知が求められる現場に出会うこと

〜さんが言ってるから正しいではなく、根拠に当たること

大学時代にジェンダーについての研究をしてきた友人は、ジェンダー性教育についての講座を企画していきたいという。先日、そのはじめの第一歩となる講座を企画してみた。

子育て中の女性が集まる少人数の場、そこで、「おちんちん」は外性器の総称なのか?そうではないのか?とそれぞれ専門職の方の間で意見が割れたということ。

 こういう話し合う、学び合う場だと、「専門家の人」がいうから正しい、その正しさに本当にそうなの?ということを言えない場の雰囲気になってしまうことがある。その場を進行する友人はとても戸惑ってしまったという話・・。

 

性教育については、それを語る人が、助産師なのか、保育士、教育系の方なのか、医療関係の方なのかで、大事にされるところが違ったり、根拠なきことが語られているということがよくあると友人から聞いた。そして価値観や認識の違いでぶつかることもあると聞いた。

 そんな中で、感覚的に伝えていくことよりも、正しいとされていることはどこからくるのか、「え?おちんちんって、ここの部分のことなんでしょ」と誰も疑わないことは本当にそうなのか。「それは違う」ということも、専門家の〜さんがいうから正しいと理解するのではなく、その情報の拠り所を探して、自分の頭で理解していく過程をみんなで共有することが大切なんじゃないかって話になった。

 

 解剖生理学・教育史・社会史の観点から、どのような背景の中で今があるのかを理解した上で、では何が必要かを考えるのが大事!

では、ジェンダーについて調べてみよう!となった。

そして、私は図書館で「おちんちん」について調べてみようと思った(笑)

 

ここで私の役割がある!と気づいてワクワクする。

私は図書館が地域や人の未来をつくると思っている。

必ずしも図書館ではなく、図書館的な機能でもあると思ってる。その価値、役割を図書館の中と外で分かち合っていくようなことがしたいと思って、ずっとにんげん図書館という取り組みをしてきたんだけど、こうした「知」が求められる現場が図書館につながっていくのだと思う。

 で、図書館の外にいる人はそんなことは思い浮かべないけど、ライブラリアン的視点を持つ私は、ここにリサーチが求められていることを発見する。ライブラリアンマインドを持って、ただ調べるのが好きな市民が図書館の中と外をつなげ、図書館そのものを一緒につくっていくのではないかと思ってる。

 

AI時代で、図書館なんていらないんじゃないの?!という声を聞いて、図書館界は「なんにもわかってない!」とヒステリックに反応しても、真面目に図書館の大切さを説いても、自分の立場を守りたい人の発言にしか社会の中で響かない虚しさを感じることがある。図書館の中にいて、図書館の大切さをどんなに伝えても伝わらない。

 

 図書館が必要とされている場を探すのではなく、図書館の外で「知」が求められる現場に図書館の人たちが出会う体験が必要なのだと思う。

社会の中での図書館または、図書館的な機能、情報をアーカイブしていく価値を実感していく、そうした体験が図書館の人の力を引き出すと思う。図書館不要論にそうじゃないという根拠あることを上手に言えないけど、こうした現場とつないでいきたいなと思った。

 

 

2019年 読んだ本

2019年 読んだ本(12月29日時点で79冊)
途中で読むのやめた本は入ってませんw
 
(哲学・思想・考え方)6冊
じぶん・この不思議な存在 / 鷲田清一
生き延びるためのラカン /斎藤環
哲学個人授業 /鷲田清一 永江朗
はじめての構造主義 / 内田樹
寝ながら学べる構造主義 /内田樹
考えの整頓 / 佐藤雅彦
 
 
(政治・社会)13冊
保守と立憲 / 中島岳志
自民党 価値とリスクのマトリクス / 中島岳志
公文書管理と民主主義 / 瀬畑源
政令指定都市 / 北村亘
社会的共通資本 / 宇沢弘文
経済ってそういうことだったのか会議 / 竹中平蔵 佐藤雅彦
評価と贈与の経済学 / 内田樹岡田斗司夫
若者よマルクスを読もう / 内田樹 石川康
歴史の話 / 網野善彦 鶴見俊輔
日本中世の民衆像 / 網野善彦
 
