変な大人枠で本のお話する時間

 様々な理由で困りごとを抱えていたり、生きづらい、孤立する子ども・若者支援をしている、名古屋市子ども・若者総合センターからのご依頼をいただきまして、「本の話をただ楽しくする変な大人」としてお話に行きました。

お話する相手は、今年大学1年生になったばかりのMさん。

Mさんは、「本が超大好きな子!」です。支援員Eさんは、私を思い出してくれたんだなぁと思います。ありがたい。

 

私は、高校生・大学生・20代の頃、ナナメの関係(学校・家族以外のつながり)の人々や、何をして生きているかわからない変な大人に出会うことで、助けられてきました。Mさんから見たら、にんげん図書館という仕事ではない活動をしていて、仕事はいくつかのNPOなどという人は「変な大人」。今日は私もそうした変な大人枠でお話。

 

「どんな本に興味があるの~?」「どうして興味を持ったの~?」と、お話を始めいきました。自分の本の遍歴を書いた年表を持って行ったのですが、それに興味をもった支援員EさんとMちゃんと本の年表ワークに突入。「この時はどんな本読んでいた??」と、子どもの頃から好きだった本の名前を挙げてホワイドボードに書き込んでいく。

 同じ時代で見ても、違う本にはまっていたのが興味深い。

高校生の頃、Mちゃんは文豪にはまり、私は村上春樹、Eさんは星新一村上春樹村上龍。途中、我を忘れ、本の話を楽しくしすぎてしまうEさんとわたし(笑)

 

私が、大学生の頃に強く影響を受けた、モーリス・センダックの絵本を紹介しました。

センダックの絵本は、子どもの心理を描いた絵本が多いのですが、センダックに教えてもらったことは、「ファンタジーの世界が辛さや困難の中を生きる助けとなる。人はうそっこの世界に助けられている」ということです。自分の目の前の現実が辛い時、困難にであった時に、ここではない世界(ファンタジー)が、現実を違う言葉に置き換えて捉える力をくれたり、ホッとする時間をくれたり、本の中の人々が自分の話を聞いてくれるような気持ちになったりします。

 

 それらは、「文化」という言葉で呼ばれると思います。「文化」は高尚なもの、自分には関係のないものと捉えられてしまいがちです。

教養があるように見えるとか賢く見せるための文化ではなく、自分の身を助けるためにあるのが文化だと思います。自分が好きなエンタメ、サブカルチャーでもいいと思います。文化との回路を持つことは生きるチカラとなると思います。

すでに、Mさんはそんな世界の楽しみかたを知っていると思いました。

次はとっておきの1冊(1冊で終わるかな)を持って集まろうとなりました。 

次回もどんな話ができるか楽しみです。

対話しないといけない強迫観念 

 朝ドラのスカーレットがとってもよい。それはなぜかというと、「家族」「夫婦」の絆とか二人三脚の美しさを描いていないから。

 

 主人公貴美子と、ハチさんの日々を描いたドラマ。

 二人とも陶芸家、最初は一緒に歩んでいくことを願っていたのに、いつしかすれ違いだす。「もっと話したら、対話したらいいのに」っていう思いを視聴者は抱く。

 

 貴美子は芸術家肌、壊しながら前に進む、新しいものを生み出すタイプ、

 ハチさんは、貴美子のように芸術家として何かを生み出したいと願っているが、すでにあるものを大切にしながら進むタイプで、2人の違いが「別れ」につながった。

 

 もっとわかりあうための対話をすればいいのにって人は思う。

 「一緒にいるのがよい姿」で、別れるのは望ましくないと自然に思っているから。

 でも、私は、それぞれの道を進むのが必然、それが答えだったんじゃないかなぁと思う。そうせざるを得ない心の声があり、それに素直になれてよかったねってことではないかと。

 

 平田オリザさんの言葉を借りれば、分かり合えないことを前提としたコミュニケーションが「対話」

 平田オリザさんの著書、「わかりあえないことから」を読んで、対話大事!!って、言っている人も最終的には「わかりあうこと」を目指してしまっているのではないかと思う。

 わかりあえない絶望よりもわかりあうことの希望を望む心理があるのかなぁ。

 どんなに言葉を交わしても、わかりあえないものはわかりあえない。

 「膝を突き合わせて、対話をするのがいいことだ」と、対話最強説は苦しい。

 

 最近、ドラマは終わりに向かい、貴美子とハチさんは歳をとり、最近また話したり、ご飯を食べたりする関係になった。

 

