「子育てをするなら自然がたくさんあるところがいい」って思い込み

 わたしの夫が生まれたのは、名古屋の中村区の下町の大門商店街。

 名古屋でも屈指の遊郭街、中村遊郭があった。昭和33年の売春防止法施行後は、業態を変えてソープランドとなり、名古屋で一番ソープが集まるのはこのエリアらしい。

 ソープが並ぶ中にピアゴがあり、ソープの横を買い物がえりの人々が自転車で通る。いつもわたしは我が子、さとちんを連れてお買い物にいく。

 ヤクザのお家もあれば、成人映画専門の中村映劇もパチンコ屋もある。

 喫茶店、魚屋さん、鶏肉屋さん、服屋さん、タオル屋さん、個人商店もあり、新しいお店も入ってきているが、閉めてしまったお店もたくさんある。

そんな街で夫は生まれ、家がお店をやっていたから、家の隣のスナックで回る椅子をぐるぐる回して遊び、水道工事の現場を眺め、その時に土木構造物に興味を持ったらしい。夫は、大門が好きすぎる、落ち着きすぎる。そういう人と結婚したので、わたしもこのままこの面白い街で子育てをしていくんだろうなぁと、思っている。

 

「子育てをするなら自然がたくさんあるところがいい」っていう思い込み

 そういう刷り込みが世にはあるように思う。

 子どもにいい環境を準備できていないという後ろめたさを抱かせるような刷り込み。

「都会から田舎に移り住んで子どもたちがいい表情になった。」って、この前、都会から移り住み、自給自足の生活をする一家を取材したテレビではそのようにコメントしていた。「自然」環境を変えることで新しい体験ができ、子どもの様子も変わった、それは一つの要因だけどすべてではないよねと思う。

都会より田舎。都会の中でも緑や自然や公園がある地区がいい。

中村区のように下町で猥雑で、焚き火をしたり、カブトムシを捕まえたり、川で生き物を捕まえたりできない、そんな「環境」よりも自然の中でのびのびといられることがいいっていう、田舎の子はたくましいね、表情がいいね、都会の子は・・・と、都会をディスるおきまりのフレーズがある。

 

そもそも「環境」って、自然「環境」のことだけではないよね

映画や美術館や社会教育施設などの文化資本も「環境」

国籍、性志向、障害や病気と一緒にある人、様々な職種、仕事をする人という人的ネットワークも「環境」

そして、環境の最小単位は、子どもを育てている人との関係、暮らす場所も「環境」(あえて親、家族とは言わないけど。)

なので、自然環境豊かなところに住んだからすべてが解決するわけでも、天国でもなく、その環境さえあれば、子どもが生き生きと育っていくとは限らない。

むしろ、田舎の方が車社会で、運動不足となるとか、田舎にいるからって自然の中で遊ぶわけではなく、ゲームばっかりしてる・・なんて話も聞く。

 どんなに豊かな自然環境の中にいても、最小単位の身近な親や育ててくれる人との関係性が抑圧的で、安心していられない環境なら、その子にとっていい環境とは言えない。

 

 街の中にいても、センスオブワンダーに生きて、育てる

 都会で子育てしているわたしがいつも心に持っている言葉が、「センスオブワンダー」という言葉。レイチェル・カーソンのこの言葉に出会ったのは大学生の頃。

 

その頃は絵本を含む子どもの文化に貢献するような仕事がしたいなと思っていた。

 センス・オブ・ワンダー=驚きに目を見張る感性という言葉に出会い、センスオブワンダーを育てる文化、様々なわくわくすることすべてとの出会いをつくる。

 それが、生きる糧となるような仕事がしたいと思った。

 この言葉大事にしようと思った。

 それから、10数年経って、子どもを持つようになってまたこの言葉を大切に思うようになった。

 

