食糧支援されるものを食べ続けること

 一家で新型コロナにかかって17日間の引きこもり期間に思ったことは色々あり、当事者になってわかることがある期間だった。

 毎日自治体から、お弁当3人分と、パン・飲み物・レトルト・カップラーメン・サトウのごはんがどっさり届いた。カップラーメンは10個ほど、賞味期限が長いパンは20個ほど、パックジュースは20個くらいがうちの中に積み上がっている。

 お弁当はよくある仕出し弁当で、あんまりおいしくないポテトサラダや、既製品の豆腐ハンバーグ、乾いた筑前煮・ハンバーグの下にひからびたパスタっていう感じのが毎日3人分届いた。

 今日のお昼、今日の夜ご飯をどうするか・・と用意する時、届けられた弁当をそのままモソモソと食べる時間は家から出られない閉塞感もあいまって、元気が削がれていくような気がした。

 

でも、ちょっと自分で工夫することで、その食べ物は自分のものになるように思った。プラスチックのパックからお皿に移し替える。さらに、ハンバーグの下に敷いてある乾涸びたパスタを3人分集め、そこにツナ・かまぼこ・ハム・コーン・きゅうりなどを入れたり、ごま油やオリーブオイルやマヨネーズをかけて再調理した。筑前煮も家にあるはんぺんと一緒に再度煮る。ほうれんそうのおひたしには、ゆでたにんじんや、エノキを入れたり、すりごまを入れて混ぜる。

すると「あーら不思議、美味しい料理になっちゃいました!」美味しく食べることができた。

 

 お弁当が美味しくないなんてSNSで呟こうものなら、

 「提供されているものにケチをつけるなんて!」

 「文句言わずに食べろ!」

 っていう声が出るんだろうなぁ・・。

 自治体にお弁当の質を上げてくれと求めてはいない。自宅療養者にこれだけのものを毎日届けるコストをとっていることはすごいと思った。

 

「支援」は「支配」になりえるという言葉を思い出した。

人間にとって生活することの基本にある「食」に困っている時に、食糧支援することはその人が生きるために必要だから、よいことだと支援する側は思っている。どんなもんでも食べれるならいいじゃんって。

 

与えられたお弁当を食べることで、元気が湧いてくるというよりは余計に鬱々した気分になってしまった。支援される食べ物をただ食べている時に、自分が食べたいものを食べるという力や機会は奪われていたからなのだ。

 

私が仕事で食糧支援している場面を思い出した。

私は、生活困窮者支援のための委託事業に関わっている。

毎日お弁当をつける仕様になっているから毎日お弁当をつけている。それを食べている人もこんな風に思っているのかなと、食糧支援受ける側の気持ちを想像する機会になった。食べたくないですって言っている人に「身体のために食べなくっちゃ!」って言うことは正しいのか。

 また、運営に携わっているグループホームでは、ホームで提供される業者の食事が「美味しくない、好きなもの食べたい!」って声があがる。だから、定期的にジャンクフードを食べる、好きなものを食べる機会がある。また、カップラーメンに自分でネギを入れたり工夫して、美味しそうに食べている利用者さんを思い出す。

 毎日の「食」を大切にすることは、無農薬・無添加・身体にいいもの・こだわりのあるものを食べること、オーガニックで自然主義的になることではない。

身体にいいか・悪いかではなく、自分が食べたいものを食べること。

お金がないのに、せっかく支援してもらっているのに、「これが食べたい、あれが食べたい、美味しくない」というのはワガママではなく、権利である。人が生きるための根源的な欲望だと食糧支援される側になって気づいた。欲望形成する支援は、「あれ食べたい、これ食べたい」から始まる。食べたいものを買い物にいって食べられるという生活に戻った。これが権利で生きる欲望なんだなと想う。

30代 呪いにはかからない

1.30代振り返り(2012年ー2022年)
30歳になった頃は、結婚も出産もするとも思っていなかったな・・。
30歳の時に突然実家を出て、シェアハウス暮らしで、「他人と暮らす」緩やかな公共の場というものを体感した。2014年に結婚。仕事はNPO法人アスクネットから、発達障害者支援の就労移行支援事業所でジョブコーチを3年やる。その後、ボランタリーネイバーズで半年ちょっと行政職員研修企画で働く。図書館と地域をつなぐ「にんげん図書館」を2012年から活動していて、読書会したり、つないだり、企画したりしていた。
2015年のつわりの最中に、夫モリソンの仕事のパートナーのNPO法人起業支援ネット創業者の関戸美恵子さんが亡くなることと、同時期に私の父が鬱で入院し、母の心身の不調が重なり、どうなることかと思ったが、無事に翌年に出産。その後、出産・1年休んで仕事復帰。
復帰した発達障害者支援事業所を3ヶ月くらいで辞めてしまい(ごめんなさい・・)多文化共生と子育て支援の分野でパラレルワークとなり、その生活2年続け、2019年からはささしまサポートセンターと子ども健康フォーラムのパラレルワーク、同時に保育園の保護者会をNPO的視点での組織づくりに関わる。2012年からやっていたにんげん図書館で形成されてきたコミュニティを有機的に育てていきたくなり、2020年に東海ナレッジネットを立ち上げ、いまここ。
 