 二人の経過をずっと見てきた息子たけしは「時と距離によって、二人の関係が変わった。」と言った。

 わかりあうことを手放したとしても、時と距離によって、人の捉え方も変わる。

 

 対話して、わかり合って、二人三脚で行こうぜ!という姿。

 わかりあえないところを残したまま、それぞれ歩く姿。

 私は後者が好きだが、バラバラに歩いて、そのまま別れてしまったらそれでいいと思うけど、やっぱり一緒がいいってどこかで思ってるんだよね。

 

 

「情報」の意味 参照する先は外・インターネットの中だけではない。

 この前、にんげん図書館でライブ配信した後、「ヘトヘトになって疲れていたから見られなかったごめんなさい」とメッセージをもらったんだが、「それでいいんです!!!」とお返事した。

中の情報=自分の中の世界を大切にしたい時はにんげん図書館にこなかったり、参加しなくていいと思っている。

 

自分の中の声とか気持ちとかを置いといて、義理とか、気遣いとか、馴れ合いとかで参加されることがとても嫌なので、たくさん人が集まらなくても、むしろ自分一人になってもいいとさえ思ってる。(だって、わたしがイベントにいくのも好きじゃないし(笑)一人の時間を優先したりするので・・)

情報=自分の内と外にあるもの

 

 わたしは「図書館」について考えたいと思われてるし、そう言ってるんだけど、「情報」についての捉え直しをしたいんだと思う。

「情報」って外の世界にあるもの、外から収集するものと思われていると思う。

 情報=ITと思われてしまうようにも思う。

 

 自分の中、自分自身も情報の塊だと思っている。

 自分の生きてきた物語と、立ってる場所が、自分の価値観と言葉をつくるから、外を参照するのと、自分の中の参照がいつも同時にあると思う。

 

 「自分の内なる声に耳をすます」とう風にも言われたりする。いきなりスピリチュアルな表現になって、敬遠する人もいる気がするが、「ヘトヘトになって疲れているな・・」と感じたら、外の情報よりも内の情報を優位にしたくて、外の情報を遮断するようにするということ。

 どんな仕事をしようか、どんな風に生きていこうかと迷ったり、不安になったり、目の前の世界が霞んで見える時、自分はどうしたいか、何が嬉しくて、何が嫌いなのか、指針があるのは自分の中。自分の中の情報を見つめたくて、旅に出たり、お寺に行ったり、マインドフルネスしたりする。セルフファシリテーションという言葉で表現されているように思う。

 

 図書館は自分の外にある情報を収集する場だけでなく、自分の中にある情報にも気づく場所ではないかと思う。

 自分が思っていることというのは絶対ではなく、自分が意識している、自分が好きとか苦手という範囲を決めてしまっているだけだと思う。

 自分がほしい情報を検索することから始まるのがインターネットの世界で、検索したら、アルゴリズムであなたはこれがほしいのでしょう?と、インターネットは親切にも教えてくれる。そうするとますます自分の世界は狭くなる。

 

わたしが図書館に行く時、「今日はこれについて調べよう、本を探そう」と思っていくんだけど、返却された本が並ぶ棚、自分がほしい本が並んでる本の隣にあった本、テーマ展示と自分が意図しないところから、自分の心の中が楽しくなる。

違う世界が見える本に出会っていつも帰る。

本を読んで著者と対話することで、外から自分の心の中が照らされることもあり、外の情報を取りに行きながら、実は自分の中を参照する場が図書館なのではないかと思う。

 

これからの時代は情報を取捨選択できる力が大事!という違和感

 

情報を取捨選択する、上手に探すためのスキルが、メディアリテラシーなのか?そうなの?

 

人より早く、正確に探す、そういう競争原理の中にあるものなのか。

溢れる情報の中で、「根拠のある正しいことを見極めるための情報探索スキルが必要」という言い方を良く聞くけど、ほんとにそうなのかなぁと思う。

 

自分の中にフォーカスするスキルもリテラシーなのではないかと思う。むしろ自分の外に情報はたくさんあるのに、自分の中のことが見えなくて迷子という人も多いような気がする。カリスマ性がある人、強い表現に心酔してしまうのではないかと思う。

 

情報とは「自分の内と外にあるもの」と再定義したい。

外にある情報を取り込みながら、自分の中にある情報と掛け合わせて精製して、歩いていく。それが生きることにあるリテラシー。そうやって生きる過程=幸福ってことかもしれない・・・・・と、腑に落ちた。