カブトムシを捕まえたり、池や川で遊んだり、焚き火をしたり、火おこしをしたり、そういうことは、我が子の日常ではなかなかできない。

できないから、「自然」に触れられない貧しい環境とは思っていない。

さとちんのお散歩先は電車で15分で行ける名古屋駅

名駅におにぎりを持って行く。迷路のような名古屋駅を歩いたり、建設中のビルを眺め、駅のホームで電車を眺めておにぎりを食べるピクニック。

図書館に行けば知らない世界へと連れていってくれる知識の森がある。

子どもを取り巻く世界、日々には、驚きと発見が満ち溢れている。

 

みんなが思う豊かな自然がなくても、月が綺麗だねと思うことはできるし、暖かい風が吹いてる、いい匂いがする、綺麗なお花が咲いている、木の枝が落ちている・・・と子どもと散歩をするだけで、たくさんの自然から受け取るものを発見する。

卵をポトンと割ると不思議な色だねとか、里芋はヌルヌルするねとか、ご飯をつくるという日々の営みの中でも面白い発見をする。

共感できる感性を大人も持っていたら、世界から一緒に発見できる。

 

センスオブワンダーの中から、「好き」「やりたい」がつながる「かも」ね。

この環境だから、何かができないなんてことはなく、どこにでも驚きを与えてくれる発見はある。先日、ある大学の先生が、子どもらしいということは、「泥んこになって、みんなでニコニコして遊ぶ」という大人が子どもらしいと描く姿ではないと言っていた。「自分の好きなことだけやる」のが子どもらしいということ。

だから、泥んこをしないのは、泥んこが嫌いだからやらない。

好きなことしかやらない。その「好き」というのは多様である。

 

うちの街にはなんにもないなんてことはない。

子育てだけではない、大人だって、昔はよかった、この街にはなんにもない、あの街のように魅力がないって言う。

だから何か開発しなくちゃ、つくらなきゃって思っている。

わざわざつくらなくても、つまらないと思っている日常の中にすでにある。

街がつくってきた物語を知っているか?どうしてこの道路ができたのか、どうしてこの坂道があるのか知っているか?

そこには驚くような物語があって、自分で探検していく楽しさもある。

これは地域の歴史にフォーカスした場合の探検。

他のところに虫眼鏡を当てれば、また違う世界が見える。

なんでもわかった、なんにも面白いものはないと日常が曇って見えるなら、大門に来て、中村映劇に入ってみたらいいわ!笑(入ったことないけど)

自分が思っている世界の外にたくさん知らない世界が広がっているのに。

で、わたしはその役割の一つが図書館だと思っているのだなぁ。

結局すべて図書館に落ち着くんですね・・。

 

 

 

保育園父母の会 

昨日は、保育園父母の会主催、子育て講座の実施。
 子育て講座は、保育園父母の会改革の今年の柱。
保育園の父母の会は、保護者同士の交流、学び合いが理念なので、理念に沿って、交流、学び合いの機会を予算に入れようと昨年提案し、今年は予算に入って行うことになった。
 一昨年までは公立の保育園、その時の父母の会は、しゃんしゃんと前例のことが踏襲され、保護者に関与しない、負担をかけずに、子どもの活動にお金を使っていた。
一昨年に民間の法人に移管になって、父母の会も保護者主体で行う、保護者同士の交流、学び合い、保育園の中で保護者のナナメの関係をつくろうという感じにしてきた。
 そんな状況が見えているのは、役員を長くやっている奇特な数名(わたしと現会長補佐)だけで、他の保護者からすると、なんか突然子育て講座なるものが始まった・・という感じにも見える人もいるかなぁとか思う。
  そのためか、講座の募集をしてみたら、10人弱しか集まらない・・世帯数は80くらいなんだけど・・。たくさん集まっても遊戯室に人が入らない・・とか心配していたんだけど、そんな心配いらんかったわ!先生たちにも声をかけてもらって、参加者なんとか10人オーバーになった!
 
