対話しないといけない強迫観念 

 朝ドラのスカーレットがとってもよい。それはなぜかというと、「家族」「夫婦」の絆とか二人三脚の美しさを描いていないから。

 

 主人公貴美子と、ハチさんの日々を描いたドラマ。

 二人とも陶芸家、最初は一緒に歩んでいくことを願っていたのに、いつしかすれ違いだす。「もっと話したら、対話したらいいのに」っていう思いを視聴者は抱く。

 

 貴美子は芸術家肌、壊しながら前に進む、新しいものを生み出すタイプ、

 ハチさんは、貴美子のように芸術家として何かを生み出したいと願っているが、すでにあるものを大切にしながら進むタイプで、2人の違いが「別れ」につながった。

 

 もっとわかりあうための対話をすればいいのにって人は思う。

 「一緒にいるのがよい姿」で、別れるのは望ましくないと自然に思っているから。

 でも、私は、それぞれの道を進むのが必然、それが答えだったんじゃないかなぁと思う。そうせざるを得ない心の声があり、それに素直になれてよかったねってことではないかと。

 

 平田オリザさんの言葉を借りれば、分かり合えないことを前提としたコミュニケーションが「対話」

 平田オリザさんの著書、「わかりあえないことから」を読んで、対話大事!!って、言っている人も最終的には「わかりあうこと」を目指してしまっているのではないかと思う。

 わかりあえない絶望よりもわかりあうことの希望を望む心理があるのかなぁ。

 どんなに言葉を交わしても、わかりあえないものはわかりあえない。

 「膝を突き合わせて、対話をするのがいいことだ」と、対話最強説は苦しい。

 

 最近、ドラマは終わりに向かい、貴美子とハチさんは歳をとり、最近また話したり、ご飯を食べたりする関係になった。

 

 二人の経過をずっと見てきた息子たけしは「時と距離によって、二人の関係が変わった。」と言った。

 わかりあうことを手放したとしても、時と距離によって、人の捉え方も変わる。

 

 対話して、わかり合って、二人三脚で行こうぜ!という姿。

 わかりあえないところを残したまま、それぞれ歩く姿。

 私は後者が好きだが、バラバラに歩いて、そのまま別れてしまったらそれでいいと思うけど、やっぱり一緒がいいってどこかで思ってるんだよね。