2.全てを学習の機会にして、呪いをかけない
結婚とか出産というようなライフステージの変化は学習の機会で、たまたま自分がそのような境遇になったからわかることや、出会える人がいると思っている。
「ママ、ママ」と世の中が求めることにめんどくさ・・うるせー!と思った。
それは「ママ」を助けよう、支援しようとする中にもあるともわかった。
これはジェンダーバイアスなんだ、ジェンダーってこんなところにあったのかとわかった。
 
「出産、子育てでマミートラックに陥ってキャリアが中断される」とかっていうことがあることも子どもをもったから知ったが、それって、会社の中、縦軸の「キャリア」でしかないと思った。「会社」「給料をもらえる仕事」だけにキャリアがあるわけではないよね。
 
子どもが赤ちゃんの頃、アパートの外に出て、仕事に行ったり出かけたりしようとしている時に、アパートのお向かいのおばあちゃんに「さとちゃんは?」ってよく聞かれたなと思い出す。その人に全く悪意はなく何気なく言っているけど、それを呪いの言葉として、自分を縛ったりする人もいると思う。
 
「母は子どもと一緒がいい、子育てしているから、結婚したから〜できない 落ち着いたらやるんだ、今はできない」という呪いが世の中にはあるんだとわかったのが、30代。
 
子育てしている、結婚している、出産したから、何かができなくなるって思わずにやりたいことをやったから私は満足。
 
キャリア」は人生なので、何かが中断されたとは思わず、むしろ新しい世界が見えた。生きる・働くの中で、学習し、キャリアを拓いていく、大人の学びの機会が大事だよねぇ・・と気づいたので、40代はそれを探求していこうかと考えている。
 
 
 

自分は自分 女とか男とかわかる5歳

保育園にお迎えに行く。
さとちんは、クラスの男の子2人追いかけっこして楽しそう。
楽しそうにしてると思ってたら、あら大泣きしている?!
 
一緒に遊んでいた子が、「さとちゃんが泣いてるよーーー」とお知らせしにきてくれる。
どうしたどうした??と聴いてみる。何がどう嫌なのかをうまく言えない5歳。
 
「『おんなからにげろー』って、Sくんが言って逃げたのがいやだったの・・・」「なまえでよんでほしかった」ってわかった。
さとちゃんはさとちゃん、名前で呼んでほしかったのに、あんた、女、ボク男!みたいな言われ方が嫌だったって感じかなぁ。。
 
一緒に遊んでいた、Sくんに声をかけ、さとちんとSくんで、何が嫌だったのかをフィードバックしてみる。
「そうかーー」って顔をしていた。で、またその後追いかけっこして遊んでた。
 
近くにいたSくんのお父さんがいて、「うちのボーズなんかやりました???」って声をかけてくれる。初対面だからわからなかった・・。
こんなことがあったんですよーってお伝えしたら、「すみません、男の子だからとか女の子だからとか、言わないように言いますね」って申し訳なさそうにする。
「ぶつかってわかることがあると思うからいいと思うんですよ〜」って伝えておいた。
 
「自分」という存在を自覚しているということで、女とか男とかわかってきたってことだし、嫌だってことも分かるということだなあーと成長も感じた。
「女」って呼ばれてなんだか嫌だったという違和感と、それを相手につたえて「知る」ことから、学びも対話も理解も生まれると思う。こうした一つ一つの機会は大事なのではないかと思う。
 
トラブルはいけないって親が思いすぎて、こうしたいい機会を潰さなくてもいいと思う。
親同士が子どもは、こうした小さな衝突、関わり合いの中でお互いに成長していくという共通認識をもてること、それを確認できることがまず大事よねぇと思った。
 
 
 
 
 

 

野菜嫌いと子どもの意見表明権

子どもを産む前、よくある子育てや料理のテレビ番組で、「子どもの野菜嫌いを直すには?」とか、「こうしたら子どもは食べてくれます!」というような番組は、ぼーっと他人事として見ていた。〝自分でつくったら食べます、お野菜をかわいい形にしたら食べます、何かと一緒に混ぜて、ゲーム形式で探すようにすると食べます〟・・・ふーんそういうもんか・・
 