 笑いもあって、心が軽くなるようなお話
講師は近藤直子先生(日本福祉大学名誉教授)
印象に残ったフレーズ
・子どもの好き嫌いが出てくる、嫌い、いやいや!!!というのは嫌いを選んでいる
・子どもらしい=自分の好きなことだけをやるということ。
 元気に遊ぶ、どろんこになって遊ぶ、みんなで遊ぶ・・
 というこれが子どもらしいと大人が勝手に描くのは別に子どもらしいということではない。
そして最も印象に残って惹きつけられたのは、先生自身の半生のお話。自分が周りの子と違うことから、いつ死のうかと考えていた20代だったけど、発達障害の子どもたちの関わりやパートナーとの出会いで、生きていてもいいかなと思えるようになったというお話。そうした経験も子ども、人を観る眼差しをつくっているのだなぁと感じた。
一人でやらない、協働の形成を進める戦略
 あと1回あるんだが、講座を企画するといっても講師の顔が浮かばない・・・って感じなので、それなら呼びたい人いるけど、いいの?好きにやりますけどって感じで、この界隈で人気の人を呼ぶことにしたw
 戦略を練って、講師にお願いし、事前打ち合わせの機会を設けてもらい、やる気のある役員さんも一緒に連れて行こうかなと思う。
 大事なのは、気づきと学び合いとお客さんから、主体者にしていく過程をつくっていくこと。
 自ら集まってことを進める集団=市民活動やNPO
ではなく、集められちゃった集団の場の形成の方が学びが深い。
 

知が求められる現場に出会うこと

〜さんが言ってるから正しいではなく、根拠に当たること

大学時代にジェンダーについての研究をしてきた友人は、ジェンダー性教育についての講座を企画していきたいという。先日、そのはじめの第一歩となる講座を企画してみた。

子育て中の女性が集まる少人数の場、そこで、「おちんちん」は外性器の総称なのか?そうではないのか?とそれぞれ専門職の方の間で意見が割れたということ。

 こういう話し合う、学び合う場だと、「専門家の人」がいうから正しい、その正しさに本当にそうなの?ということを言えない場の雰囲気になってしまうことがある。その場を進行する友人はとても戸惑ってしまったという話・・。

 

性教育については、それを語る人が、助産師なのか、保育士、教育系の方なのか、医療関係の方なのかで、大事にされるところが違ったり、根拠なきことが語られているということがよくあると友人から聞いた。そして価値観や認識の違いでぶつかることもあると聞いた。

 そんな中で、感覚的に伝えていくことよりも、正しいとされていることはどこからくるのか、「え?おちんちんって、ここの部分のことなんでしょ」と誰も疑わないことは本当にそうなのか。「それは違う」ということも、専門家の〜さんがいうから正しいと理解するのではなく、その情報の拠り所を探して、自分の頭で理解していく過程をみんなで共有することが大切なんじゃないかって話になった。

 

 解剖生理学・教育史・社会史の観点から、どのような背景の中で今があるのかを理解した上で、では何が必要かを考えるのが大事!

では、ジェンダーについて調べてみよう!となった。

そして、私は図書館で「おちんちん」について調べてみようと思った(笑)

 

ここで私の役割がある!と気づいてワクワクする。

私は図書館が地域や人の未来をつくると思っている。

必ずしも図書館ではなく、図書館的な機能でもあると思ってる。その価値、役割を図書館の中と外で分かち合っていくようなことがしたいと思って、ずっとにんげん図書館という取り組みをしてきたんだけど、こうした「知」が求められる現場が図書館につながっていくのだと思う。

 で、図書館の外にいる人はそんなことは思い浮かべないけど、ライブラリアン的視点を持つ私は、ここにリサーチが求められていることを発見する。ライブラリアンマインドを持って、ただ調べるのが好きな市民が図書館の中と外をつなげ、図書館そのものを一緒につくっていくのではないかと思ってる。

 