(組織・場づくり)1冊
ワークショップ / 中野民夫
 
(地域社会・郷土史・文化)13冊
歩いて読み解く地域デザイン / 山納洋
東京高級地探訪 / 三浦展
シビックテック ICTを使って地域課題を自分たちで解決する / 稲継裕昭など
名古屋の街 / 戦災復興の記録 / 伊藤徳男
誰も調べなかった日本文化史 / パオロ・マッツァリアーノ
コンビニエンス物語 / 泉麻人 いとうせいこう
アジア沈殿旅日記/ 宮田珠己
盛り場の民俗史/ 神崎宜武
真宗民俗の再発見 / 蒲池勢至
女の旅 幕末維新から明治期の11人 / 山本志乃 中公新書
ある明治人の生活史 / 小木新造 / 中公新書
海水浴と日本人 / 畔柳昭雄 / 中央公論新社
 
(エッセイ)2冊
現実入門 / 穂村弘
ねにもつタイプ / 岸本佐知子
 
(お仕事小説)3冊
サブマリン / 伊坂幸太郎
チルドレン / 伊坂幸太郎
ガール / 奥田英朗 
 
 
(人権・ジェンダー・人間関係・夫婦・家族)10冊
82年生まれ、キム・ジヨン チョ・ナムジュ
人権ってなんだろう? 
ニキの屈辱 / 山崎ナオコーラ
友達は無駄である / 佐野洋子
趣味で腹いっぱい / 山崎ナオコーラ
うからはから/ 阿川佐和子
長いお別れ / 中島京子
神様のすること / 平安寿子
 
 
(小説/ ミステリー)2冊
レイクサイド / 東野圭吾
 
 
(小説/ 成長)1冊
思い出のマーニー / ジョーン・G・ロビンソン1
 
(小説/ SF)
 
(教育・学ぶ・本・読書)17冊
 
図書館の明日をひらく /  菅原峻
思考の整理学 ./ 外山滋比彦
ユネスコ学習権宣言と基本的人権 / 藤田秀雄
本の読み方 / 平野啓一郎
未来の図書館はじめます / 岡本真
生きるための図書館 / 竹内
図書館で調べる / 高田高史
家を出る日のために / 辰巳渚
ぼくは本屋のおじさん / 早川義夫
口笛を吹きながら本を売る / 柴田信
生きるとは、自分の物語をつくること/ 小川洋子 河合隼雄
難解な本を読む技術 / 高田明
千夜千冊 / 松岡正剛
本の運命 / 井上ひさし
同時代小説 / 齋藤美奈子
図書館・まち育て・デモクラシー / 嶋田学
 
 
(生きる・つくる・はたらく・暮らす)10冊
悪人/ 吉田修一
火花 / 又吉直樹
あなたの本当の人生は / 大島真寿美
リーチ先生 / 原田マハ
あの家に暮らす四人の女 / 三浦しをん
ダメを磨く / 深沢記久子 深澤真紀
リンダリンダラバーソウル / 大槻ケンヂ
バッタを倒しにアフリカへ / 前野ウルド浩太郎
自殺 / 末井昭

イベントレポート:わたしを紡ぐ営みと表現

【個人で取り組んだ活動、お仕事の記録です。】

名古屋市西区の長善寺住職、蒲池さんより、アールブリュットについての対話イベントをやりたいな〜というご相談を受け開いた11月17日に行った対話の場です。

 

アールブリュットって何?

アールブリュットとは、正規の美術教育を受けていない方から生まれる生(き)の芸術。西洋の芸術の伝統的な訓練を受けていない人が制作した作品であるが、アートとして扱われるものを指す。フランスの画家、ジャン・デュビュッフェが1945年にアールブリュットと呼んだことに始まる。(Wikipediaより要約)

 

必ずしも「障害者のアート」ではない。

私が、アールブリュットに出会ったのは、10年以上前だったかと思う。滋賀県にあるアールブリュットの美術館で、統合失調症の方が毎日、毎日書いたその人にしかわからない言葉の数々が地層のように重なった紙をの束を見た時に、この人にとっての日常であり、言葉であり、その人から見える世界の面白さに心が動いた。

 

