近くを見るために遠くを見る。
学ぶ・知る経験知を培う
先日、図書館関係者による新しい図書館(仮)の姿を考え、発信していくコミュニティ、図書館リ・デザイン会議に、文章を寄稿した。
こんな内容。自分で調べて、考えることは「コスパが悪い」。だから図書館にもアクセスしない。早く・新しい・ほしい情報が手に入るのがよいという価値観の中で、情報と関わっている。図書館で情報を探すということは、時間がかかり、手間がかかることなのである。だから図書館って古臭いんだよね〜ってことではなく、時間がかかり・手間がかかる=ダメという枠組みを外して、情報を捉えて関わってみる。時間がかかり・手間がかかるから、見つかることも培われる力もあると思う。
その後、いろいろ考えたのが今回、書いた文章。
学ぶことも「コスパ」で捉えられがち
私が、そう感じたのは、SNSであるやりとりを見た時だ。
ある専門職(ここでは、例として教育系とする)の方に、同じように教育に関することを活動を地域で行い、専門職ではない実践者の方が、「一般的にこういう風に捉えられているけど、それについての根拠とかエビデンスってあるのかなぁ?今度、教えて」と言っていた。
それ、あなたが調べたらいいんじゃない。
自分がこうやって聞かれたら、答えるの嫌だなと思うかもなと違和感を抱いた。
その人自身も、教育に問題関心を寄せ、自分が何かことを起こしているならば、自分で調べてみたらどうかなぁ。
仮にエビデンスが出ていることならば探すことはできるだろう。
でも、その人は専門職である人に聞く方を選択した。
専門職ではない自分が探すよりも専門職の人には蓄積された知見があり、早く答えにたどり着けるかもしれない。専門職の人は長い時間、経験を重ねてその知見を得ているからである。それをあっさり自分がほしいってことに違和感があった。
もし仮に、これが、「一般的にこうやって言われているけど、どうなのかなぁ」という言い方(情報をくれ!ではなく)なら、自分も考えたいという意思が現れていて、違和感を抱かなかったかもしれない。
学び=与えられるもの、教えてもらうものというフレーム
でも、そうした問いを持っているだけで、自分は学習意欲が高い人間であるという自己評価も高く、他者からも大人になっても学ぶ意欲があって偉いねなんて言われていることがあるなぁ。
講座、資格、学校に行き誰かに教えてもらうことだけが学びの機会を得る方法だと思っている人も多い。そうしたニーズに合致しているのが〜アドバイザーとか、なんとか協会とかの資格ビジネス・・。そうしたニーズを持つ人が受講して元気になっているならいいんだけどさ。。
図書館などの社会教育施設、教育機関は、学ぶことのフレームを外していく役割もあると思う。ところが、講座としての学習の機会を提供し、講座を商品として買うという関係・構図の中で、学習者は、知りたい、学びたいことは、誰かが準備してくれるというフレームの中にはまっている。教育者側も枠組みを外すようなことはせず、お客さんのままにしてしまうこともある。
自分で知るのはコスパが悪いが進むこと。
問いに対して、どのレイヤーの答えを求めているか(哲学的なことなのか、方法論なのか)、どんな本がいいのか(学術書?一般向けの実用書?)によって、自分が開いてみた本は、全くお門違いということがある。だから、〜講座を受けた方が早いし、詳しい人に聞いた方が早いと思うものだ。
例えば、門外漢の分野のことを知りたい時によくある状況。
本の著者は自分がほしくないことを延々と語り続ける。
さらにそこでは、「〜の〜論によればとか、すでに〜が研究しており」ということが出てきて、そのだれそれさんの難しい理論がわからない・・・。全体が見えないから、本の中で言われているのは、全体なのか部分なのかもわからない。
印象なのか、アカデミズムでは評価検討されているのか、傍流なのか、どう捉えたらいいかわからない、何が問題かわからない、わからないことがわからない。
やっぱり私は専門職ではないからわからない・・と本を閉じる。
森を探検し続けると見えてくる
しかし、モヤっとしたまま、何ヶ月後かにまた違う本を開いたり、ネットの記事などで、「あーあのとき出てきた著者だ!」とか、その本の中に、紹介されている本が他の情報源にも出てきたりする・・・としているうちに、段々、自分が知りたかった答えを持っている分野や研究者がわかってくる・・・。知識の森を探検するうちに、その領域にだんだん詳しくなり、どの本を読めばいいかがわかってくる。