AI時代で、図書館なんていらないんじゃないの?!という声を聞いて、図書館界は「なんにもわかってない!」とヒステリックに反応しても、真面目に図書館の大切さを説いても、自分の立場を守りたい人の発言にしか社会の中で響かない虚しさを感じることがある。図書館の中にいて、図書館の大切さをどんなに伝えても伝わらない。

 

 図書館が必要とされている場を探すのではなく、図書館の外で「知」が求められる現場に図書館の人たちが出会う体験が必要なのだと思う。

社会の中での図書館または、図書館的な機能、情報をアーカイブしていく価値を実感していく、そうした体験が図書館の人の力を引き出すと思う。図書館不要論にそうじゃないという根拠あることを上手に言えないけど、こうした現場とつないでいきたいなと思った。

 

 

2019年 読んだ本

2019年 読んだ本(12月29日時点で79冊)
途中で読むのやめた本は入ってませんw
 
(哲学・思想・考え方)6冊
じぶん・この不思議な存在 / 鷲田清一
生き延びるためのラカン /斎藤環
哲学個人授業 /鷲田清一 永江朗
はじめての構造主義 / 内田樹
寝ながら学べる構造主義 /内田樹
考えの整頓 / 佐藤雅彦
 
 
(政治・社会)13冊
保守と立憲 / 中島岳志
自民党 価値とリスクのマトリクス / 中島岳志
公文書管理と民主主義 / 瀬畑源
政令指定都市 / 北村亘
社会的共通資本 / 宇沢弘文
経済ってそういうことだったのか会議 / 竹中平蔵 佐藤雅彦
評価と贈与の経済学 / 内田樹岡田斗司夫
若者よマルクスを読もう / 内田樹 石川康
歴史の話 / 網野善彦 鶴見俊輔
日本中世の民衆像 / 網野善彦
 
(組織・場づくり)1冊
ワークショップ / 中野民夫
 
(地域社会・郷土史・文化)13冊
歩いて読み解く地域デザイン / 山納洋
東京高級地探訪 / 三浦展
シビックテック ICTを使って地域課題を自分たちで解決する / 稲継裕昭など
名古屋の街 / 戦災復興の記録 / 伊藤徳男
誰も調べなかった日本文化史 / パオロ・マッツァリアーノ
コンビニエンス物語 / 泉麻人 いとうせいこう
アジア沈殿旅日記/ 宮田珠己
盛り場の民俗史/ 神崎宜武
真宗民俗の再発見 / 蒲池勢至
女の旅 幕末維新から明治期の11人 / 山本志乃 中公新書
ある明治人の生活史 / 小木新造 / 中公新書
海水浴と日本人 / 畔柳昭雄 / 中央公論新社
 
(エッセイ)2冊
現実入門 / 穂村弘
ねにもつタイプ / 岸本佐知子
 
(お仕事小説)3冊
サブマリン / 伊坂幸太郎
チルドレン / 伊坂幸太郎
ガール / 奥田英朗 
 
 
(人権・ジェンダー・人間関係・夫婦・家族)10冊
82年生まれ、キム・ジヨン チョ・ナムジュ
人権ってなんだろう? 
ニキの屈辱 / 山崎ナオコーラ
友達は無駄である / 佐野洋子
趣味で腹いっぱい / 山崎ナオコーラ
うからはから/ 阿川佐和子
長いお別れ / 中島京子
神様のすること / 平安寿子
 
 
(小説/ ミステリー)2冊
レイクサイド / 東野圭吾
 
 
(小説/ 成長)1冊
思い出のマーニー / ジョーン・G・ロビンソン1
 
(小説/ SF)
 