 

そして、情報を社会の中でデザインしていくプロフェッショナルがライブラリアンならば、外の情報だけでなく、自分の中の情報も大切にしてほしいと思うなぁ。

 

 

縦軸と横軸のコミュニティ

配信後のお茶で、いろいろ話していて、「長野のひーさんが」「くれないのさっちゃん」とかそれぞれの地域に素敵な人がいるんですよ!って話になる。
 
そこにいた私も含めた図書館クラスター4人ほどは「あーひーさんね」ってなってる横で、「ひーさんとは?」となる非図書館クラスターの人に、「ひーさんとはですね県立長野図書館の館長さんなんです・・」と、私は、通訳をする。笑
 
ICTやAIですごい社会がやってくる、なんでもできちゃう気がするのは錯覚で、結局は村の中の「どこどこの誰々さんが、あそこのせがれが」みたいな形で人的資源は共有される。
村の外の人と出会い行き来が生まれる。大昔と同じことが人と人が出会う場では展開されているんじゃないかと思う。
 
動画配信のときの打ち合わせで、嶋田さんとのお話で出てきた、横軸と縦軸のコミュニティが交差する場所だったなだと思った。
 
縦軸が同じ領域内クラスターである図書館・またはその界隈同士(クラスターって前から使っていたけど、急に別の意味の流行語になり使いずらい・・笑)のつながりと、横軸は、地域という範囲で見たつながり。
 
縦軸にあるクラスター(まちづくり、福祉、NPO、行政職員・・など)と縦軸のクラスターが出会うと楽しいな・・と話していた。
 
それもただ、出会う、異業種交流会のようにただ名刺交換するつながりは薄っぺらい。
 
一緒に場や機会やプロジェクトや配信をつくって議論して、対話して、あははと笑ってつながるってことなのだわ・・
 

シンクタンクとDOタンク ライブ配信の裏側

3月8日のイベントの延期からライブ配信ができるまで 

3月8日に「図書館・まち育て・デモクラシー」の著者、嶋田学さんと、美濃加茂市でサスティナブルな地域づくりに取り組む加藤慎康さんをお招きしてのトークセッションを企画していたのに、新型コロナウイルス感染予防から延期。

か・な・り気合を入れて準備していて、楽しみにもしていたので、がっくりする。

でも同時に、やめてしまうのはなんかもったいない・・中止になったからこその状況を楽しみたいと思った。「ライブ配信やれないかな・・」とフェイスブックで呟いたら、「ライブ配信スタジオがあるよ!」と連絡をくれた人がいた(!)金山のライブ配信スペースCONASERUさん。

その週にすぐに見学に行き、すごい設備に目からウロコが落ちる。

そして、ゲストのお二人が会場に来てくださることにもなり、これはやれるね?!となる。当初イベント運営に協力してもらう予定だった人たちと配信チームを組んで配信することになった。

 

そもそも私もゲストもメンバーもライブ配信をしたことがない。

未経験でイメージがぼんやりしているため、ゲストへのオーダーもぼんやりしてしまうところもあり、当日やってみよう!というノリで迎えた。

届ける情報の範囲、量、質とか見せ方とか作る側になってみて、考えることができる。番組の構成や広報の仕方まで的確にアドバイスをいただけたことでできたわ・・。素人がゼロから全てやるとしたら、こんな風にはできない・・。

NHKの情報番組でどんな風に喋ってるんだろう・・などと、テレビを自分ごとにして見るようになり、夢の中にライブ配信という言葉が出てくる日々を過ごして、迎えた当日。


ライブ配信が始まる本番1時間前

嶋田さんとは遠隔でやりとりをしてきて、しかも初めてお会いした。嶋田さん、しんやすさんと顔を合わせて、改めて本日のテーマについてお話。


その横で技術面での準備を着々と・・・

こっちのカメラ見てね〜
裏方さんからの指示はここから出るでね〜
このボタンで画面切り替え操作してね〜
ここでスライドゥ出してね〜あっという間に本番2分前。


直前に友人からのラインやりとり「ねぇねぇ、ここ見たら配信見られるの??」「そーだよ〜よろしく!」などと答え、意外と余裕(笑)

そして、スタート〜!最初は緊張したが、ちゃんと台本考えておいたのと、先週お試し動画撮っておいたのがよかったのか、あっという間に楽しく過ごせた2時間でした〜!

