図書館の遊び方「未知」の本と「既知」の本

 

 書店と図書館の違いの一つは、〝図書館は、「記憶装置」である〟という点。人は、書店に行く時、読んだことがない本、未知の本に出会いに行く。読んだことがある本は通常は買わない。(私は読んだことがあっても間違えて買うことがたまにあるけど。笑)資料を収集、保存し、利用できるようにする「社会の記憶装置である」図書館は、自己にとっての、「体外の記憶装置」でもある。自分の「未知」(読んでない本)だけでなく、「既読」の本、自分の記憶装置に所蔵されている本に、出会うこともできる。

 多くの人には、「知らない本に出会う」ことのが「価値がある」「価値ある」読書をせねばならないというメンタルモデルがある。多くの読書論においては、本を何度も読むことが推奨されている。しかし、読者は、「そーゆーのって、時間のある有閑知識人が説教的に言っているんじゃない?」「実際は難しい」と思うのではないか。読んだことある本をもう一回読むのって、「価値があるの?」「そんな時間がない」って、思っている。新しい本、読みたい本がたくさんあってワクワクしたり、義務的に読まねばならない本が積まれているのに、すでに読んだ本を読む優先度は上がらない。

 最近、わたしがハマっている、図書館の遊び方の一つ。そして、図書館での遊び方、過ごし方がわからずうろうろしてしまう人に、やってみてほしいことがある。

それは、「既知」の本に出会うこと。「昔読んだ本」それも、棚を眺めていて、すっかり記憶の彼方にあったのに、突然、「この本読んだことあるな!」「ハッ!!」と心が動くように感じた本を、取り出す。表紙を眺める。読んでみるということである。そんなに本を読んでないという人は、子どもの頃に読んだ絵本もいいと思う。

 

ぼーっと棚を眺めて、「ハッ」とした本が、「リンさんの小さな子」だ。

「あーこの本たしか読んだなぁ・・いい本だったなぁ」と思った。 

note.com

 本の内容は、noteの方に書いてある。

 18年も前に読んだ本の「はず」で、心に残る本だったと思っていた。でも、全く初めて出会うように感じた。読みながら、この本を手に取った時、本屋さんで働いていたこと、どの本棚にあったか、働いていた時に見ていた風景が蘇ってきた。さらに、この1冊に出会えてよかったとしみじみと思えるいい本だった。

 また、もう一つは、子どもの頃から大好きだった、「赤毛のアン」。子どもの頃に、何度も読み返していたが、久しぶりに開いてみる。山本容子さんの美しい挿絵が好きで、本の中にある挿絵がイイんだなぁ・・。言葉の一つ一つは忘れている。赤毛のアンには、キリスト教の信仰や習慣やカナダの文化がわからないと理解できない言葉が満載なのだが、子どもの頃は、それも含めて、想像して読むのを楽しんでいた。「モスリンのカーテン」がどんなものかもわからないし、「メイフラワー」がどんな花なのかわからない。キリスト教の警句もたくさん出てくるが、読み飛ばしながら、読んでいた。アンの止まらないおしゃべりを聞いている時間は、心の奥底にある温かい場所に戻っていくようだ。

calil.jp

 うつの回復過程にとっても、昔読んだ懐かしい本を読むことは「自分が元気でいられる」ことでいいことだと思う。「復職をどうするのか」「仕事をどうするのか」という、考えても考えても答えがないことに頭の中は、支配されてしまう。そうしたループから外れ、問題から距離を置く、遠い安全な場所に連れて行ってくれる。

 この2冊を再び読んで、自分が自分について見えていることなんてほんの一部なんだと気づく。自分の土台を形成してきたたくさんの記憶は忘れながら、生きている。経験と出会いが連関して、人生が編まれる。その流れの中に、たまたまあるのが1冊の本。

 1冊の本という形になっているからこそ、本に再び出会う時に、自分の中で見えなくなっているものも見えるようになるのではないか。「自分の中、探求の旅」という楽しさに出会った。「既知」の本に出会う宝探しのような時間を過ごすために図書館に行くのも試してみてはどうだろう。