時間の経過と自分で知識を獲得した経験が、問いと問いの答えを見つける力を育てる。それが知識の森を探検するための経験知。
でも、誰かに聞いて、お手軽に手に入れようとすることはその機会をみすみす逃してしまうことなんだよね・・。そんな風に、自分の力をつける機会を損失しているのに、コスパを優先してアウトソースしていることにも本人は気づかないし、さして損失にもならないし困らない。
教えあう、助け合うことは素敵だと思う。
でも、聞くということは相手が培った時間や労力をすっとばしてもらおうとしているということの自覚と敬意を持つことと自分でも考えたり、調べる方法はあるのかと試した後に聞くことって大事だと思う。自分で動いた分のストックが生まれる。
コスパが悪いと切り捨てて、一歩も動かないのではなく、学ぶ場所は日々の暮らし、日常の中に創り出すことはできるのに、それはめんどくさいものだ。
で、図書館的な場に置き換え、図書館的な場は何をなす場なのか、どうあるのかと考えると、森を探検する術と力、経験による知を得ていく手助けをする場であると思うのだ。
「社会的な親」としての苦しさは、共同幻想だった。
子どもが生まれたのは4年前。1ヶ月の産褥期を終えて、赤ちゃんをベビーカーに搭載し、外の世界に出たとき、「ママ」って言われたときから、ああ、自分は「社会的な親」という存在になっていくんだなと思った。
子育てをしてきて、生物としての親であること(子育て)は楽しいのに、この社会において親であること(社会的な親という存在であること)は、苦しいと思うこともたまにある。
社会的な親としての煩わしさ・・例えば七五三
11月に「七五三やってきました〜」というハッピーな感じのSNSの投稿を見ると、「七五三をやらないの?」という声が心の中から聞こえてくる。
私の中では、「めんどくさい」という声が生まれる。
子どもに関することって「めんどくさい」なんて言ってはいけない世間の空気というものがある。七五三の次は、ランドセルを買う「ラン活」に、ランドセルを買ってあげたい祖父母と一緒にお店にいくのだ。めんどくさい。。
その「子どものため」のことは、商業主義、消費社会の中にあることであり、子ども本人からすると、そんなことやらなくたって、「毎日楽しい」のである。
でも、それができないと「子どもがかわいそうだよ」って思わせてしまう消費社会、商業主義に取り込まれているのが嫌なんだよーーー!!(七五三をする家庭を批判したいわけでも、着物文化を大切にする方を敵に回したいわけではないです・・)
昨年は3歳だったが、毎日保育園に着ていく、テロンテロンのTシャツとズボンが好きな我が子は自分が着たくないものは絶対着ないため、七五三のための綺麗な格好をするイメージは湧かなかった。それをするための労力とか想像したら、「無理、やめとこ」って素直に思って、3歳の七五三はぶっ飛ばした。
七五三で、「子どもが泣いて、暴れて、連れて大変だったよ〜」なんて笑い話で語っているのを聞くと、やる気がさらに減退する。
子どもの権利は大切にしたいからやりたくない。
ついでに、やりたくないと感じる親の権利も大切にしたい。(そもそもわたしも夫も、綺麗な格好をするハレの日が苦手なのだ・・)
神社に参拝するなら、土地の神様で地域の神社で、地域の神社とわたしとの関わりとか、土地の歴史とかあるわけで・・そういうことすっ飛ばして、とりあえず写真館で写真とか、単なるいい感じの撮影スポットとしての神社とだけ関わるのも嫌だしなもやもや。そもそも、神道を信奉する思想もないんだけど・・・。
七五三の煩わしさとは何か、共同幻想だった・・
吉本隆明の共同幻想論を取り上げた100分de名著の読書会に参加した。
「社会的な親」としての苦しさって、わたし=個人幻想と、「こういうもんだ」を求める社会=共同幻想の間に生じる軋轢のことだったんだ・・と思った。
七五三をしないことへの対抗的な意見として、「子どもが将来悲しむ」とか「祖父母への心証」「日本の伝統文化なのに」というものが出てくる。将来悲しむかどうかは本人が感じることであると思うし、祖父母の慰めとしてのみ孫がいるんじゃないと思う。
例えば、「子どもが将来悲しむよ」というのは、将来の子どもの感情まで想像してアドバイスしてくれているが、ほんとにそうか?!というとわからない。
社会の中で、共有されている「こういうもんだ」「これが当たり前」という共同幻想なんだよなぁと思った。
子育てには共同幻想がついてまわる
