図書館リハビリ活動 確かさのない世界でも安心する「現象学」という思考

 アーレントハイデガーからのフッサールに興味が出て、フッサール現象学のなんか本ないかなと思って、図書館の本棚にあった、たまたま手に取った本。フッサール現象学は超難解だと、本の感想をブログなどで漁っていてわかったが、この本は読者にやさしかったように思う。「哲学の中でも難解なことで知られています」ってフレーズをよく見るけど、難解じゃない哲学なんてないんじゃないの・・
自分の立っている場所が揺らぐ恐怖
 この本を読んだ時の私のこと。うつの脳が引き起こす恐怖の中にいた。自分の中から湧いてくる恐怖や不安の世界は今まで見たことがない、経験がしたことがないものだった。自分が立っている場所、そのものが根底から歪んでいくような恐ろしさだった。具体的にどういうことが起きたのかというと、夜、急激に不安が増幅し、足のしたからぞわぞわと駆け上がって、今まで感じたことがない動悸の激しさの中で、今日の夜をどう過ごそうかと思った。その時、自分が知っていた「うつ」の世界とは全然違う、もっと怖い世界があるということを知った。その世界は死にもつながっていることがはっきりわかった。自分の不安に殺されるということもあるんだと恐怖に慄く。
 目に入るもの全て、少し思った小さな不安が恐怖になった。例えば、「あの人と約束したお茶にはいけないかもしれない」「ライブラリアン活動もできないかもしれない」「楽しいことももうできないかもしれない・・。」そうした言葉が脳に登場する、登場したことは、自分の意思とは関係なく、強い不安、衝動に変わって増幅して、自分に襲いかかってきて、動悸がする。そのような現象に対して、深呼吸、腹式呼吸、しこを踏む(「セルフケアの道具箱」著者 伊藤絵美 晶文社)ボディワークをする。それでも湧き上がってくる焦燥感と強い動悸、1秒も穏やかに過ごせない。「今日もまた夜、あのような恐ろしい渦の中に放り込まれるのか・・」夕方になるとそう思えてくる。すると、ざわざわといてもたってもいられない気持ちになる。外に出ると、目に入るもの、信号機、横断歩道、車、自転車、スーパー、電柱、全ての風景が自分を襲ってくるように感じ、目をつむって呼吸を整えた。
 そのような夜を過ごし、薬を飲んで寝ることができ、朝になる。心からへとへとになった気分で、図書館に行く。自分の中に起きていることはなんだったんだろう・・呼吸を整えるように、本を開いて、ただ文字を目でおって、心の中で声に出して、丁寧に書き写していた。
 
確かさのない世界で
 メンタルがやばい時に、小難しい哲学の本を読もうとは多くの人は思わないかもしれないが、私はたまたまた読んだ、哲学に心が静かになっていく思いがした。心が静かになる、脳のスピードが緩まっていくのは、哲学は答えを示さない、問いを出すから。自分とのやりとりが生まれるからだと思う。

calil.jp

この本は現象学について何も知らない人にもわかるように書いた本ということだった。
 
現象学とは何か?
「本書の導きの糸となる人るの考えが浮かび上がってくる。本当に何の疑いものなく「確か」だと思われていることは、かえってことさらに「確か」だと言われることはなく、あまりにも確かなことは、語られることさえなく、沈黙のうちに沈んでいるのではないか、というのがその考えである。そのように沈黙のうちに沈んでいる広大な世界を探求しようとするのが、「現象学」と呼ばれる学問である。(P14)
 
さらに、この本の序章にはこう書かれている。
 「自分」とは何かがわからなくなったとき、「他人」とは何かがわからなくなったとき、「世界」とは何かがわからなくなったとき、「生」がなぜ営まれているのか、「死」が何を意味するのかわからなくなったとき、これらの問いに対して、手っ取り早く答えてくれるものを見つけられる人は稀であろう。多くの人は、問いに蓋をすることしかできない。問いに蓋をするのは、怖いからである。不安だからである。それでは、その不安に、ヒロイックに立ち向かうことが求められるのだろうか?
現象学は、一見こうした問いとは無縁であるように見える。実際、フッサールは、こういった(かつて「実存的」とも呼ばれた)問いに華々しく正面から答えようとはしない。
 それにもかかわらず、フッサールの創始した現象学は、先に述べた一連の問いにも、どこかで通じているように思われる。噴出しようとする問いに蓋をして無視をするのでもなく、不安と派手に一線交えるのでもなく、不安に飲み込まれずに、冷静にこの問いへと「一歩一歩徒歩で」近づいてゆく道を現象学は指し示しているように思われるのである。(P18)
 