(教育・学ぶ・本・読書)17冊
 
図書館の明日をひらく /  菅原峻
思考の整理学 ./ 外山滋比彦
ユネスコ学習権宣言と基本的人権 / 藤田秀雄
本の読み方 / 平野啓一郎
未来の図書館はじめます / 岡本真
生きるための図書館 / 竹内
図書館で調べる / 高田高史
家を出る日のために / 辰巳渚
ぼくは本屋のおじさん / 早川義夫
口笛を吹きながら本を売る / 柴田信
生きるとは、自分の物語をつくること/ 小川洋子 河合隼雄
難解な本を読む技術 / 高田明
千夜千冊 / 松岡正剛
本の運命 / 井上ひさし
同時代小説 / 齋藤美奈子
図書館・まち育て・デモクラシー / 嶋田学
 
 
(生きる・つくる・はたらく・暮らす)10冊
悪人/ 吉田修一
火花 / 又吉直樹
あなたの本当の人生は / 大島真寿美
リーチ先生 / 原田マハ
あの家に暮らす四人の女 / 三浦しをん
ダメを磨く / 深沢記久子 深澤真紀
リンダリンダラバーソウル / 大槻ケンヂ
バッタを倒しにアフリカへ / 前野ウルド浩太郎
自殺 / 末井昭

イベントレポート:わたしを紡ぐ営みと表現

【個人で取り組んだ活動、お仕事の記録です。】

名古屋市西区の長善寺住職、蒲池さんより、アールブリュットについての対話イベントをやりたいな〜というご相談を受け開いた11月17日に行った対話の場です。

 

アールブリュットって何?

アールブリュットとは、正規の美術教育を受けていない方から生まれる生(き)の芸術。西洋の芸術の伝統的な訓練を受けていない人が制作した作品であるが、アートとして扱われるものを指す。フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが1945年にアールブリュットと呼んだことに始まる。(Wikipediaより要約)

 

必ずしも「障害者のアート」ではない。

私が、アールブリュットに出会ったのは、10年以上前だったかと思う。滋賀県にあるアールブリュットの美術館で、統合失調症の方が毎日、毎日書いたその人にしかわからない言葉の数々が地層のように重なった紙をの束を見た時に、この人にとっての日常であり、言葉であり、その人から見える世界の面白さに心が動いた。

 

それから、アールブリュットは日本でも浸透し、各地で展覧会も開かれるようになった。今回は、そんなアールブリュットについてのイベントをこの秋に行った長善寺の蒲池さんから、対話の場を企画したいというお話しを受けて行われた。

 

一緒に企画したのは、発達障害の方の支援をしている松永結実さん、精神障害の方が活動する場としてのコミュニティカフェかかぽを運営する一般社団法人しんさん。

打ち合わせをする中で、障害やアートに対しての思っていること、違和感もなんとなく共有できているなぁという感じがしていた。そして、企画にしたものの、どんな話になるんだろう・・とちょっと先が読めないワクワクも私は感じていた。

 
アールブリュットの矛盾、違和感

アールブリュットは評価され、国もお金をつけるようになってきたらしい。

世に評価され、作品がおしゃれな商品に生まれた変わったりするようになる。

障害者の収入になっていいよね!と捉える人もいる。

自由なアートなのに、不自由さが生まれてくるようになる。

周りがアールブリュットのイメージ像を勝手につくったり、素敵な作品を求めるようなことが起きているということ。


ボクシング?暴力?アートの境界とは

支援に対して、こうしたい!嫌だ!という感情の発露、それがアートではないか。

既存の枠組みを逸脱する、ロックな行為がアールブリュットではないか。

社会に許容できるものが、ボクシング、許容できないものが暴力。

その間にあるようなものがアールブリュットではないのか。
誰もが受け入れられるアート(ボクシング)の形にしてしまうということが、その人の表現、あり方を認めないということではないのか。

 

