世間と社会の違い
わたしは、社会は、今、わたしがここに生きて立っている場所と思っている。
その最小単位は家族との関係や、人と人が集まる場全てが社会だと思っているのだけど、どうやら周りの人はそう思ってないらしい。
なぜ、言葉にしないで忖度しあったり、仲間外れにされるような息苦しい場が多いんだろう。
人それぞれだよねっとか言ってるのに、人それぞれに歩く自由、歩かない自由を認められないんだろう。
人それぞれが持っている権利を大切にできず、わたしとあなたは同じでしょという押し付けの暴力はどうして、生まれるんだろう。
ちっともジェンダーバイアスやハラスメントがなくならない。
生きている場所の呼吸がしにくく、生き生きできない場所をなぜ自分たちで作り続けるのか。自分のその周りの場(=世間)は社会であり、自分たちでつくるものなのに、そうではないという風に無自覚に思ってるからなんだと、阿部謹也さんの本の一節を思い出した。日本に住む人は長い間、「世間」で、生きてきて、それはとても根深く引き継がれているのだと思った。
「世間とは何か」阿部謹也 講談社現代新書
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世間と社会は違う。
社会は明治以降、文章の中で使われ始めた。
(明治10年代にsocietyの訳語として社会という言葉がつくられ、individualの訳語として個人がつくられた)
西欧では「社会」の前提に「個人」がある。
個人は尊厳を持っており、その個人が集まって社会ができる。個人の意思に基づいて社会のあり方も決まる。
日本の場合、世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。
世間は与えられているものとみなされ、欧米流の概念では説明できないもの。
世間を構成する2つの原理
・長功の序
・贈与・互酬
こうした要素から、世間とは、差別的で排他的にもなる。
世間とは、「非言語系の知」の集積
これまで世間について論じた人がいないのは、「非言語系の知」を明らかにする必要がなかったから。