないなら読まないでいたらダメなのか。

 

人にとっての学び、心の滋養、元気になる、ちょっと進むための本、情報は、自分とは関係ないと捉えている文学にも、自分が親しんでいる趣味、芸能人の本や雑誌や漫画やセックスについての本にも同じようにあって、優劣はない。

その人が日々を楽しく生きる、ちょっと元気になる、そのために、それらの本がある・・
そうした場所として本も図書館もあると思うんだけど、本や図書館を高いところにおいて認識しているんだなぁと思う。

 

難しい本を読む時、この本1冊読めないとダメ、読めない自分はバカなのか・・と知らず知らずのうちに思わされていることはあると思う。


読まないと生きていけないわけでもないし、心がわくわくしない・・自分にとっていいと思えないなら読まなければいい。

面白そうと思って買って、最初だけちょっと読んで、途中で興味がなくなって読まなくなってもいい。

 

1冊の本を「人」に例えると、その人とおしゃべりして、その人のこと全部わかったなんて言えるか?様々な対話、一緒に経験をともにしてその人の見え方も変わってくることがある。

そんなことと同じで、自分と対話をする相手が「本」であるとして、その本との対話が終わってしまったり、興味がなくなったり、分かり合えなくてもそれでいいじゃん。

また、いつか会いましょう、その時話しましょうって思って、「本」との関わりを捉えたらいいのになと思う。

 

義務としての読書、辛い思いをして読みたくないけど、賢くなるための読書。
本とはそのようなものだ、図書館はそうした本がある場所だという捉え方があるから、
図書館、その周りにある地域の人たちにとって、わたしたちの場所になっていかないのだと思う。

 

で、その諸悪の根源はどこにあるかというと、「読書感想文」だと思ってる。
義務で読む、義務で感想を書く。読みたい本ではなく、何か正しい、道徳的なことをいってるいい本と大人が認定する本を読む。読書をするのも感想を書くのも内発的な動機によるものではないということを、刷り込んでいる読書感想文をやめたらいいのにと思う。

 

そんな本についての認識を持っていて、本にも図書館にも近づかない人は一生近づかないかもしれない。

持っている見方を変えるのは、「知る」ということが楽しいという実感。

それが本なんだよ、それが情報なんだよと捉え直す機会。

それを通して図書館的な場の姿を分かち合っていけるのではないかと思う。