子どもとわたしの関わり、日々、日常の全ては、他者、社会にはわからない。
「良さそうに見える」親、家庭であることを求める声は巷の会話やメディアやSNSや親から発せられ私に向けられる。七五三をやったり、子どもをテーマパークに連れていったり、休日は子どもと公園で遊んだり、「素敵な家族の姿」のフォーマットがある。
フォーマットの中に入るのは、とてもめんどくさい。でも、「子どものために」めんどくさいって言ってはいけない空気があり、それが苦しくさせているのではないかなぁ。
「これができないと幸せになれない」「これがないと育たない」と思わされてしまう。
「子どものために」なんて思わなくても、子どもの日常の中には発見も楽しさもたくさんある。
でも、「子どもを喜ばせる何か」をするのは、子どものためじゃなく、大人のためなんだよね。テーマパークにいく、ショッピングモールにいくのは、大人が楽しさ創造する代わりにお金で楽しさや労力を買うということ。買わなくても、楽しさは日常にある。
消費社会と全て結びつき、それが人々の意識も形成している。
共同幻想の中にある子どものための楽しいことを用意しなくてはならないと思って苦しい人ってたくさんいると思う。
共同幻想の中でどう子育てをするか
共同幻想との軋轢を感じながらの子育ては、煩わしい。
自分の心根で嫌なこともやらないといけないことがたくさんある。
そんな中でどうご機嫌に子育てをしていくといいのだろうか。
「それはそれ」として、マイルールをつくっていけばよいと思っている。
七五三なら、世の中が用意する七五三がやりたいなんて全然思わない。
それなら、自分たちなりの七五三でお祝いすればよい。
子どもの成長を喜びたくないわけではないなので、今思っているのは七五三動画として、何気ないやりとりをカメラに納めておこうかなと考えている。
そっちのがよっぽどクリエイティブで、やる気が減退するような出来事もなく楽しそうだと思える。自分がどう感じているか、自分の目の前に見えていることに立って子育ても人生も歩んで行く。その営みが自分の生活文化ということ。
何も苦しいことはないと思える。
でも、それでも共同幻想の中で生きることでの軋轢と共にある。
どうしたらいいか。
自分の内的世界を豊かにする、自分一人の時間を大切にすることだなぁと思う。
軋轢を感じている自分に気づく。
「共同幻想・対幻想・個人幻想」という構造で社会はできているということを意識するだけで心持ちが違うと思うなぁ。思想や哲学を自分の生活に取り込みながら生きるってこういうこと。
研究者の推し活
ちょっと前からぼんやりと、いつか、数年後、10年後?大学院に行ってみたいな・・・と思っていて、でも、ほんとに研究したいのか?とも思い、口に出さないでいたけど、最近口に出している。
そもそもそんなお金ないし!大学院行くならその間働かなくても大丈夫な状況でなくてはならない。しかし、大学院によっても学費はいろいろ、お金がかからないところもあると聞いて、お金は理由にしなくてもいいのかと思い始めた。
でも、この領域って決められないのだよねぇ・・。
あと、ほんとに研究して何かを明らかにしたい、世の中に申し立てをしたいのか、ただ学びたいのかは分からなくて、ただ学びたいだけかもしれないと思う。
社会人で大学院に入った方と、社会人から研究職に入った方に相談してみたら、「この先生のところで研究したい!」という人を見つけるところから始めるといいと、教えてもらった。
大学院で学ぶかどうかは置いといて、大学院行かなくてもできる研究的生活として、「学びたい研究者を見つける」「先行研究をする」というのが今の段階かと思った。
で、私が気になる領域は、市民社会論・社会教育・社会運動・図書館・・・で、これらを横断してなんか考えている人はいないかなということ。ちゃんと考えたいと思うと、読む本が膨大で泣きそうになるということに気づいた。
イマドキの言葉で言えば、「研究者の推し活」なんだが、推し研究者をどうやって見つけるかということ。どのように情報の森をかき分けていけばいいんだろう・・。
図書館の人はどうこたえるかな。
変な大人枠で本のお話する時間
様々な理由で困りごとを抱えていたり、生きづらい、孤立する子ども・若者支援をしている、名古屋市子ども・若者総合センターからのご依頼をいただきまして、「本の話をただ楽しくする変な大人」としてお話に行きました。
お話する相手は、今年大学1年生になったばかりのMさん。
