8月31日キャンペーンがつらい

 いつの頃からか、8月31日直前になると、「学校が始まることが憂鬱」「学校がつらい」子どもたちに向けた、ニュースが流れる、専門家のコメントが出る、いじめや不登校を経験した有名人からの「1人じゃないよ」というメッセージが流れるようになった。

 そして、学校に行かなくてもいいようにたくさんの選択肢が示される。

 私は毎年このキャンペーンにモヤモヤ、ざわざわする。

 なぜ夏休みの終わりだけなのか、5月の連休明けは?日曜日の夜は?冬休みや春休みにやらないの?なんでこの時だけ、みんな急に1人じゃないって言い出すの?それ以外の時は、心が1人ぼっちな人はいないの?

 わざわざ、そのメッセージを伝えるということは、その大前提に、「学校には行くもんだ」という前提があるからである。公立の学校の規定の学校以外の多様な選択肢があり、それを親も選ぶための環境が整っているならば、ことさらに「学校に行かなくていい」ことを言わなくていい。「学校に毎日行くのがいい」という価値観は変わらない中で、学校に行きたくない子どもたちのために何か届けたいという「善意」が、「学校に行かないといけない社会なんだという」前提をみんなで強化していると思う。だから、私は、息苦しさを感じるのだと思った。

 1人ぼっちを感じた時に、何かの居場所、何かのサービスにつながることはより難しくなる。全く知らない場所に出かける、全く知らない人に会うような、そんな場所に行ける元気があるだろうか。普段から学校は休んでもよくて、辛いことは言える人がいて、学校も一つの場所。その子が生き生きできる場が学校以外にある。安心できる人がいる、困ったらあそこに行こうと思える場所がある。そうした場所につながりを感じている時に、8月31日の1人ぼっちを過ごせると思う。1人ぼっちの子が見ている世界を想像すれば、そんなことはすぐにわかる。この時になって、1人ぼっちの誰かに、何かを届けたいというのは、何かをしたいが何もできない、何かをせずにはいられない多くの人の自己満足の現れなのではないかとさえ思う。

 「選択肢は多い方がいい、選ぶのその子自身なんだし、こういう選択肢もあるといいよね」と、たくさんの善意によって、情報は溢れる。1人ぼっちで辛い時、選択肢は多ければ多いほどいいかというと、そうではなく、何も選べない自分を感じ、ますます1人ぼっちを感じる。本当に行き詰まっている人は情報を探せないし、情報を選べないし、どこかに行こう、誰かに連絡しようとは思えない。それでも、「誰か1人が助かったならそれでいいじゃないか」と、その善意は正当化される。

 情報をつくる、情報を届けるのが仕事の人は、情報の価値を決めるのはその人だと考える。だから情報があるだけでいいと思うかもしれない。情報を届けたいと思う前に、問題の構造に目を向け、情報の先にいる人が見ている風景を想像してほしい。

 もし、1人ぼっちの誰かの助けになりたいと思うなら、普段から、敷かれたレールに乗れない全ての子ども、大人に多彩な道があることを示し、受け入れ、安心できる場を社会につくる、自分がその1人になる。それができることだと思う。