子どもが生まれたのは4年前。1ヶ月の産褥期を終えて、赤ちゃんをベビーカーに搭載し、外の世界に出たとき、「ママ」って言われたときから、ああ、自分は「社会的な親」という存在になっていくんだなと思った。
子育てをしてきて、生物としての親であること(子育て)は楽しいのに、この社会において親であること(社会的な親という存在であること)は、苦しいと思うこともたまにある。
社会的な親としての煩わしさ・・例えば七五三
11月に「七五三やってきました〜」というハッピーな感じのSNSの投稿を見ると、「七五三をやらないの?」という声が心の中から聞こえてくる。
私の中では、「めんどくさい」という声が生まれる。
子どもに関することって「めんどくさい」なんて言ってはいけない世間の空気というものがある。七五三の次は、ランドセルを買う「ラン活」に、ランドセルを買ってあげたい祖父母と一緒にお店にいくのだ。めんどくさい。。
その「子どものため」のことは、商業主義、消費社会の中にあることであり、子ども本人からすると、そんなことやらなくたって、「毎日楽しい」のである。
でも、それができないと「子どもがかわいそうだよ」って思わせてしまう消費社会、商業主義に取り込まれているのが嫌なんだよーーー!!(七五三をする家庭を批判したいわけでも、着物文化を大切にする方を敵に回したいわけではないです・・)
昨年は3歳だったが、毎日保育園に着ていく、テロンテロンのTシャツとズボンが好きな我が子は自分が着たくないものは絶対着ないため、七五三のための綺麗な格好をするイメージは湧かなかった。それをするための労力とか想像したら、「無理、やめとこ」って素直に思って、3歳の七五三はぶっ飛ばした。
七五三で、「子どもが泣いて、暴れて、連れて大変だったよ〜」なんて笑い話で語っているのを聞くと、やる気がさらに減退する。
子どもの権利は大切にしたいからやりたくない。
ついでに、やりたくないと感じる親の権利も大切にしたい。(そもそもわたしも夫も、綺麗な格好をするハレの日が苦手なのだ・・)
神社に参拝するなら、土地の神様で地域の神社で、地域の神社とわたしとの関わりとか、土地の歴史とかあるわけで・・そういうことすっ飛ばして、とりあえず写真館で写真とか、単なるいい感じの撮影スポットとしての神社とだけ関わるのも嫌だしなもやもや。そもそも、神道を信奉する思想もないんだけど・・・。
七五三の煩わしさとは何か、共同幻想だった・・
吉本隆明の共同幻想論を取り上げた100分de名著の読書会に参加した。
「社会的な親」としての苦しさって、わたし=個人幻想と、「こういうもんだ」を求める社会=共同幻想の間に生じる軋轢のことだったんだ・・と思った。
七五三をしないことへの対抗的な意見として、「子どもが将来悲しむ」とか「祖父母への心証」「日本の伝統文化なのに」というものが出てくる。将来悲しむかどうかは本人が感じることであると思うし、祖父母の慰めとしてのみ孫がいるんじゃないと思う。
例えば、「子どもが将来悲しむよ」というのは、将来の子どもの感情まで想像してアドバイスしてくれているが、ほんとにそうか?!というとわからない。
社会の中で、共有されている「こういうもんだ」「これが当たり前」という共同幻想なんだよなぁと思った。
子育てには共同幻想がついてまわる
子どもとわたしの関わり、日々、日常の全ては、他者、社会にはわからない。
「良さそうに見える」親、家庭であることを求める声は巷の会話やメディアやSNSや親から発せられ私に向けられる。七五三をやったり、子どもをテーマパークに連れていったり、休日は子どもと公園で遊んだり、「素敵な家族の姿」のフォーマットがある。
フォーマットの中に入るのは、とてもめんどくさい。でも、「子どものために」めんどくさいって言ってはいけない空気があり、それが苦しくさせているのではないかなぁ。
「これができないと幸せになれない」「これがないと育たない」と思わされてしまう。
「子どものために」なんて思わなくても、子どもの日常の中には発見も楽しさもたくさんある。
でも、「子どもを喜ばせる何か」をするのは、子どものためじゃなく、大人のためなんだよね。テーマパークにいく、ショッピングモールにいくのは、大人が楽しさ創造する代わりにお金で楽しさや労力を買うということ。買わなくても、楽しさは日常にある。
消費社会と全て結びつき、それが人々の意識も形成している。
共同幻想の中にある子どものための楽しいことを用意しなくてはならないと思って苦しい人ってたくさんいると思う。
共同幻想の中でどう子育てをするか
共同幻想との軋轢を感じながらの子育ては、煩わしい。
自分の心根で嫌なこともやらないといけないことがたくさんある。
そんな中でどうご機嫌に子育てをしていくといいのだろうか。
「それはそれ」として、マイルールをつくっていけばよいと思っている。
七五三なら、世の中が用意する七五三がやりたいなんて全然思わない。
それなら、自分たちなりの七五三でお祝いすればよい。
子どもの成長を喜びたくないわけではないなので、今思っているのは七五三動画として、何気ないやりとりをカメラに納めておこうかなと考えている。
そっちのがよっぽどクリエイティブで、やる気が減退するような出来事もなく楽しそうだと思える。自分がどう感じているか、自分の目の前に見えていることに立って子育ても人生も歩んで行く。その営みが自分の生活文化ということ。
何も苦しいことはないと思える。
でも、それでも共同幻想の中で生きることでの軋轢と共にある。
どうしたらいいか。
自分の内的世界を豊かにする、自分一人の時間を大切にすることだなぁと思う。
軋轢を感じている自分に気づく。
「共同幻想・対幻想・個人幻想」という構造で社会はできているということを意識するだけで心持ちが違うと思うなぁ。思想や哲学を自分の生活に取り込みながら生きるってこういうこと。