Mさんは、「本が超大好きな子!」です。支援員Eさんは、私を思い出してくれたんだなぁと思います。ありがたい。
私は、高校生・大学生・20代の頃、ナナメの関係(学校・家族以外のつながり)の人々や、何をして生きているかわからない変な大人に出会うことで、助けられてきました。Mさんから見たら、にんげん図書館という仕事ではない活動をしていて、仕事はいくつかのNPOなどという人は「変な大人」。今日は私もそうした変な大人枠でお話。
「どんな本に興味があるの~?」「どうして興味を持ったの~?」と、お話を始めいきました。自分の本の遍歴を書いた年表を持って行ったのですが、それに興味をもった支援員EさんとMちゃんと本の年表ワークに突入。「この時はどんな本読んでいた??」と、子どもの頃から好きだった本の名前を挙げてホワイドボードに書き込んでいく。
同じ時代で見ても、違う本にはまっていたのが興味深い。
高校生の頃、Mちゃんは文豪にはまり、私は村上春樹、Eさんは星新一、村上春樹や村上龍。途中、我を忘れ、本の話を楽しくしすぎてしまうEさんとわたし(笑)
私が、大学生の頃に強く影響を受けた、モーリス・センダックの絵本を紹介しました。
センダックの絵本は、子どもの心理を描いた絵本が多いのですが、センダックに教えてもらったことは、「ファンタジーの世界が辛さや困難の中を生きる助けとなる。人はうそっこの世界に助けられている」ということです。自分の目の前の現実が辛い時、困難にであった時に、ここではない世界(ファンタジー)が、現実を違う言葉に置き換えて捉える力をくれたり、ホッとする時間をくれたり、本の中の人々が自分の話を聞いてくれるような気持ちになったりします。
それらは、「文化」という言葉で呼ばれると思います。「文化」は高尚なもの、自分には関係のないものと捉えられてしまいがちです。
教養があるように見えるとか賢く見せるための文化ではなく、自分の身を助けるためにあるのが文化だと思います。自分が好きなエンタメ、サブカルチャーでもいいと思います。文化との回路を持つことは生きるチカラとなると思います。
すでに、Mさんはそんな世界の楽しみかたを知っていると思いました。
次はとっておきの1冊(1冊で終わるかな)を持って集まろうとなりました。
次回もどんな話ができるか楽しみです。
対話しないといけない強迫観念
朝ドラのスカーレットがとってもよい。それはなぜかというと、「家族」「夫婦」の絆とか二人三脚の美しさを描いていないから。
主人公貴美子と、ハチさんの日々を描いたドラマ。
二人とも陶芸家、最初は一緒に歩んでいくことを願っていたのに、いつしかすれ違いだす。「もっと話したら、対話したらいいのに」っていう思いを視聴者は抱く。
貴美子は芸術家肌、壊しながら前に進む、新しいものを生み出すタイプ、
ハチさんは、貴美子のように芸術家として何かを生み出したいと願っているが、すでにあるものを大切にしながら進むタイプで、2人の違いが「別れ」につながった。
もっとわかりあうための対話をすればいいのにって人は思う。
「一緒にいるのがよい姿」で、別れるのは望ましくないと自然に思っているから。
でも、私は、それぞれの道を進むのが必然、それが答えだったんじゃないかなぁと思う。そうせざるを得ない心の声があり、それに素直になれてよかったねってことではないかと。
平田オリザさんの言葉を借りれば、分かり合えないことを前提としたコミュニケーションが「対話」
平田オリザさんの著書、「わかりあえないことから」を読んで、対話大事!!って、言っている人も最終的には「わかりあうこと」を目指してしまっているのではないかと思う。
わかりあえない絶望よりもわかりあうことの希望を望む心理があるのかなぁ。
どんなに言葉を交わしても、わかりあえないものはわかりあえない。
「膝を突き合わせて、対話をするのがいいことだ」と、対話最強説は苦しい。
最近、ドラマは終わりに向かい、貴美子とハチさんは歳をとり、最近また話したり、ご飯を食べたりする関係になった。
二人の経過をずっと見てきた息子たけしは「時と距離によって、二人の関係が変わった。」と言った。
わかりあうことを手放したとしても、時と距離によって、人の捉え方も変わる。
対話して、わかり合って、二人三脚で行こうぜ!という姿。
わかりあえないところを残したまま、それぞれ歩く姿。
私は後者が好きだが、バラバラに歩いて、そのまま別れてしまったらそれでいいと思うけど、やっぱり一緒がいいってどこかで思ってるんだよね。