終了後、裏方さん・ゲストのみんなで、おやつの打ち上げも心地よい。

語りきれないことの申し訳なさ

配信の途中、裏方さんから「そろそろ終わって、まとめにください」「視聴者コメントにうつってください」「ペンカチカチすると聞こえるよ」と、ホワイトボードで、的確な指示が飛ぶ。テレビ番組のようだ!


しかしその場その場の判断とか、私が他に気を取られ、語りきれないところとか、拾えないことが出てきてしまう。

「もっとあの話拾うところだった、ああやって返したらよかったな、コメント紹介で拾っていない声をもうちょっと見たかったーーーごめんよーーー」と帰宅してから寝る前まで、振り返りが駆け巡る。

生放送とデレビ番組の限界だし、だからリアルが必要となるのだなと思う。

「情報」と「図書館」の姿については語りきれずに終わってしまったかな。地域社会からの視点、図書館からの視点での議論、もっともっと深めたいことがたくさんあった。 

地域のメディアをつくる=「出番と役割」の機会

対話の場はリアルだろ!って考えるタイプで、全く動画配信というものに興味がなかったのだが、新しい世界が見えた!

動画配信というと、ものすごい話の上手な人が一芸でユーチューバーになるみたいな印象がある。私は、リアルな場を持っており、そこで生まれる小さな物語を大切にしたいと思ってきたので、自分がお守りをするコンテンツが1つ増えるようなことの費用(自分の時間的コスト)対効果とか考えたら、動画配信は興味ないなーーーと、思っていた。

 

しかし、苦手なところはプロにお任せしでき、画面も見やすく、双方向にもなんとなくだができるというこの方法、CONASRUでまたやりたいな!と思えた。

 

「出番と役割」「関わりしろ」「協働」のための仕掛けを考えた時、配信をつくるという仕掛けがとってもよいという気づきが大きな収穫。


みんなが子どものようになり、失敗も暖かく受け止める。
何を伝えたいのかを対話をする。

それぞれの持ち味も出て、あー楽しかったと、最後におやつ食べて終わる。

 

図書館の人も行政職員も個として場を共にする草の根的な活動を通して、よりよい方向へ変わる環境や関係をコツコツ育てるというのが私の立つところなんだが、このコンテンツで、今度はあの人とこの人を呼んで、また違うチームでやりたいな・・と既に妄想。。私はやっぱ、そうした場をコーディネートするライブラリアンなんですね。

 

帰宅すると、配信をチラ見していた夫モリソンが(興味ないと思っていたけど見ていたんか!!)、「いい社会資源見つけた」「あれでバックオフィスの講座できるな」「どうやってお金集めたらいいんだろ」「お値段はおいくら?」と、ブツブツ言っている。

視聴した人がなんかやってみたいことが浮かぶのがCONASERUの力だと思った。

地域の人がつくるメディアとして、図書館にライブ配信スペースつくるところ現れないかな・・・・

 

嶋田さん、しんやすさん、強力すぎるスタッフのみなさん(プロのイベント屋さんですか?という布陣)とCONASERUさん、ほんとにありがとうございました!

 

主語を自分にして言葉にする

 私が、20代からずっと生きてきたフィールドは市民活動やNPOやソーシャルセクター。自分がやりたいこと、感じていること、これが大事かもっていう哲学を自然に口にする場。自分の考えを言わないと、「自分(自団体)にとって不都合になる!」「自分でイニシアチブ取らないと、自分が大変になる!」という現場で、生き延びるために、自分で考え、話してきたと思う。それが私の日常。

 4年前に子どもを産んで、子どもが保育園に入り、保育園の父母の会という世間に出会って、自分が関わってきた世界は特殊だったのか・・と思わされることが多い。

父母の会をこんな場にしたい、この企画はこういう思いで企画した・・と、今年は、父母の会会長だからいろいろな場面で話す。

 そのようにコンセプトを伝えることはとても大事だと思う。

 市民活動と同じ、当たり前のように話していた。

 市民活動の現場なら「そうそう思う」「そうだよね・・私はこんなことしたいなと思う」と、こちらが投げたことに対して、自分の考えを話す人がたくさんいる。

 

 保育園では「わたし」を主語にしてどう思うかを言わない保護者が多い、うんもすんもなく、のっぺりしてるんだよなぁと思う。

 あ、そうかやはりわたしはここでは「変態」なんだったわ・・と思う。笑

 

