生きづらい明治社会

読みました。「生きづらい明治社会」松沢裕作 岩波ジュニア新書

あとがきの言葉がとてもよかった。
PISAの調査で、子どもの読解力が下がって、日本社会はおろおろしていた。どこかの国に負けるんじゃないかとか、国の競争力が下がるとか、そんなことしか考えてないように見える。本来、その読解力、言葉は誰のためでもなく自分を助けるためにあるものだなと、このあとがきを読んで思った。

・・・・・自分はそれなりにやかんとして人の役立つことによって幸せに暮らしていたのだが、ある日突然やかんの持ち主によって、電気ケトルを買ったので、お前はもういらないと言われるとか、水ではなくて爆薬を詰められて誰かに投げつけられたりするというようなことが起こらないとも限らないと思うと、ずっとやかんでいいのだろうか?という不安にかられたりするというようなことです。
・・・中略・・・
言葉を使って何かを伝えるということは、その内容を自分ではない誰かと共有するということです。歴史学とは、過去の誰かがおこなった何かについて、誰かが書き残した言葉を読み、それを現在の言葉によって現在の人々に伝えるということです。遠い過去の人たちもまた、ときに世の中のわけのわからなさの前におろおろしています。それを現在なお、わけのわからない世の中でおろおろしている人々の元に届けることは、世の中の複雑さ、わけのわからなさに立ち向かうときに、私たちが発することのできる言葉や理屈を豊かにすることにつながるのではないでしょうか。

 

明治時代をポジティブにとらえる歴史観

明治時代になると日本は近代化の道を歩み始めた、鹿鳴館ができた、欧米からの産業や文化が入ってきた・・明治の世の表現は明るいものばかりだった。でも、それは作為ある歴史観だった、自分はその中で、教育されてきたんだと気がついたのは、ここ数年。多分、網野善彦さん系の本とか?パオロマッツアリアーノの本とか?で知ったような気がする。

日本人が「伝統」と思っていることはだいたい明治の頃からなんだとわかった。それより以前は言葉も文化もバラバラに存在していた。それを一つにしようとした、多様性を排除したとも言える。
富や権力を持つ、体制側からの見方だったんだね・・
幕末の志士とか、明治政府の偉人をリスペクトしている経済人を見るとやっぱりそっち側、強者側なのかぁと思う。

 

クーデータによってできた明治政府にはお金がなく「小さな政府」


お金がないから「小さな政府」になる。その後、政府にお金が入るようになっても、それを再分配には回さず、軍備増強に回していた。
「通俗道徳」の檻の中に人々はいて、これは私の「努力が足りないから」だと思わされてきた。この通俗道徳は、歴史学者安丸良夫さんによると、江戸時代後期、市場経済が広がり、貧富の差が激しくなって行った時に、人々の規範を律するための基準として生まれたということ。
そこから始まっていたのかーーーーと、思った。

貧困やニート、非正規雇用の人、働けない人などに対して、「個人の頑張りがないから」個人の努力次第でなんとでもなると、できないのは怠けているから、我慢が足りないから。
生活保護バッシングとか、引きこもりの人を無理やり引っ張り出すことが行われていることとか。
新自由主義の現代の特徴なのかと思っていたらそうではなく、もっと長い歴史(長いといっても100年くらい)の中で生まれたものだった。

明治の世と人々が置かれている世界は同じではないか・・。