それから、アールブリュットは日本でも浸透し、各地で展覧会も開かれるようになった。今回は、そんなアールブリュットについてのイベントをこの秋に行った長善寺の蒲池さんから、対話の場を企画したいというお話しを受けて行われた。

 

一緒に企画したのは、発達障害の方の支援をしている松永結実さん、精神障害の方が活動する場としてのコミュニティカフェかかぽを運営する一般社団法人しんさん。

打ち合わせをする中で、障害やアートに対しての思っていること、違和感もなんとなく共有できているなぁという感じがしていた。そして、企画にしたものの、どんな話になるんだろう・・とちょっと先が読めないワクワクも私は感じていた。

 
アールブリュットの矛盾、違和感

アールブリュットは評価され、国もお金をつけるようになってきたらしい。

世に評価され、作品がおしゃれな商品に生まれた変わったりするようになる。

障害者の収入になっていいよね!と捉える人もいる。

自由なアートなのに、不自由さが生まれてくるようになる。

周りがアールブリュットのイメージ像を勝手につくったり、素敵な作品を求めるようなことが起きているということ。


ボクシング?暴力?アートの境界とは

支援に対して、こうしたい!嫌だ!という感情の発露、それがアートではないか。

既存の枠組みを逸脱する、ロックな行為がアールブリュットではないか。

社会に許容できるものが、ボクシング、許容できないものが暴力。

その間にあるようなものがアールブリュットではないのか。
誰もが受け入れられるアート(ボクシング)の形にしてしまうということが、その人の表現、あり方を認めないということではないのか。

 

支援者、教育者のコントロールしたいという無意識の気持ち

支援や教育の現場にいるその人が枠から外れようとする、問題と捉えられる行動をとる時、自分の範疇を超えることに恐れの気持ちを抱く。

支援者に対しての反抗や批判、「〜したい!」と抵抗することこそが生きる源泉となる力。管理された中の表現、アートを求めていないか。

支援者は社会の間にいる通訳のような存在とも言えるが、その支援者に余裕がないために面白い表現であっても潰されてしまう。

本人の世界を表現する手立てを渡し、その結果生まれたものがアートであるはずなのに。障害に限らず、そもそも日本社会は、意味がないこと、役に立たないこと、合理的ではないこと・・をそのままにしてしておけないのではないか。

無秩序なことに秩序を、意味がないことに意味を。目に見える成果や評価を。

もやもやと感じて言葉にならないことのままにはしておけない、誰にでもわかりやすい形に成形しようとする。日本ってやっぱり「不自由」ですねぇ・・。

 

今回は、特に対話の落とし所といのはなく、ただただ、言葉を交わしていくだけの場。

これって終わりがないよね?!と、もっともっと話したいという気持ちになったなぁ。

f:id:akaneironomori:20191202132326j:plain

f:id:akaneironomori:20191202132348j:plain

 

不安定の中で安定する

「容疑者は職を転々としていた」ってフレーズをよく聞く。「職を転々とすること」頼るべき縁がないという不安、弱さを感じさせ、だから、事件を起こしたんだよねって思わせる報じ方だと思う。

世の労働市場では、職歴が多いのは不利になるらしい。

私の周りは職歴多い人しかいない気がしますけど・・。

 

職を転々とするのがデフォルト

現在仕事は8個目の仕事??

大学卒業後1つ目の仕事。本屋のアルバイト1年半

NPO法人の常勤職員 6年

発達障害者の就労移行支援事業所 週4勤務の人 3年 

 &NPO法人の仕事も業務委託でやる。

中間支援NPO 10ヶ月

妊娠・出産

元いた発達障害者の就労移行に戻るも半年で退職。

多文化共生のNPO法人子育て支援団体の兼業2年

この夏からは、生活困窮者支援のNPO法人の事務局と小児医療に関するNPO法人の事務局。

職を転々としている37歳女性。こんな履歴書。

何をして食っているかわからない大人との出会い

2005年、大学生の頃に、NPO社会起業家という人たちがいるんだと知った。何枚も名刺を持っている大人、何をして食ってるかわからない大人にたくさん出会った。その頃はパラレルワークとか、月3万円ビジネスとか、ノマドワーカーなんて言葉もなかったけど、すでにそんな人はたくさんいた。

