主語を自分にして言葉にする

 私が、20代からずっと生きてきたフィールドは市民活動やNPOやソーシャルセクター。自分がやりたいこと、感じていること、これが大事かもっていう哲学を自然に口にする場。自分の考えを言わないと、「自分(自団体)にとって不都合になる!」「自分でイニシアチブ取らないと、自分が大変になる!」という現場で、生き延びるために、自分で考え、話してきたと思う。それが私の日常。

 4年前に子どもを産んで、子どもが保育園に入り、保育園の父母の会という世間に出会って、自分が関わってきた世界は特殊だったのか・・と思わされることが多い。

父母の会をこんな場にしたい、この企画はこういう思いで企画した・・と、今年は、父母の会会長だからいろいろな場面で話す。

 そのようにコンセプトを伝えることはとても大事だと思う。

 市民活動と同じ、当たり前のように話していた。

 市民活動の現場なら「そうそう思う」「そうだよね・・私はこんなことしたいなと思う」と、こちらが投げたことに対して、自分の考えを話す人がたくさんいる。

 

 保育園では「わたし」を主語にしてどう思うかを言わない保護者が多い、うんもすんもなく、のっぺりしてるんだよなぁと思う。

 あ、そうかやはりわたしはここでは「変態」なんだったわ・・と思う。笑

 

その場が安心・安全に話していい場ではないということかもしれない。

また、思ったことがあってもそこで言うことに価値を感じないということかも。

意識が高い、意識が低いと姿だけで判断したいわけではない。

 「わたし」が感じていることと「あなた」が感じていることは違う。

 言葉にするのは、新しい対話を生み出すことになるし、自分にとって、他人にとっても意味があることだと思う。いい対話はそこにいる人の言葉でつくられていく。どんな言葉も大事な言葉、持ちよって成熟していくもの。多分、そう捉えてないということ。

言わないのか言えないのか、言う必要がないのか。どれなのかわからない。

送り迎えするだけの場所ならそんな必要もないよねということなのだが。

ある程度、自分の意思の元で集まった場でも「わたし」で話さないというのは、やはり全くの自由意志で集う、サードプレイスであるNPOとは違うんだろなぁ。

「言葉にする」というのも経験。思っていることを言葉にする経験をしていないと、できなくなってしまう。それができない、求められてこなかったという人が多いのかもしれない。それで人生の迷子や子育ての迷子になることもあると思うなぁ・・。