運動トラウマ

今シーズンもスキーに2回ほどこっそり行きました。

 

たった2回なのに、ちゃんと成長する!

前はターンや急なところも転ぶというリスクは常に頭にあって恐る恐るなところはあったけど、今年は転ぶ不安がない。

「曲がろう・ターンしよう」と思わないでいいときは上手にターンができる。

これって多分、無駄な力が入ってないということなんだろうなと思う。

そして板をまっすぐにしたままターンもできる・・!すごい!!と一人で感動してニヤニヤしそうだったけど、モリソンによれば、初級の中の一番上、あと少しで中級だそう・・。

 

でも、私の人生史上で「運動して何かができるようになっていく」とか、「人と同じように成長曲線に乗れる」ということはなかったので、自分の人生史上ではこれはすごい出来事。

 

「運動が苦手キャラ」でずっと生きてきて、むしろ、運動部的なノリとかキラキラ感から距離を置いて眺めていたときもあったのに、今更、「運動ができる」という体験とか、「スキーって楽しい〜」とか声に出すことが死ぬほど恥ずかしいけど、スキーは楽しい・・。

 

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ちょうど、「運動トラウマ」がある人のためのランニング教室のことを知り、運動トラウマ・・自分にもあるなぁと思った。

 

一番古い思い出は、小学校のドッジボール。いつも一番に当たる。当たっても中に入れない。とろくさいので、一番に狙われる・・。

大縄跳びで、みんなで数をカウントして入る・・そんなの絶対タイミングとって取れない、記録をぶち壊すだけ。私はご遠慮願いたいわ・・と思う。

ポートボールのチーム編成で、選手をトレードするときに、チームの人から「能力」がないとみなされた私は、トレードに出される。

持久走も、持久走の日までに地震が来て学校が休みにならないかなとか、学校が爆発されたらいいのに・・と、思いながら迎え、持久走の日1日が嫌で嫌で・・。

走るとみんなを待たせて周回遅れでゴールする。

そういうことばかりで、体育の時間(あと音楽の時間もだ)は、自分はみんなに迷惑をかける存在でしかない・・と思っておりました。

 

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 体育の授業の中でも、水泳だけ得意だったけど、水泳もスキーも自分との対話型のスポーツだと思う。

こうするといいかなと自分でやって、振り返って試して・・で、うまくなっていく。他の人に迷惑かけないように上手にできないといけない・・・という圧力がかからない。

夫・モリソンも「学校の体育」の球技や大縄ではおんなじ思いをしていたみたい。

モリソンも私も多分そうしたタイプの人間なんだと思う。

 

そう思うと、学校の体育の授業の本当の狙いは、スポーツを楽しむということよりも、お友達と仲良くやるとか、協調行動、集団行動を培うという狙いの元で設計されていたのではないかと思う。

 

そのフォーマットにはまっていける一定の運動能力とか器用さがある人はそのフォーマットの中で運動への自己肯定感を高めて、成功体験を積んでいく。

そのフォーマットに乗れないモリソン・私的な人間に向いてるスポーツの種類もあるのではないかと思う。学校が提供するスポーツのフォーマットにはまれないだけで、運動を楽しめる能力が全くゼロ、「運動が得意なあの人たちの世界にはいけない」ということを思わされていたのだなぁ・・と思う。