NPO法人は、ある人を月収20万円オーバーで雇うということができないという組織も多い。だから、月10万円でお願いする・・専門性(会計とか、デザインとか・・)やプロジェクトで切り分ける。複数の収入を得るそうしたサバイバル精神豊かな人がたくさんいて、働き方はいかようにでも考えられるということを学んだように思う。

20代の頃、仕事の回し方を覚え、自分もかつて出会った大人のような働き方にしたいなぁとぼんやり思ってた。1つの組織にいた方が圧倒的に稼げるし、効率はいい。1つの組織じゃ不安、危ういと20代の後半に思っていたように思う。

自分は何でお金をもらうのか

会計とかデザインのようなわかりやすい専門職でもないのに、私になんかあるか?と思っていた。

私が好きでやりたいことは、図書館や本の世界のこと。図書館のことで稼げるようになろうとか、自分の人件費を稼ごうなんてことは思わなかった。

やりたいことで稼がず、一見関係ないNPO法人の世界にいた方が、巡り巡って自分が心を置く図書館の世界をもっと楽しくできるような機会や人や組織に出会えると思った。

最初のNPO法人での仕事は、コーディネーターだった。

その時、組織と組織をつなぐ、調整、全体を把握することとか、プロジェクトマネジメントとかが、自分の得意、できることなんだと自覚した。やりたいことを探すのではなく、求められることで働けばいいのかと思って、履歴書をつくるような転職活動もせず、流れ着くように働く先を見つけている。

今は一つのNPO法人は非正規雇用、一つのNPO法人は業務委託。そして時々ごくわずか個人でも仕事をもらうというパラレルワーク。

この道一筋でなくてもいい

「終身雇用が崩壊」という日本型の雇用の形が崩れている・・ネガティブに報じられる。かつての日本型の雇用をよかったものとする。「この道一筋」とか「一つのことに生涯を捧げる」ことを良いことと捉える傾向がある。

毎月の稼ぎは決まってる、ボーナスも手当てもある。

何年後にお金がいくらあるか予測ができる、だから家を建て、車を持ち、子どもは二人・・

そんな幸せのモデルをつくり、それを目指して、働きお金を稼ぐ。それが日本社会の発展だったと誇る。

終身雇用が主流の社会は、翻せば、変わりたい人には、変わらないことを求める圧力にもなり息苦しい社会ではないかな。

 

終身雇用じゃないからラッキー

終身雇用じゃない方が生きやすいわって言う人もいると思う。いや、だから企業は人を使い捨てたらいいということではなくて・・労働問題への対処、人権を守る雇用環境をつくるのは当たり前なんだが。

本人が自由に選べるバリエーションがあるというのは良い面もあるということ。

職能で切り分けて、自由に転籍するような人々、転職歴が多い人がもっと主流になるといいなと思う。

社会に放たれてしまうから、わかる自分の姿も、発見もあると思う。それが生きてく愉しさじゃないのかなぁ。

「一つのところで働きなさいとか、安定した仕事を」「転職歴が多いからどうのこうの」なんて言われることが耳障りな人は、ハイハイと聞いて、不安定さを誇っていたらいいのだと思う。

 私には1つのところで働くのが経済的に安泰でも精神的には安泰ではないように思えるためにパラレルワーク(複数のキャリア、仕事を持つこと)を選んでる。ゼロか100しかない世界の方が脆弱さがあるように思うんだがなぁ・・。

 

 

 

神って思うのは思考停止

 特にSNSでのことなんだけど、誰々さんがシェアしてるからこの記事をシェアするとか、誰々さんがいいと言ってるからこの記事はいい記事・・みたいに、誰々さんがフィルターとなり、誰々さんのお墨付きの情報として提供される時、それを見る人は、客観的にその情報を見ることができているんだろうかと思う。

 図書館とか、精神福祉とか、女性活躍とか、教育、それぞれの領域・この地域の中で有名人、リードしているオピニオンリーダーみたいな人がいる。

 その人の発言なら素晴らしいのだろう・・と人は無自覚に思い、そこで言われていることは真実なのかと疑うことはしない、そのまま鵜呑みにしているなんてことはよくあることではないかと思ってる。

