ジェンダーもやもや会(2018年5月13日)

ジェンダーについて日頃もやっとすることを話そう!と友達と集まって話す会を行いました。みんなスクールカーストの低層に生息していたのね?!ということがわかり、みんなそれぞれサバイブしてきた歴史があったんだということがわかりました。

 

以下備忘録

たまたま、私が机に置いていた本を切り口に話は展開。

「承認をめぐる病」斎藤環 ちくま文庫

「勉強の哲学」千葉雅也 文藝春秋

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教室の「キャラ化」と「コミュ力」について

「承認をめぐる病」で書かれていたことを要約すると・・

クラスの中で、いじられキャラ、おたくキャラ、天然キャラ・・などのように、「自分」がどんな人間かが固定化されている。そしてその「キャラ化」が序列化、スクールカーストを生んでいる。

スクールカーストの序列を決定ずけるものは何か。

それは、「コミュ力」(コミュニケーションスキル)

ここで言う「コミュ力」とは、場の空気が読めて、笑いが取れるような才覚のことを言う。カースト最上位のグループは、自分はいじられることはなく、ほかの生徒をいじって笑いが取れるエリートの集団。最下層のグループはスキルが低いために他の生徒に絡むことが増えてでいじられ、笑われ、あるいはときにいじめの対象となる。

教室のような限られた空間において自分の居場所を獲得するために「キャラ」を必要とする。生徒間に身分差はないが、キャラには身分差がある。

キャラとしての承認を求めることは、必然的に承認の根拠を他者とのコミュニケーションに依存することを意味する。

承認とは本来、客観的な評価(個人の才能や能力、成績や経済力、親の地位や家柄など)に基づいて行われていたのが、承認の基準は、相対的かつ間主観的な「コミュ力」に一元化されつつある。

「承認」とはなんぞやというところについては、その後に、ヘーゲルラカンの理論から解説されているけど、今回は割愛。

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スクールカーストのようなことは、会社の中にもあることだ・・。

 中高生のクラスの中でいけていない奴のことをあざ笑ってネタにする・・という会話や関係性は企業の中にもある。

 

スクールカーストのようなことは中高生の教室の中で強く感じたけど、大学生になると、みんな大人になるのか、「教室」という閉じた場所ではないからか、互いの存在を認め合うようになる。クラスとか無くしたらいいんじゃない?

スクールカーストというものはないようで、漂っている見えない壁。

 底辺にいた人たちは、上位にいる人(キラキラ、面白い、明るい、おしゃれ)たちと話してはいけないくらいの断絶を感じていた。

 

・セクハラ×パワハラ

女であることを売りにして、仕事を取っていくということは、古くから様々な業界の中にあり、それが普通のことになりすぎて、感覚が麻痺している。

上の世代がそれをよしとしてきたために、今も残っている。

Me too のように発信する人がで始めたことで、告発をする人も出てきた。

 

働き方改革したいなら、マッチョな組織文化を変えていくことが最も大事じゃないか?

 右向けと言えばみんな右を向く、そこにある文脈、価値観に違和感を持つ人の神経を壊していくような組織の文化そのものを変えていくことなのではないか・・と思うけど、高度経済成長を支えた世代がそうしたやり方をよかった、それで鍛えられるんだ・・と善としているから変わらないのでは。

それぞれの環境の中にある価値観、文脈、「こうするもんだ」という中に、人は生きていて、ある一つの目的を持つ環境のことを「環境のコード」と言う。

そこに同調するか、そこに違和感を持つか。違和感を持ち、違う環境へとお引越しするのが勉強・・というのは「勉強の哲学」に書かれているのでよかったら読んでみてね。

 

スクールカーストがある世界に子どもを送り出す不安・・

どんなに親が受容的な態度を取っても親と子どもという関係がある以上、力関係は生まれてしまうのではないか。親が完璧な存在になろうとするよりも、スクールカーストの中で生きずらくても他で生きていけるサードプレイス、人を資源として持っていってほしい。