本や図書館を高いところにおく。

本についてあれこれ思うこと。


図書館=本=文学。私たちとは遠い高いところにおいてる人が多いと感じる。

図書館は地域にとって必要、図書館って素敵だよね・・・と、私が図書館や本をテーマにしているから言われることも多い。

 

でも、必要・素敵の中身ってなんだろう、どうしてそう思うの??
なんとなく、文化的なものをないがしろにしてはいけないってことを感覚にはあっても、その人の生きる現場の中にはないのではないかとよく思う。

 

図書館や本について、あるあるコメントとして、「私は本は自分の好きなものしか読まないので〜」と謙遜、申し訳なさそうにいうこと。

その時のその人にとって好きな本は、もしかすると料理の本や雑誌やペットの本や趣味の旅行やどうしたらダイエットできるか・・という本なのかもしれない。

そうした実用的な本を下等なものとし、文学や小説や現代社会や経済に関する本を高等なもの。
自分は読むのが億劫になってしまう難しいものを読むのが読書であり、本であるって思ってるんだなぁと、会話の端々に感じることは多い。

 

どうして好きなものばかり読んでたらダメなの?
読みたいから読んでいたらダメなのか。読みたくないなら読まないでいたらダメなのか。

 

人にとっての学び、心の滋養、元気になる、ちょっと進むための本、情報は、自分とは関係ないと捉えている文学にも、自分が親しんでいる趣味、芸能人の本や雑誌や漫画やセックスについての本にも同じようにあって、優劣はない。

その人が日々を楽しく生きる、ちょっと元気になる、そのために、それらの本がある・・
そうした場所として本も図書館もあると思うんだけど、本や図書館を高いところにおいて認識しているんだなぁと思う。

 

難しい本を読む時、この本1冊読めないとダメ、読めない自分はバカなのか・・と知らず知らずのうちに思わされていることはあると思う。


読まないと生きていけないわけでもないし、心がわくわくしない・・自分にとっていいと思えないなら読まなければいい。

面白そうと思って買って、最初だけちょっと読んで、途中で興味がなくなって読まなくなってもいい。

 

1冊の本を「人」に例えると、その人とおしゃべりして、その人のこと全部わかったなんて言えるか?様々な対話、一緒に経験をともにしてその人の見え方も変わってくることがある。

そんなことと同じで、自分と対話をする相手が「本」であるとして、その本との対話が終わってしまったり、興味がなくなったり、分かり合えなくてもそれでいいじゃん。

また、いつか会いましょう、その時話しましょうって思って、「本」との関わりを捉えたらいいのになと思う。

 

義務としての読書、辛い思いをして読みたくないけど、賢くなるための読書。
本とはそのようなものだ、図書館はそうした本がある場所だという捉え方があるから、
図書館、その周りにある地域の人たちにとって、わたしたちの場所になっていかないのだと思う。

 

で、その諸悪の根源はどこにあるかというと、「読書感想文」だと思ってる。
義務で読む、義務で感想を書く。読みたい本ではなく、何か正しい、道徳的なことをいってるいい本と大人が認定する本を読む。読書をするのも感想を書くのも内発的な動機によるものではないということを、刷り込んでいる読書感想文をやめたらいいのにと思う。

 

そんな本についての認識を持っていて、本にも図書館にも近づかない人は一生近づかないかもしれない。

持っている見方を変えるのは、「知る」ということが楽しいという実感。

それが本なんだよ、それが情報なんだよと捉え直す機会。

それを通して図書館的な場の姿を分かち合っていけるのではないかと思う。