 その人が、「自分の頭で考えろ、絶対正しいことなんてない」なんて言っている人なのに、情報を受け取る側は、自分の頭で考えることもなく、ただ情報を消費しているという矛盾した在り方に気づいてない。

 SNSの中でたくさんシェアされるとか、「いいね」がたくさんつく。評価されたい、承認されたい、上に立ちたいという人の気持ちと、その人の周りにいる「自分」、そのコミュニティに属している「自分」でありたいという相互の承認欲求が、その人を「神」にしているようにも思う。

 先日吉本隆明さんについて書かれた本で、オウム真理教を擁護するような発言をしていた時があったという記述を読んで、「あの吉本隆明さんがそんなことしていたんだ」と無意識に思っていたことがあり、こちらが勝手に「吉本隆明」ならそんなことはしないと、思っていたということだなぁと気づいた。

 人や組織を憧れの対象、ファン、神としてみてしまった時に見えなくなることがある。その人も変わりゆく人間、多面的な存在。

 だから、私は誰のファンにもならない、神とも思わない。

 批判的に捉えない人、自分たち最高って思っている人で構成されるコミュニティも気持ち悪い。ちょっと距離感をとって自分の中に取り込むような関わり方でいたいなぁと思う。

 でも、こういうブログを書いてる時点で承認されたいってことなんじゃね?と思ったりするが・・。

  

 

 

 

 

「何もしなくていい」は本当だった。

我が子、ただいま3歳と5ヶ月。

オムツ外しの移行中、保育園ではお昼寝の前とか、毎日決まった時間にトイレに座るというのを習慣にしていたり、もぞもぞしているとトイレに誘うというようなことをしている。家ではお姉さんパンツを履いて、「おかーさんおしっこ出ちゃった〜」替えるという毎日が2歳後半くらいから続いてるかな〜。ここ2週間で劇的に変わる。

 

内臓とこころを読む

解剖学者の三木成夫さんの名著、「内臓とこころ」を読んでよくわかったように、人間の排泄機能というのは頭で考えて獲得できるものではないということ。おしっこが溜まる、おしっこ行きたいと脳が感知する、トイレにいくという行動をとる・・・ということが連動するには時間がかかり、最初はそれぞれがバラバラ。だから、「おしっこが出ちゃう前にどうして言えないの!」「言わないとダメでしょ」というセリフを言ってしまいそうになるけど、それはそもそもが無理っていう話。

さとちんを見ていてもよくあることなんだけど、どう見てもおしっこ行きたそうだ・・ともぞもぞしていても、本人が「おしっこに行きたいということなんだ」と結びつけて脳が覚知してないというのは見ていて感じて、「内臓とこころ」で読んだことと同じだ!!!と思った。

我が家の「トイレトレーニング」

↑トイレトレーニングって言葉やめたらいいのにね。マッチョにトレーニングするということにしか聞こえない。そんな三木さんの本を読んでいたのもあり、家でもトイレトレーニングをがんばらなくちゃ!というのを思わず、なんにもしてなかった。

一応、うちでもオマルを買って、「オマルに座ってみよっかー」と誘ったけど、「いや!」と頑なに言うので、だんだん私も忘れていき、声かけすらしていなかった・・。そして、オマルはつかわれないままおもちゃ置き場になっていた。

保育園にお任せしている、なんにもしない保護者ですみませんと思いつつ。

一応保育園でもお迎えにいくと、帰る前におトイレに座るということをするんだけど、「ほんとにただ座っているだけだよね・・笑」っていう、あんまり気の無い感じで座っている様子。

子どもは突然変わる

さとちんに何が起きたのか?!と思うくらい突然変わる。

10月28日に、「保育園のトイレでおしっこ出ました〜!」と先生からの報告があり、これは大きな一歩であると驚き、その日におトイレに誘ってみると、座る。

家のトイレで座る!!!もう座れただけで、よいよい。

翌日からあんなに頑なに座るのを拒否していたのに、トイレに座るのを喜んでいる・・

トイレに座るための自分の便座を置くという作業が嬉しそうである。

何が起きたんだ・・

その1週間後、11月6日にはとうとう家のおトイレでおしっこが出る!

