とーちゃん会・かーちゃん会の違和感
保育園の世界では、とーちゃん会とか、かーちゃん会という風に、お父さん同士・お母さん同士で飲み会をセッティングし、そこから関係性を深めていくという方法をとるということが、一つの方法として脈々と続いてきたということを、子どもが保育園に入って知った。え、なんかそれって、違和感がある。
かーちゃん会をセッティングする。ママは子どもをパパに預けて、クラスのママと交流する。パパがいないところで、「ったくうちのパパは・・」などと話して、笑って楽しく過ごす。
とーちゃん会をセッティングする。日頃なかなか話さないパパ同士、男同士の話をする。家庭内で肩身が狭かったりするパパ同士肩を組む・・・。
というような画を、設定する保育園の先生たちは描いていると先生と話して感じる。受け止める保護者の方もそんな画を想像する。
それって性別役割分担が前提(例えば、夫は家事をやらないとか、夫は家事ができない、ママのがしっかりできる・・というような愚痴をママは言いたいであろう)が元になっている。
そうしたコミュニケーションでつながりたいとも、積極的に行きたい気もわかないんですけど・・。
私は、その人がどんな風にはたらき、日々どんな風に暮らしているか、何が好きかという物語に触れる、違う顔が垣間見えるような話が好きだから、そこに男女は関係がない。戦略として、「飲み会」を企画すると、現在の日本ではお母さんしか出てこない、だからとーちゃん会をやるという意図してやるというのもわかるが、男女共同参画とか志向している人たちがおかしさに無自覚でいいの?!
前提にあることを問うと引かれるのね・・
たまたま、割と仲良くなった保育園の保護者さんと、その話をしていて、とーちゃん会・かーちゃん会と分けることの違和感を話したら、「え?なにがだめなの」って伝わらない感じがした。
「ジェンダー的にわたしは好きじゃない」って話したら、「ジェンダー」とかそういう意識高い系なことを言うのはまだ早いと思うよ・・とやんわり言われ、いやいや、遅いとか早いとかあるのか?
何かイベントや企画をするときにはターゲット、市場に合わせていくことも必要だけど、たとえ市場では、「とーちゃん会」として、実施することが一般的でも、今ある前提のおかしさを受け入れていていいの?「ジェンダー」を叫ぶ人はこうやって疎まれるのかと思った。
偏見という檻から自由にしてくれる=批評
わたしはこんな風に、テレビを見ても、新聞を読んでも、本を読んでも、人間関係や巷の何気ない会話の中に、「ジェンダーもやもや」なことにたくさん出会い、日々怒ったりしている。
そうした事象に飲み込まれるのではなく、客観的に捉えるのが「批評」ということだったのかーーーと、北村紗衣さんの「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んで、わかった。
「批評」って、難しく難癖つけることみたいに世間では捉えられているようにも思っていた。きちんと見る方法が確立されているのが批評理論。
あとがきの、「私たちはフツーに生きているだけでいろいろな偏見を身につけてしまって、檻に入ったような状態になっています。」「私を檻から出してくれたのは文学とフェミニズムでした」という言葉に共感し、批評というツールを持って、世界の中で立つことができるのかとわかった。
38年も生きてきたのに、そんなことも知らなかったなんてーー。
自分には受け入れがたいこと、自分が好きではないもの、嫌な感情にであっても、それがどうしてなのか。
批評という方法を自分のものにすれば、見え方も変わるかもしれないと思う。
「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」北村紗衣
書肆侃侃房
https://www.amazon.co.jp/お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門-北村紗衣/dp/4863853653