意味があるとかないとかいうことはどうでもいい。

最近は、3月尾頭橋のにんげん図書館のイベント、オープンデータソンの街歩きのための資料を探したり、本を読んで、図書館、文献の中を探検するのが大変楽しい。

尾頭橋は実はパチンコ発祥の地で第1号店の場所は不明という30年前の新聞記事におー!と、テンションが上がったり…。尾頭橋界隈の住宅地図を見て、公園の名前が時代ごとに変わっているのを発見してテンションが上がったり。

中川区の金魚まつりの由来は廓まつりであるということを知って、すごい名前だな!とテンションが上がったり・・。文献検索をして、図書館の書棚をウロウロ、請求記号を追っていき、資料一冊見つけることが発掘作業。重たい資料を持って複写する…。

そんなことをやってからコーヒーを飲み、おやつを食べる時間は至福の時。

 

こうした地域のトリビアネタというのは、テレビやイベントで「知らなかったことが知れて楽しかった。以上」と誰から与えられる知識。

人は、面白いことを知ったと価値を感じる、感想を言って、終わり・・・。

そうじゃなくて、自分でそれを探すことの方に楽しさがあるんだがなぁと思う。

 

パチンコの一号店がどこかわかることがどれほど重要か?

誰かに調べてもらって手に入ればそれでいい?

時間をかけずに情報を手にいれる方法はたくさんあるし、この情報はそんなに重要か?と聞かれたらどうでもいいこととも言えるかもしれない。

もちろん命をかけている人もいるけど。

世の中で起きている様々な問題に比べたら、わからなくても済んでいくこと、誰にも気づかれずにいること。

意味があるとかないとかではなく、ただ知ることそのものが目的で、探検のように楽しい。世界の見え方が変わること。こうやって探すことにキリはなく、お金をかけずとも、街の中には無限に楽しいことがある。

 

先日、たまたま、起業したい人の起業の事業プランの一覧のようなものを見ていて、何か明確に問題となっていることに取り組む、街に新しいことを生み出すことに対して、今は街にはないものを探していくようなことはどうでもいいことのように見えるなぁと思った。

 

問題と認識されている空き家の問題をどうするか、虐待や孤立死をどうするか、子育てママをどう助けるか…そんなことに比べたら、どこにパチンコ屋があったとか、ここに遊郭があったとか、昔ここに川があったなんてことがわかってもわからなくても世界は変わらない。

それについて時間を使う?なんの意味があるの?と、思う人もいるかもしれない。

 

意味があるとかないとか、そんな基準は傍に置く。

意味がないことを楽しむこと、その態度は大事な生きる力なのではないかと思う。

一見全然関係ないこと、問題になっていないことの中に、日々、自分が子育てして、日々仕事するための力、智慧、感性をもらっている。パチンコ1号店を見つけることと、2歳児と向き合うことはつながっているかもしれないのだよ。

 

別に、これが街の活性化とか何かにつながらなくても、ただ、地域にあるものを楽しむ態度は、自分や地域の未来をつくることにつながってる(かも)。

意味がなくていいから、「かもしれない」でいいのだと思う。

 

 そういうわけで、本を読むこととか、にんげん図書館の活動のために助成金をもらうようなとき、意味は?成果は?と聞かれることに対しての答えって、意味などありませんとも言える。社会にとっていいことであると言うために言葉を用意して言っている感覚を覚えることもあるんだなぁ・・。