子育てトークと二元論

以前、自分よりも年上の子どもを持つ友達と話していて、友達の1人は子どもチャレンジのような通信教育をしていて、もう1人は自分もやろうかな・・と話していた。

通信教育に興味がない私も、そういうのをやらないと、情報を取りこぼしていくかのような空気になった。

 

情報過多の今の時代、「正しいことをいかに選ぶか」ということが子育てをする人を苦しめているようにも、それが子育てには大切だとも言われているようにも思うけど、「正しいことを選択」するのが子育てではないと、思って子育てするのをポリシーとして心に思っている。

 

さとちんが赤ちゃんの頃、子育て系の講座、シュタイナーなどの幼児教育の講座などに行ったほうがいいんだろうなぁ・・と思ったけど、行こうとは思わなかった・・

特に⚪︎⚪︎式という教育方法についての講座は、これがいいのよ!という「正しさ」の圧を受けそうだなぁと思った。

 

「正しいこと」はどこにもない。

何かを選択したら、何かを選択できない。

 

何がどのように作用して、出会って、どんな人になるかわからないから面白いのではないか・・と思うけど、いざ子育てになると、「正しいことを選ぶのが親の責任である」というプレッシャーが親の心の中に現れ、環境からも受けるように思う。

 

正しいことを探すんじゃなく、日々観察と観察で気づいたことを試行実験できてさえしていたらいいんじゃないかなぁと思う。

 

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「子育てには正解がない」とみんな言うけど、「正解」を結局はみんな求め、「正しいかどうか」という二元論に支配されているんじゃないかと思う。

 

ただ自分が気づいたことをぽんと置く・・そのノリで、子育てでの気づきを同じく子育てをしている人に話すと、「自分はできてすごいでしょ」みたいな構図になってしまう。

会話をする人と自分との間には、正しい・いい母であるか・・という価値基準が無自覚に流れている。

 

日々続いていく子育ての流れの中で観察て気づいたことをただ言う時、「客観的ですごいね、私はそんな風にできない」と言われるとそれは褒められたのかもしれないけど、なんだかモヤっとする。

いつも冷静で、客観的であるわけでもないし、そんな私がすごいでしょと言いたいわけなのではく・・もごもごと思う。いろいろ試行錯誤しながら気づいていくような学びは楽しい、その楽しさをシェアしたいだけなのに。「子育てに正しいことはない」という考え方さえも、相手が二元論で捉えていたら、相手には正しさとして心に届いてしまう・・。

 

中高生の時に、テスト前に「全然テスト勉強していない~」と、ほんとは勉強やってるくせにみんな言うみたいな感じで、自分がいかにちゃんとやっていないか・・全然できていないか・・ということを、謙遜して言うのが、会話のテンプレート。

そうやって言っているほうがお互いに安心する。

 

気づきをただ気づきとして言えない、一つ一つの言い方を考えて言わないといけないなんて、面倒だ・・。だから、子どもが赤ちゃんの頃から子育てをする当事者同士が子育ての話をする場所に全く行きたいと思わなかったんだなぁ。

 

でも、大学時代に一緒に子どもの保育のことを考えて色々話した友達や、子どもを産む前からの友達には気づきをただ、気づきとして置くように話すこともできる。そこには正しいかどうか、比較する、評価する・・ということは相手と私の間にはないからだと思う。

 

子育てトークには「正しいか」「いい母親か」という二元論から、そこにいる人が自由になることと、安心安全に話せるという自分と相手との関係が大切なんだなぁと思う。

  

自分が支援者(成人の発達障害の方の支援)であったとき、日々利用者さんへのアプローチで難しいこと、気づいたことや、その方が成長したこと、変化したことは、支援者同士シェアするのが普通であったし、それで支援者として救われることも元気になることもあった。

 

血のつながらない人同士ならそれができるのに、「親」と「子」となると、評価がどこからともなくついてくる。お互いに観察したこと、気づいたことをただシェアできたらいいのにな・・。