支援者、教育者のコントロールしたいという無意識の気持ち

支援や教育の現場にいるその人が枠から外れようとする、問題と捉えられる行動をとる時、自分の範疇を超えることに恐れの気持ちを抱く。

支援者に対しての反抗や批判、「〜したい!」と抵抗することこそが生きる源泉となる力。管理された中の表現、アートを求めていないか。

支援者は社会の間にいる通訳のような存在とも言えるが、その支援者に余裕がないために面白い表現であっても潰されてしまう。

本人の世界を表現する手立てを渡し、その結果生まれたものがアートであるはずなのに。障害に限らず、そもそも日本社会は、意味がないこと、役に立たないこと、合理的ではないこと・・をそのままにしてしておけないのではないか。

無秩序なことに秩序を、意味がないことに意味を。目に見える成果や評価を。

もやもやと感じて言葉にならないことのままにはしておけない、誰にでもわかりやすい形に成形しようとする。日本ってやっぱり「不自由」ですねぇ・・。

 

今回は、特に対話の落とし所といのはなく、ただただ、言葉を交わしていくだけの場。

これって終わりがないよね?!と、もっともっと話したいという気持ちになったなぁ。

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不安定の中で安定する

「容疑者は職を転々としていた」ってフレーズをよく聞く。「職を転々とすること」頼るべき縁がないという不安、弱さを感じさせ、だから、事件を起こしたんだよねって思わせる報じ方だと思う。

世の労働市場では、職歴が多いのは不利になるらしい。

私の周りは職歴多い人しかいない気がしますけど・・。

 

職を転々とするのがデフォルト

現在仕事は8個目の仕事??

大学卒業後1つ目の仕事。本屋のアルバイト1年半

NPO法人の常勤職員 6年

発達障害者の就労移行支援事業所 週4勤務の人 3年 

 &NPO法人の仕事も業務委託でやる。

中間支援NPO 10ヶ月

妊娠・出産

元いた発達障害者の就労移行に戻るも半年で退職。

多文化共生のNPO法人子育て支援団体の兼業2年

この夏からは、生活困窮者支援のNPO法人の事務局と小児医療に関するNPO法人の事務局。

職を転々としている37歳女性。こんな履歴書。

何をして食っているかわからない大人との出会い

2005年、大学生の頃に、NPO社会起業家という人たちがいるんだと知った。何枚も名刺を持っている大人、何をして食ってるかわからない大人にたくさん出会った。その頃はパラレルワークとか、月3万円ビジネスとか、ノマドワーカーなんて言葉もなかったけど、すでにそんな人はたくさんいた。

NPO法人は、ある人を月収20万円オーバーで雇うということができないという組織も多い。だから、月10万円でお願いする・・専門性(会計とか、デザインとか・・)やプロジェクトで切り分ける。複数の収入を得るそうしたサバイバル精神豊かな人がたくさんいて、働き方はいかようにでも考えられるということを学んだように思う。

20代の頃、仕事の回し方を覚え、自分もかつて出会った大人のような働き方にしたいなぁとぼんやり思ってた。1つの組織にいた方が圧倒的に稼げるし、効率はいい。1つの組織じゃ不安、危ういと20代の後半に思っていたように思う。

自分は何でお金をもらうのか

会計とかデザインのようなわかりやすい専門職でもないのに、私になんかあるか?と思っていた。

私が好きでやりたいことは、図書館や本の世界のこと。図書館のことで稼げるようになろうとか、自分の人件費を稼ごうなんてことは思わなかった。

やりたいことで稼がず、一見関係ないNPO法人の世界にいた方が、巡り巡って自分が心を置く図書館の世界をもっと楽しくできるような機会や人や組織に出会えると思った。

最初のNPO法人での仕事は、コーディネーターだった。

その時、組織と組織をつなぐ、調整、全体を把握することとか、プロジェクトマネジメントとかが、自分の得意、できることなんだと自覚した。やりたいことを探すのではなく、求められることで働けばいいのかと思って、履歴書をつくるような転職活動もせず、流れ着くように働く先を見つけている。