「わーいできたー」というのが嬉しかったようで、トイレに行きたくなったらいくと自ら言うようになる・・。とうとう寝る前に「とりあえず行っておくわ」などと、大人な発言をしている。

 

見えないところで本人の中に生まれるものがある

よく、「頑張らなくていいのよ〜」という言葉がけが、子育てをする親には向けられるんだけど、ほんとにその通りで、親が何かしなくても子どもの中で何か、気持ちの変化や身体の変化が生まれていて、それがある日姿を表すということなんだなぁと思う。

オムツ外し一つとっても、子どもが主体的にやりたくなるための様々なグッズはある。

子どもに押し付けるような関わり方で方法を提示するほど、子どもはそっぽを向く。

主体的な姿を求めようとする・・・その時に、もう子どもの主体性を待つという姿勢ではないということ。オムツ外しにはこの時期にこうするべしとか、どうしたらうまくいくか・・という方法を示す情報もたくさん溢れている。そういう情報を追いかけるほどに、目の前の子どもの姿を捉える状況に親の方がなれなくなるのかもしれないと思うと、そういう情報って誰のためにあるんだろうねと思ってしまう。

 

パターン化される情報提供

 ある日、子どもを出産して、母になる。その日から、世の中から「ママ」と呼ばれるようになり、「子育ママ」カテゴリーでの情報が提供されるようになるってことにとても違和感を感じるまま、今に至る。

 子育してるからって四六時中、子育てのことを知りたいわけではないのに、「子育てママならこういうこと知りたいでしょ」みたいな情報があふれている。

 子育てママじゃなかった時は、「子育てママはこういうこと知りたいんだろう」って思って情報提供、発信していたかもしれない。

 ちょっとインターネットで検索したり、子どもの育ちについて投稿するだけで、インターネットのアルゴリズムによって、子育てママ向けの民間資格とかパートの広告が出てきたりする。

 こんな風にインターネットさえも、子育てママはこういうこと知りたいはずだって思って情報を私に届けてくれる。でも、その「はず」という言葉によって、本人も知らない間に「そうあらねばならない」という不自由さの中に押し込められていることはないのだろうか。意識が集中しすぎて逆に視野が狭くなるということもあるかもしれない。

 子育てママの知りたい、学びたいに答える「ママの読書会」ってのも世の中にはあるんだなぁと、母になってわかった。チーム育児とか、ワークライフバランスとか、キャリアアップとか、育児休暇の間を豊かに過ごすためのライフハックとかスキルアップ系の本をママ同士で読む・・というのは私には直球すぎて、そして子育て中の女性または、女性同士という集まりがしんどいから行ったことがない。(ファシリテーターなんて役割があればいられるけど、参加者としているのは辛い。笑)

 それも一つのあり方で、そこを通して多様な世界に出会え、救われる人がいるなら、その場がある意味はあると思ってる。でも、それも一つだよねって思う。

 むしろ、子育てしている母なんて一人もいない、年齢も立場も性別も国籍もバラバラ。たまたま母である、たまたま発達障害である、たまたまLGBTである・・・えーそうだったんだと話してたまたまわかるくらいの場所がいい。そういう属性を持った人として存在している場所で、それぞれの見え方を分かち合っていくような場の方に私はエンパワーされる。

 でも、一方で直接的な情報と支援は社会資源として必要としている人もいるからその存在を否定するわけではなく、そうじゃないレアな人もいるということを伝えたい。

 全然関係ないことこそが自分への生きる支援なんだと思う。

 昨日、私が図書館で調べたり、読んだ本は、名古屋の中村区に流れる庄内用水について、飯田街道について、中島岳志の「保守と立憲」、愛知県の社会運動史・・と子育てとは全然関係ない。でも、そこから多分、人としてどう生きるか、暮らすか、どんな社会でありたいのかということを考えていて、その先に自分の目の前にある子育てとか、男女共同参画とかがあるんだと思ってる。その視野の広がりが、私への「子育ての支援」である。

 障害者だからこんな情報、病気の人はこんな情報、ママだからこんな情報って、カテゴリーして無自覚に届けられる情報にウンザリしている人も多いのではないかなぁと思う。人には、多様な世界と興味関心と暮らしがあるってことなのだ。