「まちづくり」という言葉の違和感

先日、自分が住んでいる居住地域での「まちづくり」を
考えるワークショップのお知らせを見てモヤモヤとした・・。

「なんか外から人が来て、好き勝手言って、これがこの街に
必要なことなんて言うんじゃないでしょうね・・」

という気がして、「よーし参加しよう!」という気にあんまりなれなかった。

付箋や模造紙使って、なんだか良さそう、素敵なことを考えて
街の未来、街に必要なことを考える・・。

それは街の姿を捉えているのか、街に生きる様々な人の声なのか。
例えば、自分がその街に生きていて、「私はよく知っている」と言ったってそれは、自分のたっている場所からの情報でしかない。

地理的、歴史的な背景を捉えた上で今を見ている?
この街がどんな風に歩んで、どんな状況なのかを客観的に示すデータを調べる。
そのプロセスなくして、その街が「わかった」なんて言えるのだろうかと。

プログラムを見て、そんなプロセスがない場のように、見えてしまった(わかんないけど)

 

そこに住んでいる、関わりがあるものとして、街に立って、「まちづくり」という言葉を聞く時、「まちのために、何かしてあげる」という上から目線に「まちづくり」という言葉を感じた。

 

「まちのために」なんて壮大なことは考えずに、自分と誰かが喜ぶことをそれぞれが考えるということ=地域の未来の一端をつくることではないかと思う。

 

でも、「まちづくり」という言葉になった途端に、「まちのために考えてあげる」正義の立場に立つ人になってしまう。

 

「まちづくり」に関わるコーディネーターとか、コンサルとか、ファシリテーターの人はそういうことをひっくるめて理解をして関わるという構えは必要ではないかと思った。そこでみんなが描く「まち」には違う角度からの見え方もあるかもよ?見えてないこともあるかもよ?と、その場を作る人、まちづくりをする行政やNPOの人は問えなければ、見えてないことは見えないまま・・ってことに気づいているのかどうか。

 

ある地域にコンサルがやってくる・・
なんだか人がつながる素敵な場所、おしゃれな場所がつくられる。
そこにいる地域の人たち、私のような違和感の中で見ているのではないかと思った。

 

私はやっぱり図書館的な立場から、まちのことを知る、調べる、見え方が変わることに貢献したいのだと思った。
それが街づくりにつながってもつながらなくても。
課題が解決できなくても。
まぁ、そもそも課題なのか?というツッコミもある。
それではダメなんだろうか。