一人じゃないキャンペーン

8月の終わりになると、子どもの自殺が増えるということから数年前から、不登校特集とか、学校に行くのが辛い子へのメッセージがメディアでよく報じられるようになった。この時期の「一人じゃないキャンペーン」そのものが当事者にとっては圧なんじゃないかなと思った。ついでにそうした報道で、そんな時、お母さんが支えてくれたとか、親こそが最後の砦・・みたいな報道もあり、それもまた圧だなぁと思う。

 

私は、中学や高校の頃、友達との付き合いとか会話とか最大級に苦手で、教室やクラスの人と会う登下校時、逃げるように過ごしていた時もあったなぁと思う。

人ともっと仲良くなりたいと思いながら、「人は結局孤独である・・」なんてことを思っていた。当時の私なら、「一人じゃないよ!」という眩しく正義を言う大人が嫌いで、そんな人にそんなこと言われてもアンタのところには行かないわなどと思っていたと思う。

 

そういう孤独な思春期だったんだけど、心が孤立していた、行き詰まって、死にたくなっていたわけでもなかった。やりたい勉強やなりたいもの(図書館司書)があったのと、美術室にいる先生とか、学校の図書館の司書室にいる先生とかに会いにいって、なんでもないことをただ話したりする。好きな絵本のお店に行く、お習字の教室にいく、絵を描く・・基本、自分と向き合う系の一人の場を複数持っていて、そのような状況で、閉塞的な状況にはならかなかった。

あと、人との会話に興味を感じない分、自分の中での対話、言葉を育てているような時期だったのではないかと思う。このあたり、斎藤孝の「孤独のチカラ」で、著者が経験的に思ったこととすごく似ていた。

 

今は、当時の私は孤立していたわけではなく、「孤独」を愉しんでいたと思う。

学校が辛いという子どもに、「一人じゃない」という言葉は助けになることもあれば、それを強調しすぎると、「一人(孤独)ではいけない」と逆に、追い詰められるように感じる子もいるんじゃないかなと思う。

孤独=孤立と大人が思って、なんか助けてあげなくちゃと、みんなが思っているようなこの状況が圧である。学校に適応できない子というのは、教室の中の同調圧力とかスクールカーストとか子どもたち同士の価値観に違和感を持つ子なのではないかと思う。

そうした人に対しての暴力がイジメでもあるのかなと思う。

そうした子にとって「一人じゃないよ」と言われることは、神経を張り巡らせないといけない「みんな」の世界に行かないといけないって思うのではなかろうかと思った。

一人でいられる場所をつくることの方が救いなのではないかと思う。

必要な孤独もある。一人をずっと愉しんできた私は思う。

とりあえず、この8月末に大人が過敏になり、一人じゃない!と、叫ぶことをやめた方がいいのではないかと思う・・。