 まさに、不安と恐怖を経験し、どうしようかと思っている自分の目の前に現れたのが「現象学」という考え方だった。突然経験したことがない「不安」とどう付き合えばいいのか。自分が立っていた地面は、全然確かではなかった。足元の世界が崩れ落ちていくことへの恐怖は41年の人生で経験したことがないものだった。
 この経験の後、メンタルクリニックの主治医に、「死ぬほど怖い恐怖がまたやってきたらどう向き合えばいいのか?」と、受診の時に尋ねた。主治医は、穏やかに、優しく「不安でも恐怖でも大丈夫です。そこにいれば大丈夫なのです。」と言った。死ぬほど怖くても、そこにいれば大丈夫とはどういうことか・・!「いやいや、不安も恐怖もいやじゃん・・・」と思ったが、主治医は、いつもの会話と変わらないトーンで、「そこにいれば大丈夫」と、言った。また不安や恐怖がやってきた時に主治医の言葉を思い出していた。主治医があの時、言っていたことは、不安に飲み込まれず、「現象学」というパースペクティブで捉えるということだった。
現象学的に、自分の中に起きたことを観る
 主治医は、「自分が対処できたという経験が、自分の中にできてくるはずです」と言っていた。その経験以後、恐怖や不安の波がきたら、まずは落ち着く・・深呼吸する、体を撫でる。小さな不安や恐怖の波は、アテンションを変えるように外を散歩する・・と私の中にいくつも対処してきた経験ができた。そのように、自分の中にある構造、パターン、規則性があり、それを「わかっている」から対処ができる。そのように、現象学では、ものごとには全てに一定の規則構造があると考える。
身体を動かしている意識がないのに、周囲の景色が激しく動き始めたら、私はすぐに異変に気づく。自分が目眩を起こしているのか、自分が乗っている地面が激しく振動し始めたのか。何が起こっているのかを確かめようとする。そこで私が異変に気づくということも、私が現れの変化をいつも身体の動きと一緒に意識している証拠である。(P96)

「通常の状態」では、私はつねに、私の身体の動きと、世界の現れ方の変化とを一定の相関において捉えていることがわかるのであり、この相関が一定の規則的構造の中に収まっているかぎり、わたしは世界を安定的に経験することができる。(P96)

 

 
 生まれてから、「こうなったらこうなる・・」という経験で予測ができることばかりである。例えば、道を歩いていると、「信号が赤になると車は止まる」とわかっているから、青信号で道を渡る。ささいなパターンがこの世を構成している。しかし、私が「当たり前」と思っていることは、当たり前とは限らない。海外に行けば全く違うルールがあるかもしれない。また、交通事故で目が見えなくなる、身体の機能を失えば、感覚世界は「当たり前」ではなくなる。私が「死ぬ!!」と思えた経験も、41年の中で経験がしたことがないような感覚であった。主治医は、いろいろなことが押し寄せても「ふーん。〜そうなんだね」と受け流すよう言った。(これも「セルフケアの道具箱」に書かれているマインドフルネスの一つ)「ふーん。」と捉えることが、現象学的に物事を見るということだったなぁと思う。
 
現象学」の捉え方 「物」から「構造」への視点の転換
 わたしが最も面白かった箇所はここ。
 「物」の背後、下部には、絶えず変化し続ける現象のなかに現れる多様な相関関係があり、「物」は流れの中にたまたま表に見えた、「インデックス」のようなものだと著者は述べる。
 多様な相関関係は生成される。フッサールは、能動的に「つくりあげる」かのような表現は極力避けていたらしい。能動的な作用なしに、現象がおのずから生成されること。
 これって、学習する組織の「氷山モデル」の学びの中で聞いてきたことだった・・
 さらに、
 現象学は、「主観的な」カプセルの中にこもって、主観的体験だけを分析しているのでもなく、客観的な物を自然科学的に分析しているのでもない。
現象学は、「主観的」とも「客観的」とも言えない、具体的な相関そのものを媒体として、その中で、「主観的な」体験の数々と客観的な物の世界とが、まさしく相関的にしかありえない仕方で互いに差異化され、構造化されつつ生成してくるありさまを描き出す。
このようなスタンスに降り立つことを「現象学的還元」という語で呼ばれる。(P105)
 これって中動態みたい〜と思って、現象学とその他の学問との関連に興味が湧いた。不安や恐怖、身体に起きる症状の中でのあり方が示されていた。構造を「つくりあげる」「変える」のではなく、主観でも客観でもなく、ただ「ある」ことだった。
自分で考える人のために書いた本
 あとがきで、著者は、「私はこの本を、自分で考える人のために書いたつもりである。」と言う。また、現象学についてある程度知っている人が、あーあれかと、「わかってしまう」ことを避けるため、現象学の基本的な用語を極力使わなかったということだ。「まっさらなところから新たに立ち上がってくるさまを、生き生きと体験しなおしてみることを試みたかったのである」
 まさに、生き生きとした読書体験が起きた本だった。うつの中で私が見た風景、経験、体感を違う言葉で捉え直した。この世は、「不確かな世界である」それは、当たり前すぎて、忘れてしまう。当たり前のことを自覚した恐怖の中で、自分の中に起きたこと、浮かんだ問いへの応答が生まれる経験だった。焦燥感が和らぎ、脳が動くスピードがゆっくりになっていく契機をもたらすのはこの本だった。「知らない」読者を拒絶はしない、対話的な本だった。