図書館リハビリ活動 図書館は「評価」から自由になれる場所

うつ病と診断されたフリーライブラリアン・山本茜が、休職中に図書館にリハビリとして通って、本や図書館や本と人が出会う場について出会い、感じたことをまとめています。

 

先日、「評価」について、自分にはメンタルモデル(自分の経験によってつくられた思い込みの)があると気づいた。そして、「図書館」「本」には、「評価」のメンタルモデルがないことにも気づいた。

 

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 これに、気づいた時は、うつのネガティブ自動思考が高速回転するようになっていた時。

 内省力が数倍に加速し、脳が疲れているにも関わらず、脳の高速回転は止まらない。

 ネガティブなことを勝手に次々と拾ってしまう時だった。内省して気づくことが、即、恐怖や不安として湧き上がってしまうループに入っていた。

 好きだった絵を描く。子どもの頃、他人の評価が気になっていた、自分の本当の気持ちを大事にできていなかった記憶、自分の心の傷に気づいてしまった。

 好きな水泳に行くと、人よりも自分は遅いか、速いか、うまいか、下手かということを気にしていた自分に気づいて、ネガティブな感情が湧く。「今まで水中ウォーキングを舐めていました、ごめんなさい!!」と猛烈に反省して落ち込んだり、なんでも自責につながる、望まない焦燥感、不安感がすごいスピードで駆け上がる恐怖を感じた。(今思うと、どう考えてもおかしい頭の回転の仕方してるんだけど、自分の意思ではなく勝手に湧いてきて、勝手に自分を攻撃して、死ぬほど怖い恐怖の渦に巻き込まれる。これ、大袈裟な比喩ではなく、本当にこんな感覚だった。)死ぬほど怖いことがあるとわかった時も、図書館に行った。ただ、棚の間を歩いて、棚を眺めていた。「図書館」と「本」だけは、評価から自由でいられる場、ずっとそんな場だったことを思い出した。

図書館や本は安全な基地

 思い出したのは、高校生の頃。クラスで同級生たちが、「キャハハ、まじウケる」と手を叩いて笑っている姿を見るのが苦手だった。なぜなら、私はそこに入れないし、「まじウケる」と思った人たちは、マジョリティ。私は、「マジウケる」を共有できる言語を持っていない。全然違う言語を話す人たちで、私は同じ言葉を話せない人に思えた。彼ら・彼女らが手をたたいて笑っていることが、人を卑下して、ネタにするような笑いで全然笑えなかったが、笑えない自分がダメであるように感じた。自分には価値がない人間であることを思わされていた。居心地の悪さしかない教室では、できるだけ空気を消す。一人で、高校の図書室へいく。図書室は学校の中にあるエアポケットだった。クラスでの他人の目、評価の目に晒されるわたしを忘れることができた。本の中の世界は私を拒むことはない。本の中の主人公に自分と似た人を見つける。自分が苦手、違和感のあることを見つけた。変われない自分も優しく受け止めてくれていた。高校生の私と、今の私の中で、図書館の存在は何も変わらない。

 私のうつのお供のような漫画、「うつヌケ」に、うつの中、色々な歯車が回らなくなる中でも、静かに、回り続けている、歯車があるという話があった。まさに、回り続けている唯一の歯車は、「図書館」と「本・文字」を「読む行為」「言葉に出会うこと」「著者と対話すること」

 私にとって、子どもの頃から、ここは「評価」がない安全な場所であったから、うつの中でも回り続ける歯車だったのか。これに気づけたから、内省力高速ループで脳疲労も悪くないと思えた・・

 

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 多くの人にとっての図書館または、本は、「評価」から自由になれる場所か。

 多くの人にとって、本、図書館は、「評価」がない安全な場所とは言えないかもしれない。うつの人が図書館に行くことを推奨する「図書館リハビリ活動」というものは、精神科クリニックのブログなどで知った。精神科医は、社会復帰のリハビリの過程の一つに「図書館」に行くことを挙げることもあるようだ。しかし、普段、図書館に行ってない人が、いきなりリハビリと思って、図書館に行く。図書館の遊び方、楽しみ方が、自分の中の経験にない人は、図書館に行くと途方に暮れてしまわないだろうかと想像した。

どうやって、自分はここで楽しんだらいいかとソワソワする。

ソワソワして、しかたなく、雑誌コーナーの雑誌をパラパラ見る。

楽しめなくて、結局スマホを眺めて、ベンチに座って終わってしまった。

たくさんの本がありすぎてしんどくなる。

そんなふうにならないのだろうか。

「本」「読書」を遠ざける劣等感や評価のメンタルモデル

その時、その人の中で、どんな声が聞こえているだろうか

「こんな本、読みきれないかもしれない」「自分が好きな本かわからない」「自分が何が読みたいかわからない」「ハズレを引きたくない、どうせ借りるなら、アタリの本を借りたい」

そこで、スマホで検索して、アマゾンの感想を眺めてみる。感想を見ると、「つまらなかった」という評価もあれば、「面白かった」という評価もある。さらに自分にとっての「正解かどうか」わからなくなる。