その場が安心・安全に話していい場ではないということかもしれない。

また、思ったことがあってもそこで言うことに価値を感じないということかも。

意識が高い、意識が低いと姿だけで判断したいわけではない。

 「わたし」が感じていることと「あなた」が感じていることは違う。

 言葉にするのは、新しい対話を生み出すことになるし、自分にとって、他人にとっても意味があることだと思う。いい対話はそこにいる人の言葉でつくられていく。どんな言葉も大事な言葉、持ちよって成熟していくもの。多分、そう捉えてないということ。

言わないのか言えないのか、言う必要がないのか。どれなのかわからない。

送り迎えするだけの場所ならそんな必要もないよねということなのだが。

ある程度、自分の意思の元で集まった場でも「わたし」で話さないというのは、やはり全くの自由意志で集う、サードプレイスであるNPOとは違うんだろなぁ。

「言葉にする」というのも経験。思っていることを言葉にする経験をしていないと、できなくなってしまう。それができない、求められてこなかったという人が多いのかもしれない。それで人生の迷子や子育ての迷子になることもあると思うなぁ・・。

生きづらい明治社会

読みました。「生きづらい明治社会」松沢裕作 岩波ジュニア新書

あとがきの言葉がとてもよかった。
PISAの調査で、子どもの読解力が下がって、日本社会はおろおろしていた。どこかの国に負けるんじゃないかとか、国の競争力が下がるとか、そんなことしか考えてないように見える。本来、その読解力、言葉は誰のためでもなく自分を助けるためにあるものだなと、このあとがきを読んで思った。

・・・・・自分はそれなりにやかんとして人の役立つことによって幸せに暮らしていたのだが、ある日突然やかんの持ち主によって、電気ケトルを買ったので、お前はもういらないと言われるとか、水ではなくて爆薬を詰められて誰かに投げつけられたりするというようなことが起こらないとも限らないと思うと、ずっとやかんでいいのだろうか?という不安にかられたりするというようなことです。
・・・中略・・・
言葉を使って何かを伝えるということは、その内容を自分ではない誰かと共有するということです。歴史学とは、過去の誰かがおこなった何かについて、誰かが書き残した言葉を読み、それを現在の言葉によって現在の人々に伝えるということです。遠い過去の人たちもまた、ときに世の中のわけのわからなさの前におろおろしています。それを現在なお、わけのわからない世の中でおろおろしている人々の元に届けることは、世の中の複雑さ、わけのわからなさに立ち向かうときに、私たちが発することのできる言葉や理屈を豊かにすることにつながるのではないでしょうか。

 

明治時代をポジティブにとらえる歴史観

明治時代になると日本は近代化の道を歩み始めた、鹿鳴館ができた、欧米からの産業や文化が入ってきた・・明治の世の表現は明るいものばかりだった。でも、それは作為ある歴史観だった、自分はその中で、教育されてきたんだと気がついたのは、ここ数年。多分、網野善彦さん系の本とか?パオロマッツアリアーノの本とか?で知ったような気がする。

日本人が「伝統」と思っていることはだいたい明治の頃からなんだとわかった。それより以前は言葉も文化もバラバラに存在していた。それを一つにしようとした、多様性を排除したとも言える。
富や権力を持つ、体制側からの見方だったんだね・・
幕末の志士とか、明治政府の偉人をリスペクトしている経済人を見るとやっぱりそっち側、強者側なのかぁと思う。

 

クーデータによってできた明治政府にはお金がなく「小さな政府」


お金がないから「小さな政府」になる。その後、政府にお金が入るようになっても、それを再分配には回さず、軍備増強に回していた。
「通俗道徳」の檻の中に人々はいて、これは私の「努力が足りないから」だと思わされてきた。この通俗道徳は、歴史学者安丸良夫さんによると、江戸時代後期、市場経済が広がり、貧富の差が激しくなって行った時に、人々の規範を律するための基準として生まれたということ。
そこから始まっていたのかーーーーと、思った。

貧困やニート、非正規雇用の人、働けない人などに対して、「個人の頑張りがないから」個人の努力次第でなんとでもなると、できないのは怠けているから、我慢が足りないから。
生活保護バッシングとか、引きこもりの人を無理やり引っ張り出すことが行われていることとか。
新自由主義の現代の特徴なのかと思っていたらそうではなく、もっと長い歴史(長いといっても100年くらい)の中で生まれたものだった。

明治の世と人々が置かれている世界は同じではないか・・。