イベントレポート:わたしを紡ぐ営みと表現

【個人で取り組んだ活動、お仕事の記録です。】

名古屋市西区の長善寺住職、蒲池さんより、アールブリュットについての対話イベントをやりたいな〜というご相談を受け開いた11月17日に行った対話の場です。

 

アールブリュットって何?

アールブリュットとは、正規の美術教育を受けていない方から生まれる生(き)の芸術。西洋の芸術の伝統的な訓練を受けていない人が制作した作品であるが、アートとして扱われるものを指す。フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが1945年にアールブリュットと呼んだことに始まる。(Wikipediaより要約)

 

必ずしも「障害者のアート」ではない。

私が、アールブリュットに出会ったのは、10年以上前だったかと思う。滋賀県にあるアールブリュットの美術館で、統合失調症の方が毎日、毎日書いたその人にしかわからない言葉の数々が地層のように重なった紙をの束を見た時に、この人にとっての日常であり、言葉であり、その人から見える世界の面白さに心が動いた。

 

それから、アールブリュットは日本でも浸透し、各地で展覧会も開かれるようになった。今回は、そんなアールブリュットについてのイベントをこの秋に行った長善寺の蒲池さんから、対話の場を企画したいというお話しを受けて行われた。

 

一緒に企画したのは、発達障害の方の支援をしている松永結実さん、精神障害の方が活動する場としてのコミュニティカフェかかぽを運営する一般社団法人しんさん。

打ち合わせをする中で、障害やアートに対しての思っていること、違和感もなんとなく共有できているなぁという感じがしていた。そして、企画にしたものの、どんな話になるんだろう・・とちょっと先が読めないワクワクも私は感じていた。

 
アールブリュットの矛盾、違和感

アールブリュットは評価され、国もお金をつけるようになってきたらしい。

世に評価され、作品がおしゃれな商品に生まれた変わったりするようになる。

障害者の収入になっていいよね!と捉える人もいる。

自由なアートなのに、不自由さが生まれてくるようになる。

周りがアールブリュットのイメージ像を勝手につくったり、素敵な作品を求めるようなことが起きているということ。


ボクシング?暴力?アートの境界とは

支援に対して、こうしたい!嫌だ!という感情の発露、それがアートではないか。

既存の枠組みを逸脱する、ロックな行為がアールブリュットではないか。

社会に許容できるものが、ボクシング、許容できないものが暴力。

その間にあるようなものがアールブリュットではないのか。
誰もが受け入れられるアート(ボクシング)の形にしてしまうということが、その人の表現、あり方を認めないということではないのか。

 

支援者、教育者のコントロールしたいという無意識の気持ち

支援や教育の現場にいるその人が枠から外れようとする、問題と捉えられる行動をとる時、自分の範疇を超えることに恐れの気持ちを抱く。

支援者に対しての反抗や批判、「〜したい!」と抵抗することこそが生きる源泉となる力。管理された中の表現、アートを求めていないか。

支援者は社会の間にいる通訳のような存在とも言えるが、その支援者に余裕がないために面白い表現であっても潰されてしまう。

本人の世界を表現する手立てを渡し、その結果生まれたものがアートであるはずなのに。障害に限らず、そもそも日本社会は、意味がないこと、役に立たないこと、合理的ではないこと・・をそのままにしてしておけないのではないか。

無秩序なことに秩序を、意味がないことに意味を。目に見える成果や評価を。

もやもやと感じて言葉にならないことのままにはしておけない、誰にでもわかりやすい形に成形しようとする。日本ってやっぱり「不自由」ですねぇ・・。

 

今回は、特に対話の落とし所といのはなく、ただただ、言葉を交わしていくだけの場。

これって終わりがないよね?!と、もっともっと話したいという気持ちになったなぁ。

f:id:akaneironomori:20191202132326j:plain

f:id:akaneironomori:20191202132348j:plain