この前、にんげん図書館でライブ配信した後、「ヘトヘトになって疲れていたから見られなかったごめんなさい」とメッセージをもらったんだが、「それでいいんです!!!」とお返事した。
中の情報=自分の中の世界を大切にしたい時はにんげん図書館にこなかったり、参加しなくていいと思っている。
自分の中の声とか気持ちとかを置いといて、義理とか、気遣いとか、馴れ合いとかで参加されることがとても嫌なので、たくさん人が集まらなくても、むしろ自分一人になってもいいとさえ思ってる。(だって、わたしがイベントにいくのも好きじゃないし(笑)一人の時間を優先したりするので・・)
情報=自分の内と外にあるもの
わたしは「図書館」について考えたいと思われてるし、そう言ってるんだけど、「情報」についての捉え直しをしたいんだと思う。
「情報」って外の世界にあるもの、外から収集するものと思われていると思う。
情報=ITと思われてしまうようにも思う。
自分の中、自分自身も情報の塊だと思っている。
自分の生きてきた物語と、立ってる場所が、自分の価値観と言葉をつくるから、外を参照するのと、自分の中の参照がいつも同時にあると思う。
「自分の内なる声に耳をすます」とう風にも言われたりする。いきなりスピリチュアルな表現になって、敬遠する人もいる気がするが、「ヘトヘトになって疲れているな・・」と感じたら、外の情報よりも内の情報を優位にしたくて、外の情報を遮断するようにするということ。
どんな仕事をしようか、どんな風に生きていこうかと迷ったり、不安になったり、目の前の世界が霞んで見える時、自分はどうしたいか、何が嬉しくて、何が嫌いなのか、指針があるのは自分の中。自分の中の情報を見つめたくて、旅に出たり、お寺に行ったり、マインドフルネスしたりする。セルフファシリテーションという言葉で表現されているように思う。
図書館は自分の外にある情報を収集する場だけでなく、自分の中にある情報にも気づく場所ではないかと思う。
自分が思っていることというのは絶対ではなく、自分が意識している、自分が好きとか苦手という範囲を決めてしまっているだけだと思う。
自分がほしい情報を検索することから始まるのがインターネットの世界で、検索したら、アルゴリズムであなたはこれがほしいのでしょう?と、インターネットは親切にも教えてくれる。そうするとますます自分の世界は狭くなる。
わたしが図書館に行く時、「今日はこれについて調べよう、本を探そう」と思っていくんだけど、返却された本が並ぶ棚、自分がほしい本が並んでる本の隣にあった本、テーマ展示と自分が意図しないところから、自分の心の中が楽しくなる。
違う世界が見える本に出会っていつも帰る。
本を読んで著者と対話することで、外から自分の心の中が照らされることもあり、外の情報を取りに行きながら、実は自分の中を参照する場が図書館なのではないかと思う。
これからの時代は情報を取捨選択できる力が大事!という違和感
情報を取捨選択する、上手に探すためのスキルが、メディアリテラシーなのか?そうなの?
人より早く、正確に探す、そういう競争原理の中にあるものなのか。
溢れる情報の中で、「根拠のある正しいことを見極めるための情報探索スキルが必要」という言い方を良く聞くけど、ほんとにそうなのかなぁと思う。
自分の中にフォーカスするスキルもリテラシーなのではないかと思う。むしろ自分の外に情報はたくさんあるのに、自分の中のことが見えなくて迷子という人も多いような気がする。カリスマ性がある人、強い表現に心酔してしまうのではないかと思う。
情報とは「自分の内と外にあるもの」と再定義したい。
外にある情報を取り込みながら、自分の中にある情報と掛け合わせて精製して、歩いていく。それが生きることにあるリテラシー。そうやって生きる過程=幸福ってことかもしれない・・・・・と、腑に落ちた。
そして、情報を社会の中でデザインしていくプロフェッショナルがライブラリアンならば、外の情報だけでなく、自分の中の情報も大切にしてほしいと思うなぁ。