 また、心が疲れている人には、「読書はよくない」と思っている人もいる。(そうした思い込みから、「本読まないで、たまには休んだら?」と、言われたこともあるが、あれは、超モヤモヤした・・!!)心が疲れている人に、「すぐやれる人とやれない人の習慣」とか、「最強の勉強法」とか、「すぐに行動できる人になるための、⚪︎と×」とか「今こそ読むべき〇〇」「40代でやるべきこと」というようなキーワードは疲れている人には危険。ジャッジする、断言する、スピードを求めたり、自分を高めて、どんどん進む、知らないことをバカにしたり、立ち止まっている自分に鞭を打つような本では、休息はできない。「こうするといい」という正解は、一見、その人が求めていることのようだ。しかし、「こうするといい」ができなかった時、また、不安な自分に舞い戻る。「正解を本の中に探そうとする」→「正解はない」「正解はある」→不安 正解を探そうとするモデルの中にいる限り、不安のループは繰り返される。

 人と本を話す時に、「私は、本が好き、趣味は読書」と言う人よりも、「本は全然読まないけど、漫画しか読めないの〜アハハ」と、本を読めないことをことさらに強調し、卑下して笑う人が多いように思う。漫画が大好きならそれでいいと思う。「漫画が大好き」なのとは言えないのは、本を読めない自分、「知らない」ことへの劣等感を内在しているからではないかと思う。「知識」や「成長」の象徴。それが、形になったものが「本」。「本」がそうした存在でしかないならば、本は、栄養にはならないかもしれない。「劣等感」「評価」「成長せねばならない」というメンタルモデルがある人は、図書館も本も苦しい存在になるのかもしれない。

どう「本」にある呪いを解くのか

 私がどんなに、本は安全、本を楽しむ方法があることを伝えても、「本」や「図書館」に対して、「評価」「劣等感」「成長せねばならない」のメンタルモデルが張り付いている人の呪いは簡単には解けない。「本」を人に渡すお仕事をしているライブリアンは、それは、「本」の全てではなく、一面であるということを、知っているのではないだろうか。呪いを解くのが図書館であり、ライブラリアンではないだろうか。でも、呪いをさらに強化していたりなんかして・・

呪いを解く本の読み方、関わり方

本、図書館にある呪いに気づいた人は、「賢く」なるため、「役にたつ」ための本を選ぶということをやめてしまおう。何も知らない自分が責められるように感じるなら、そういう本には近づかなければいい。「この本全然、読み進められない」と思ったら、「読みたくない」ということで、本とさよならする。

 自分の生活の中で好きなことについての本を借りる。例えば、私がこの前借りたのは、「くらべる世界」フォトブックのようにおしゃれな装丁。

 パラパラとどこからでも読める。全部読まないといけないと思わされる要素がない。

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 「朝ごはん」や「カレンダー」「ネクタイ」など33の項目を立て、それらが「日本とアメリカ」「イギリスとフランス」のように世界の異なる二カ国間で、どのように違うのかをくらべて解説した本です。

 

たくさんの似たものを世界中から集めた本。読んでるだけで、楽しくてワクワクしてくる。この本は、本棚からこの1冊を見つけたのではなく、テーマ展示(たくさんの本から図書館の人が本をピックアップして展示してあるコーナー)で見つけた。こんなふうに、図書館は本の呪いを解くしかけをいくつも用意している。

本を借りたら、「表紙と目次と3ページしか読めなかった・・自分はダメだ・・!!」ではなく、表紙と目次と3ページの中で、気になったキーワード、3ページ読みたくなった理由があったら、それだけでも、「本から得られることがあった。では、また会おう」と言って本とお別れしてもいい。

 読んでみたら、著者の言葉が難しすぎて、読めない、「これが読めない自分がバカなのか」と思わされることもある。著者の話がわからなかったら、「ふーん、そう思うんだね、自分は全然わからなかった」「ふーん」と言って、素通りする。

 本を読むことは苦行ではなく、物事が視えるようになる、自分の心がワクワクするため、ホッとするためにあっていいと思うが、苦行のように、読みたくない本を読まねばならないとストイックに自分に強いている人が多すぎると思う。

 再び本が読める、今まで読めなかった人のための本

 本が読めない、選べなくなった、好きな本を探すアンテナが錆びてしまったと感じている人は、若松英輔さんの「本を読めなくなった人のための読書論」をパラパラ読んでみてほしい。本を読もうとしなくていい。著者は、本を読もうとしないで、言葉を「書き写す」ことから始めることを述べている。「言葉」が自分の中に入っていく。その言葉が心の中で響き合う感覚を集めていく。この本によって、本と自分の間に起きる経験は、「成長」「変化」のためではない読書。

 

「とどまる」「本の中の著者と対話する」ことで、自分の外の世界、本の中には「確かなこと、答えは何もない」にも関わらず、自分の中にはすでにわくわくすることはあったと気づく。「不確かな世界でも大丈夫」本を閉じたらそんな気持ちが湧いてくる。「本」がそのような存在として、誰かの前にあってほしいと思う。