子どもを育てて5年、当事者になってみると「野菜が嫌い」というのは誰にとっての
課題なんだろうかと思うようになった。野菜が嫌いというのは大した問題ではないとわかった。
メディアが教えてくれるような色々な方法をあの手この手で試して、向き合うような
問題でもないと思って、野菜を星形やハートの形にするような手間はめんどくさいから
かけていない。
子どもの好き嫌いは気まぐれである。
我が子、さとちんも「おやさいいらない〜」と言って、味噌汁に入っているネギや、焼きそばに入っているキャベツを一つ残らずとって!と求める。
「嫌い〜」と言っているのは絶対的なものではないということにも気づいた。
ある日は嫌いだし、ある日は嫌じゃない。そして、「ほいくえんでは食べますからーー!」と言って、家では食べない日もある。
 
焼きそばに入っているキャベツは、マカロニサラダに入っていたら食べるし、スープに入っているキャベツはいいらしい。
そして、ちょっとでも自分がつくることに加わる(マヨネーズ混ぜるとか、たまご割るくらいの参画)と、旨そうに食べる。子どもの野菜嫌いというのはかなり気まぐれだし、見た目や食感などの感覚に左右されている部分がある。初めて見るものだと食べないし、食感が苦手だと食べないということもある。「嫌い」と感じるのは、感覚の鋭敏さによるもので、いずれ違う感覚を感じて、「好き」になることもあるとわかった。
 
好き嫌いがあるのは子どもに問題なのか
仮に強固に「にんじんは絶対食べない!」とか「レタスは絶対いや!!」と言ったとしても、それ食べられないことで、栄養的に問題があるわけでも成長できないわけでもない。野菜が嫌いだったから、発達に問題があったか、因果関係なんてよくわからない。
自分に置き換えると納豆が強烈にだめとか、トマトはだめとか、椎茸はだめといって、元気にしている大人はたくさんいるじゃん?
なので、子どもの好き嫌いを問題にする時、それは誰にとっての問題なのか。
子ども的には全く問題がない。
 
「好き嫌いがダメである」から子育てが大変になる。
好き嫌いを「問題」に昇華させているのは大人。
「好き嫌いはダメである」という思い込みと、「野菜嫌いをなくすためには・・」と、
子育てにまつわるネタとして取り上げている子育て支援したい領域(メディアも含めて)なのではないかと思った。中には、自閉症スペクトラムのように極端な偏食があるということもあるとは思うけど。
 
好き嫌い・野菜嫌い克服のための色々な情報があることで、子育てをより大変にさせていると思う。好き嫌いがダメって思わなかったら、そんな工夫のあれこれに頭を悩ませたり、子どもが好き嫌いになるのは親のせいとか、親がつくる食事が悪いからだとか凹む必要もない。
 
私は子どもの頃、野菜が嫌いで、「レタス食べない」ことに対して母は「もう食べなくていい!外に出ていきなさい!」と怒ったらしい。
そして、ほんとに出て行った・・
「あんたは、強い意志がある子だと思った」と懐かしむようによく言っていたのだが、レタスくらいでそこまでやらなくてよかったんじゃないかと思うし、そのように言いたくなった母も想像できるし、きっと「レタスは食べないといけない」と母も思っていたのかもしれない。
 
好き嫌いと子どもの意見表明権
子どもの権利条約の第12条に、意見表明権というのがある。

子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。その意見は、子どもの発達に応じて、じゅうぶん考慮されなければなりません。

 
 
意見表明権としてみると、子どもが「野菜が嫌い」と言うのは、子どもの意見表明でもあるんだよなぁーと思う。
 
意見表明としての好き嫌い < 子どもの将来のため、子どもの栄養のため 
そう考えて、子どもの育ち発達のために好き嫌いはなくすべし!と考えるのが、「野菜嫌い」を直した方がいい人の理屈。もしかするとそれは子どものためではなく、大人側の「せっかくつくったのに!」という都合が潜在的に存在する気持ちなのかもしれない。
 
子どもが将来野菜嫌いのままだったら・・とか、子どもの成長が心配・・と思うなら、そうなった時にまた考えたらよく、子どもの将来を今引き受けなくてもいいんじゃないかと思う。「いまここ」に生きようぜ!ってことなんだが。
それよりも、今意見表明して、「これは嫌い」と言っていることの方を大事にしたいよねって思う。

