「子育てをするなら自然がたくさんあるところがいい」って思い込み

 わたしの夫が生まれたのは、名古屋の中村区の下町の大門商店街。

 名古屋でも屈指の遊郭街、中村遊郭があった。昭和33年の売春防止法施行後は、業態を変えてソープランドとなり、名古屋で一番ソープが集まるのはこのエリアらしい。

 ソープが並ぶ中にピアゴがあり、ソープの横を買い物がえりの人々が自転車で通る。いつもわたしは我が子、さとちんを連れてお買い物にいく。

 ヤクザのお家もあれば、成人映画専門の中村映劇もパチンコ屋もある。

 喫茶店、魚屋さん、鶏肉屋さん、服屋さん、タオル屋さん、個人商店もあり、新しいお店も入ってきているが、閉めてしまったお店もたくさんある。

そんな街で夫は生まれ、家がお店をやっていたから、家の隣のスナックで回る椅子をぐるぐる回して遊び、水道工事の現場を眺め、その時に土木構造物に興味を持ったらしい。夫は、大門が好きすぎる、落ち着きすぎる。そういう人と結婚したので、わたしもこのままこの面白い街で子育てをしていくんだろうなぁと、思っている。

 

「子育てをするなら自然がたくさんあるところがいい」っていう思い込み

 そういう刷り込みが世にはあるように思う。

 子どもにいい環境を準備できていないという後ろめたさを抱かせるような刷り込み。

「都会から田舎に移り住んで子どもたちがいい表情になった。」って、この前、都会から移り住み、自給自足の生活をする一家を取材したテレビではそのようにコメントしていた。「自然」環境を変えることで新しい体験ができ、子どもの様子も変わった、それは一つの要因だけどすべてではないよねと思う。

都会より田舎。都会の中でも緑や自然や公園がある地区がいい。

中村区のように下町で猥雑で、焚き火をしたり、カブトムシを捕まえたり、川で生き物を捕まえたりできない、そんな「環境」よりも自然の中でのびのびといられることがいいっていう、田舎の子はたくましいね、表情がいいね、都会の子は・・・と、都会をディスるおきまりのフレーズがある。

 

そもそも「環境」って、自然「環境」のことだけではないよね

映画や美術館や社会教育施設などの文化資本も「環境」

国籍、性志向、障害や病気と一緒にある人、様々な職種、仕事をする人という人的ネットワークも「環境」

そして、環境の最小単位は、子どもを育てている人との関係、暮らす場所も「環境」(あえて親、家族とは言わないけど。)

なので、自然環境豊かなところに住んだからすべてが解決するわけでも、天国でもなく、その環境さえあれば、子どもが生き生きと育っていくとは限らない。

むしろ、田舎の方が車社会で、運動不足となるとか、田舎にいるからって自然の中で遊ぶわけではなく、ゲームばっかりしてる・・なんて話も聞く。

 どんなに豊かな自然環境の中にいても、最小単位の身近な親や育ててくれる人との関係性が抑圧的で、安心していられない環境なら、その子にとっていい環境とは言えない。

 

 街の中にいても、センスオブワンダーに生きて、育てる

 都会で子育てしているわたしがいつも心に持っている言葉が、「センスオブワンダー」という言葉。レイチェル・カーソンのこの言葉に出会ったのは大学生の頃。

 

その頃は絵本を含む子どもの文化に貢献するような仕事がしたいなと思っていた。

 センス・オブ・ワンダー=驚きに目を見張る感性という言葉に出会い、センスオブワンダーを育てる文化、様々なわくわくすることすべてとの出会いをつくる。

 それが、生きる糧となるような仕事がしたいと思った。

 この言葉大事にしようと思った。

 それから、10数年経って、子どもを持つようになってまたこの言葉を大切に思うようになった。

 

カブトムシを捕まえたり、池や川で遊んだり、焚き火をしたり、火おこしをしたり、そういうことは、我が子の日常ではなかなかできない。

できないから、「自然」に触れられない貧しい環境とは思っていない。

さとちんのお散歩先は電車で15分で行ける名古屋駅

名駅におにぎりを持って行く。迷路のような名古屋駅を歩いたり、建設中のビルを眺め、駅のホームで電車を眺めておにぎりを食べるピクニック。

図書館に行けば知らない世界へと連れていってくれる知識の森がある。

子どもを取り巻く世界、日々には、驚きと発見が満ち溢れている。

 

みんなが思う豊かな自然がなくても、月が綺麗だねと思うことはできるし、暖かい風が吹いてる、いい匂いがする、綺麗なお花が咲いている、木の枝が落ちている・・・と子どもと散歩をするだけで、たくさんの自然から受け取るものを発見する。

卵をポトンと割ると不思議な色だねとか、里芋はヌルヌルするねとか、ご飯をつくるという日々の営みの中でも面白い発見をする。

共感できる感性を大人も持っていたら、世界から一緒に発見できる。

 

センスオブワンダーの中から、「好き」「やりたい」がつながる「かも」ね。

この環境だから、何かができないなんてことはなく、どこにでも驚きを与えてくれる発見はある。先日、ある大学の先生が、子どもらしいということは、「泥んこになって、みんなでニコニコして遊ぶ」という大人が子どもらしいと描く姿ではないと言っていた。「自分の好きなことだけやる」のが子どもらしいということ。

だから、泥んこをしないのは、泥んこが嫌いだからやらない。

好きなことしかやらない。その「好き」というのは多様である。

 

うちの街にはなんにもないなんてことはない。

子育てだけではない、大人だって、昔はよかった、この街にはなんにもない、あの街のように魅力がないって言う。

だから何か開発しなくちゃ、つくらなきゃって思っている。

わざわざつくらなくても、つまらないと思っている日常の中にすでにある。

街がつくってきた物語を知っているか?どうしてこの道路ができたのか、どうしてこの坂道があるのか知っているか?

そこには驚くような物語があって、自分で探検していく楽しさもある。

これは地域の歴史にフォーカスした場合の探検。

他のところに虫眼鏡を当てれば、また違う世界が見える。

なんでもわかった、なんにも面白いものはないと日常が曇って見えるなら、大門に来て、中村映劇に入ってみたらいいわ!笑(入ったことないけど)

自分が思っている世界の外にたくさん知らない世界が広がっているのに。

で、わたしはその役割の一つが図書館だと思っているのだなぁ。

結局すべて図書館に落ち着くんですね・・。