今は一つのNPO法人は非正規雇用、一つのNPO法人は業務委託。そして時々ごくわずか個人でも仕事をもらうというパラレルワーク。

この道一筋でなくてもいい

「終身雇用が崩壊」という日本型の雇用の形が崩れている・・ネガティブに報じられる。かつての日本型の雇用をよかったものとする。「この道一筋」とか「一つのことに生涯を捧げる」ことを良いことと捉える傾向がある。

毎月の稼ぎは決まってる、ボーナスも手当てもある。

何年後にお金がいくらあるか予測ができる、だから家を建て、車を持ち、子どもは二人・・

そんな幸せのモデルをつくり、それを目指して、働きお金を稼ぐ。それが日本社会の発展だったと誇る。

終身雇用が主流の社会は、翻せば、変わりたい人には、変わらないことを求める圧力にもなり息苦しい社会ではないかな。

 

終身雇用じゃないからラッキー

終身雇用じゃない方が生きやすいわって言う人もいると思う。いや、だから企業は人を使い捨てたらいいということではなくて・・労働問題への対処、人権を守る雇用環境をつくるのは当たり前なんだが。

本人が自由に選べるバリエーションがあるというのは良い面もあるということ。

職能で切り分けて、自由に転籍するような人々、転職歴が多い人がもっと主流になるといいなと思う。

社会に放たれてしまうから、わかる自分の姿も、発見もあると思う。それが生きてく愉しさじゃないのかなぁ。

「一つのところで働きなさいとか、安定した仕事を」「転職歴が多いからどうのこうの」なんて言われることが耳障りな人は、ハイハイと聞いて、不安定さを誇っていたらいいのだと思う。

 私には1つのところで働くのが経済的に安泰でも精神的には安泰ではないように思えるためにパラレルワーク(複数のキャリア、仕事を持つこと)を選んでる。ゼロか100しかない世界の方が脆弱さがあるように思うんだがなぁ・・。

 

 

 

神って思うのは思考停止

 特にSNSでのことなんだけど、誰々さんがシェアしてるからこの記事をシェアするとか、誰々さんがいいと言ってるからこの記事はいい記事・・みたいに、誰々さんがフィルターとなり、誰々さんのお墨付きの情報として提供される時、それを見る人は、客観的にその情報を見ることができているんだろうかと思う。

 図書館とか、精神福祉とか、女性活躍とか、教育、それぞれの領域・この地域の中で有名人、リードしているオピニオンリーダーみたいな人がいる。

 その人の発言なら素晴らしいのだろう・・と人は無自覚に思い、そこで言われていることは真実なのかと疑うことはしない、そのまま鵜呑みにしているなんてことはよくあることではないかと思ってる。

 その人が、「自分の頭で考えろ、絶対正しいことなんてない」なんて言っている人なのに、情報を受け取る側は、自分の頭で考えることもなく、ただ情報を消費しているという矛盾した在り方に気づいてない。

 SNSの中でたくさんシェアされるとか、「いいね」がたくさんつく。評価されたい、承認されたい、上に立ちたいという人の気持ちと、その人の周りにいる「自分」、そのコミュニティに属している「自分」でありたいという相互の承認欲求が、その人を「神」にしているようにも思う。

 先日吉本隆明さんについて書かれた本で、オウム真理教を擁護するような発言をしていた時があったという記述を読んで、「あの吉本隆明さんがそんなことしていたんだ」と無意識に思っていたことがあり、こちらが勝手に「吉本隆明」ならそんなことはしないと、思っていたということだなぁと気づいた。

 人や組織を憧れの対象、ファン、神としてみてしまった時に見えなくなることがある。その人も変わりゆく人間、多面的な存在。

 だから、私は誰のファンにもならない、神とも思わない。

 批判的に捉えない人、自分たち最高って思っている人で構成されるコミュニティも気持ち悪い。ちょっと距離感をとって自分の中に取り込むような関わり方でいたいなぁと思う。

 でも、こういうブログを書いてる時点で承認されたいってことなんじゃね?と思ったりするが・・。