【フリーライブラリアン活動記録】図書館と市民をつなぐ仲人

始まりは、「こんなことできるかな?」という相談
昨年度、地域で聴覚障害の子どもの支援のお仕事しているお友達から相談をいただいた。
「施設に置く本って団体貸し出しで借りられたりする??そして、その絵本を図書館司書さんに選書をお願いできたりするのかなぁ?」
「そのエリアの図書館ならば知ってる人が中にいますよー!」とお返事をして、図書館司書の知人に聞いてみる。「できますよ!担当者に、そうした方から問い合わせあるかもって言っておいたよ」って、異動で変わってしまう前に引き継いでいてくれたらしい(嬉)
図書館司書さんと、地域の人の出会いの場のお手伝い
そして、C図書館に出向き、実はこのような相談があって・・施設の方とお話しする機会をセッティングできるか?と相談する。話を通してくれていたおかげで「ぜひ!」と快諾いただく。
そして、先日、図書館の児童サービスの司書さんと、施設の方、数人で図書館を訪ねてお話しする場の取り持ち、進行をしてきた。
 
聴覚障害の子どもたちの生活・情報・学習の環境って??
聴覚障害児・者の方には、どんな風に世界が見えているのか、どんな風にコミュニケーションを取るのか、どんなことに困っているのか・・。身近な方でいないと当事者の視点を知る機会もないかもししれない。絵本を選んでいただくために設定した打ち合わせは、絵本を届ける先の子どもたちや支援者がどんな環境の中にいるのかを知る機会でもある。
 
基礎的なことを、施設の方に教えてもらう。
聴覚障害の子どもたちの聞こえ方は様々で、全く聞こえない場合と少し聴力がある場合がある。
装着しているのは補聴器なのか人工内耳なのか。言語として、手話を使う場合、使わない場合があるということ。どんな学びや経験の機会が必要か、本や絵本をどんな存在と考えているかを担当者に伝えてもらう。
 
参加してくださった施設の方の中には、ご自身が聴覚障害の方もいらっしゃり、手話の同時通訳として、手話ができるスタッフの方が来てくださる。そして、私は話したことを、紙に書いてグラフィックしていく。それは、聞こえない人と話を共有する手段でもある。
よくワークショップなどで行う、グラフィック(板書)がこのような観点からも求められるなんて!
 
絵本「だるまさんが」の聴覚障害児支援の現場での価値
児童サービス担当の司書さんも、私も「なるほど!」と思ったことがあった。
「だるまさんが」(作・絵 かがくいひろ 出版社:ブロンズ新社)は、だるまさん「が」「と」「は」と、助詞でだるまさんの動きが変化する子どもたちに大人気の絵本。
 日本語の助詞を理解しにくいろうや難聴の子どもたちにとって、助詞の違いがわかるいい絵本。施設のスタッフの方は、この絵本に出会った時に「この絵本いい!!」と思ったらしい。
 
「そんな絵本、他にないですかね〜」と聞かれる。多様なニーズや状況にある当事者からの「問い」があるから、図書館にある多くの情報が編集され、利用者の元に届けられる。
わくわくする「問い」に出会った瞬間だと思った。
 
図書館と地域の人が出会う・お見合いする場でなにが生まれるか
図書館の方は、地域の施設を知ることができた。
読書バリアフリーに必要な、様々なニーズや特性をもつ子どもたちに必要な学びは何かを知ることができた。
地域の市民は、図書館の人と顔のみえる関係になった。
そして、次は集めていただいた絵本を施設の方や子どもたちと一緒に見てみようか・・
そして、そこに他館の図書館司書さんも呼んでみよかな・・と、ここから新しい学びと出会いが生まれていく。そんなことを予感させる場となった。
 
 

情報リテラシー教育は、ググる以外の手立てをもつこと

 
気になること、知らないことがあると、グーグル検索をする・・。
一つのざるの中に情報が放り込まれ、なんでもかんでもある状況。
そのとき、グーグルにしないで、どこを見るのか。
 
ググる以外に何があるんだ?」って思う人もいるかもしれない。
たくさんの手立てをもっている人、持っていない人いろいろ。
 
論文検索できるCiNii。連想検索ができるウェブキャットとか。ウィキペディアとか、カーリルとか、どこそこのデジタルアーカイブとか。その中の一つに愛知県図書館の電子書籍もあるよなぁと思う。
でも、「こんなのあんなのもあるよ」と、こうした情報提供も消費される情報になってしまう。
「実際にポチって」みようって思うかどうか。
自分がつくってきた習慣・日常というものはなかなか変わらないものなのだ・・。
 
