めんどうくさいわたし

この前、それはもやっとするな〜と言うことをラインである人にお返事をしたら、

「なんだかアカネさんの言うことは難しい」とお返事来て、プチへこんだ。笑

 

その方は保育園父母会の仲間。

これ、周りの知人・友人には伝わる文だったかも・・と思った。

私も含め、私の周りには論理的な思考の人が多くて、そのノリで発したから、その枠の外にいる人には「難しい」となったんだろうなぁ。

 

もやっとすると思えた現象は、ちっとも難しいことではないけど、言葉があることで「難しく」見えてしまう。

 

「なんだか難しいこと言ってるね」という言葉は、相手の「理解することはやめます」と、シャッターを降ろす意思表明みたいなもので、その瞬間、その人と私との間には壁ができてしまうところが寂しい。

 

こういう感覚、昔にもあった・・とふと思い出した。

子どもの頃、「真面目だね」と言われることが多く、それがとっても嫌だった。

 

高校生の頃に、先生が授業で紹介した本?が面白そうだったから、授業が終わったあとに先生に聞いたら、それを見ていたクラスの男子は「いい子ぶってんじゃねーよ」と笑いながら言ってきた。「いい子ぶってねーよ。バーカ」なんてことを言う肝も座っていなかったから、そうじゃないのに・・という言葉は飲み込んだ。

 

大学は、自分が学びたいことを学ぶために選んで、暗記のためではなく純粋に学問として学ぶということはとても楽しくて、授業は面白いと思っていた。(先生やる気ない、聞いてほしいと思ってないでしょという授業もあったけど。)

 

友達と子どもの保育(児童教育・保育についての学科だった)について思うことをよく話していたけど、「あの子たちはなんだかいつも熱く語っていて真面目だ・・」と、見えている・言われることもあったし、「考えるのめんどくさい」「授業だるい」と、思っている人との間にも壁はあったと思う。

 

本を読む、考える、誰かに話す、これはこういうことかな、こうかなと言葉を使って、現象を理解していく・・ということはとても面白いと思う。

それはある人には「めんどくさい」「オタクっぽい」人と映るのだと思う。

 

「難しい」「考えたくない」と言う人を否定したい、自分は「考えられる」人と上に置きたいわけではない。私にも難しいから考えたくない、そんなヒマはない・・ということがある。(勉強の哲学にんも、勉強することはキモい人になることだ・・と全く同じようなことが書いてありました)

 

「真面目だね」と言われるたびに、自分が思ったことは言わない方がいい、何かを考えたい、知りたい・・と言わない方がここではよいとされているんだ・・と、子どもの頃、周りからそう言われることで思ったものだ。

 

今は、真面目だとか、めんどくさい人と思われても、自分が感じたことを言葉として置いていくことは、また誰かの言葉、自分の次の言葉を生むと思っている。

書けばいいし、表現すればいいと思っている。

難しいことを難しいまま、受け止める。そして、考える、話す。

難しいと思えるからこそ、相手と生まれる対話も関係もあると思う。