図書館リハビリ活動「評価」されるメンタルモデル

最近、また、絵を描きたくなり描いてる。ザワザワし、落ちていくドライブがかかる前、心を凪にキープできる。
鉛筆をたくさん入れた箱を取り出し、カッターナイフで鉛筆を、削ってると、心が落ち着く。
子どもの頃から、造形教室に行き、お絵描きは得意。いつも賞状をもらっていた。
しかし、描いていた絵は、「こう描くといい感じに見られる、ウケるだろう」と思って描いていて、心から楽しく、対象や紙の中の世界を楽しんでいたわけではなかった。わたしにとって「絵を描く」ことは、「評価される」「褒められる」こととセットになってしまっていたと思う。デッサンしてないで、「自分の作品をつくれ」と、美術部の先生に言われたが、オリジナリティを求められるのは、しんどかった。わたしには、技術を使い新しい世界を作り出したい欲求はないことに高校生の頃に気づいた。
評価されることを、元にした、お絵描きはしんどかったなぁと、メンタルモデルに気づいてしまったー。
デッサンは塗り絵ではない、写真を写すことではなく、モノがそこにあることを、眼でなぞる、観ること。描くことは、観ること。
うまく描けてない、何かおかしいのは、観えてないということ。
コップの中心軸はどこにあるか
コップの底は見えないがどのあたりにあるか
コップの端、回り込んでいく世界を描けてるか
コップの中、持ち手の空間は、空間とコップの中、持ち手の関係は
そうやって観ることの精度を上げ、モノが紙の中に確かにあるように、立ち上がらせていく。
「うまい」人は、この観ることと、現す技術の両輪が長けている人だと思うが、対象に向き合うスタンス、経験は長けてる人もわたしも同じ。
デッサンは修練、通過点であるが、今はしみじみ楽しいと思う。
評価ではなく、プロセスを楽しむものとしての、お絵描きは、また、楽しくやれるような気がする。
しかし、わたしの心には評価のメンタルモデルは貼りついている。
 
絵画教室とか行くと、また、評価構造の中に身を置くことになり、しんどい構造にハマるんだよね。なんか、関連本ないかなと図書館の棚を見る。「デッサン」の棚には、「描き方」と背表紙に書かれた本が多く。全くわくわくしてこない。「デッサンのやり方」の本は求めてないのだなと思った。
「ものを観ること」「描くこと」「表現すること」「存在するとは」・・などなどの全く関係のないジャンルの本やメディアに自分のわくわくの種はあると思う。いつか出会えるのを待ってようと思った。