今読んでいる本から始まる世界 電子書籍の遊び方
愛知県図書館の電子書籍は、5500冊登録されており、学術書中心に入っているということ。
私はというと、電子書籍にさほど興味はなく「本は紙!!」派で、アナログ派。
でも、使ってみようと思ったのは、「学術書や参考図書」中心であるということからだった。
 
私がどんなふうに、愛知県図書館の電子書籍と関わっているかを紹介。
現在読んでいる「よくわかる公的扶助論」を読みながら検索をしているととても楽しい。
ジャンル横断で本が出てくる。
 
憲法25条」と入れると・・法律や人文社会の本が多いだろうなと思ったら、芸術の本も出てくる。そして、どこに記述されているのか全文検索される。
美術・芸術から「スウェーデンアール・ブリュット発掘」
社会科学「精神障害と人権」「住まいと仕事の地理学」
自然科学「3.11心の災害」
 
電子書籍で読書するのは苦手だから・・と食わず嫌いだったけど、自分の知の世界広げる、次の本を探すためのものとして関わっている。関わり方は色々。そのバリエーションが共有され、誰かの中で、日常化されていくにはどうしたらいいだろうと、いつも考えている。
 
 

子育て備忘録:子どもの遊びや学びの成果はちゃんとしてなくていい。

雨のお休み。
さとちん、何してあそぼっか。
この前やったように、段ボールを切って絵の具で塗る遊びをしよっか。
わーい、この前やったから準備も自分でやる。
 
 子どものためにあれこれ用意しなくてもいい。
いつも同じこと、シンプルなことをひたすら繰り返して遊ぶことに試行錯誤や発見があると思っていて、子どものためにあれこれ準備しなくていいと思っている。でも、「段ボール工作」というと、そのためのキットは販売されているし、大人は、凝ったダンボールで何か具体的な形(自販機とかケーキとかロボットとか)を子どもに作ってあげたくなる。そんな素敵なものを検索して探そうとする人もいるかもしれない。張り切って、「お母さん・お父さんが作ってあげる!」なんて言わない方がいい。ちょこっとスイッチを押す、方法を教える(段ボール遊びなら、段ボールを小さく切って色を塗るというやり方)アイディアを少し出すという関わりは少しはする(でもそれも余計な関わりであることもある)そこから、「これ作ろう、あれ作ろう」って思いつくものだと思う。
 
でも、そのとき、子どもが作るものは、大人が思い描くような具体的な形(ロボットとか自販機とか)とは違って、映えるものでもないし、見てくれはよくないし、ちゃんと動かなかったりする。もうちょっとこうしたら、上手に動くのになーとか思えるものかもしれない。子どもは大人の想像を遥かに超える。大人が思いつくものなんて、誰かが思いつく具体的な形で大したことがない。
 
大人と子どもの視点の違いってなんだろう。
大人は成果を描き、子どもはプロセスを楽しんでいて、視点が違う。
「大人にとって素敵なもの=子どもが喜ぶ、求めるもの」って思いがちだよなぁと思う。
 例えば、「段ボールで子どもと一緒にロボット作りました〜」「わーかわいい!!こういう遊びいいよね」なんてコメントがくる成果は、わかりやすい。
「そんな簡単にかわいいロボット、作るかー!」と思う。
「子どものためにいいことしている」と見られたい・見られなくてはいけないという他者評価を気にしているというのもあるのではないかと思う。
 
大人が子どものために段ボールでかわいいロボットをつくろうとしているとき、目の前の子どもは見えていないで、子どもは置き去りになる。全部大人がつくったかわいくて素敵なロボットってことはあるのではないだろうか。
 
なので、私は私で、段ボール塗り塗り作業をしていると、さとちんは、ダンボールで「おうち」のようなものや「お人形が寝るベッド」のようなものや、「赤ちゃんのベビーカーにつけるついたて(赤ちゃんがさとちんにパンチするのを守るためのものらしい)」をつくっていた。思っていたのより段ボールが大きいと、切るところに線をひっぱる。私に渡す、私は切る。欲しい手助けをする、段ボールを切ったり、はったりする難しいことをお願いされたらする。大人があれこれ用意しない方が自分で考える。「子どもの権利」を大切にするとはこういうところにもあるんじゃないかと思う。
 
以前、一緒に小学校の理科実験授業を実施していた鈴木東さんの訃報を聞いた。
あずまさんとの授業を思い出しながら、こうやって、子どもたちが自分の頭で考える授業、一緒に作ったなぁということを思い出していた。
これって「支援」「まちづくり」とかでもよくあることではないかなぁ。