母になって一人で旅行する。

今回、1泊2日でどこかに行こうと思って、モリソンに言う→会いたい人にアポイントをとる→宿をとる・・までがハードルがとても高くて、思ってはやめようかなぁの繰り返し。保育園に送って、仕事して、迎えに行って・・も日々は過ぎていく。むしろそうした流れを止めて、旅行に行くことの方が労力がいることでもある。

でも、疲れたなぁ、どっか行きたいなぁ・・・。

行きたいということは行った方がいいということなんだと思って、エイっと予定を入れました。で、行ってみて、やっぱり3ヶ月に1回(次は1月くらい)はどこかに一人で行きたい。

長野に行って、会いたいなぁという人にあって話して帰ってきた。

旅行っぽい、観光はせず、帰りに塩尻のえんぱーくに行こうかなと思ったけど、予定詰め込まないで帰ってきた。前ならえんぱーくも行ったかもしれない。

一つのことができたらそれで十分と、動き方も変わったのは疲れてるからなのか、年を重ねて成熟したからなのか?

 

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結婚してから、子ども産んでお母さんになってから、女ってめんどくせー、女であることの生きずらさがあるんだと初めてわかった。女であるから仕事の範囲が決まってるとかそんなこともないところで働いて、人が足りないんだから仕事はいくらでもあります、裁量もあります・・というところでキャリア形成してきたからだと思う。

モリソンと結婚する前も一人で旅行には行ったし、モリソンも一人でスキーに行く。
子どもが生まれても、わたしは、一人で旅行に行くし、モリソンも一人でスキーに行く。それは変わらないというのがわたしとモリソンの間の合意事項、独立した個であるというのが、家族の理念だと思ってる。

 

さとちんにとっては、お母さんとお父さんの存在は違う、違う役割を持っているとも感じている。でも、365日のうち1日お母さんがいないということの重さよりも、日常が大事。わたし・モリソン・さとちんの日々の関わり関係性が、暴力的・抑圧的・依存的・過干渉・不寛容・無関心ではないということが大事で、それは外からは見えない。


お母さんが一緒にいる時間の長さ=愛情、安心できる環境ではないと思ってる。
おかあさんがいない時があっても、さとちゃんが楽しく、やりたいことをやり、
安心して過ごしている、その環境があるか。

でも、世の中はお父さんが出張してても、夜いなくても何も言われないけど、
お母さんが夜いなかったり、旅行すると良く思わない人もいる。
(わたしの周りはそれいいね!という人がいるからありがたいですよ!)

帰ってきて、モリソンに、

「男の人はいいなー、泊まりでどこか行ったり、どんなに夜が遅くても、
『ツマに任せっきりで〜でへへ』とか言って、社会から干されなくていいよね」
と、ぼやいたら、「そういう生き方ができるところにいて、できているならそれで
いいじゃん」と言われ、確かにそうだと思った。

お母さんは、という一般名称に対しての声は自分に向けられてないわけで、
わたしがどんな環境にいるかが事実だよなぁと思う。

ふてくされずに、軽やかにいこうと思った。