「情報」の意味 参照する先は外・インターネットの中だけではない。

 この前、にんげん図書館でライブ配信した後、「ヘトヘトになって疲れていたから見られなかったごめんなさい」とメッセージをもらったんだが、「それでいいんです!!!」とお返事した。

中の情報=自分の中の世界を大切にしたい時はにんげん図書館にこなかったり、参加しなくていいと思っている。

 

自分の中の声とか気持ちとかを置いといて、義理とか、気遣いとか、馴れ合いとかで参加されることがとても嫌なので、たくさん人が集まらなくても、むしろ自分一人になってもいいとさえ思ってる。(だって、わたしがイベントにいくのも好きじゃないし(笑)一人の時間を優先したりするので・・)

情報=自分の内と外にあるもの

 

 わたしは「図書館」について考えたいと思われてるし、そう言ってるんだけど、「情報」についての捉え直しをしたいんだと思う。

「情報」って外の世界にあるもの、外から収集するものと思われていると思う。

 情報=ITと思われてしまうようにも思う。

 

 自分の中、自分自身も情報の塊だと思っている。

 自分の生きてきた物語と、立ってる場所が、自分の価値観と言葉をつくるから、外を参照するのと、自分の中の参照がいつも同時にあると思う。

 

 「自分の内なる声に耳をすます」とう風にも言われたりする。いきなりスピリチュアルな表現になって、敬遠する人もいる気がするが、「ヘトヘトになって疲れているな・・」と感じたら、外の情報よりも内の情報を優位にしたくて、外の情報を遮断するようにするということ。

 どんな仕事をしようか、どんな風に生きていこうかと迷ったり、不安になったり、目の前の世界が霞んで見える時、自分はどうしたいか、何が嬉しくて、何が嫌いなのか、指針があるのは自分の中。自分の中の情報を見つめたくて、旅に出たり、お寺に行ったり、マインドフルネスしたりする。セルフファシリテーションという言葉で表現されているように思う。

 

 図書館は自分の外にある情報を収集する場だけでなく、自分の中にある情報にも気づく場所ではないかと思う。

 自分が思っていることというのは絶対ではなく、自分が意識している、自分が好きとか苦手という範囲を決めてしまっているだけだと思う。

 自分がほしい情報を検索することから始まるのがインターネットの世界で、検索したら、アルゴリズムであなたはこれがほしいのでしょう?と、インターネットは親切にも教えてくれる。そうするとますます自分の世界は狭くなる。

 

わたしが図書館に行く時、「今日はこれについて調べよう、本を探そう」と思っていくんだけど、返却された本が並ぶ棚、自分がほしい本が並んでる本の隣にあった本、テーマ展示と自分が意図しないところから、自分の心の中が楽しくなる。

違う世界が見える本に出会っていつも帰る。

本を読んで著者と対話することで、外から自分の心の中が照らされることもあり、外の情報を取りに行きながら、実は自分の中を参照する場が図書館なのではないかと思う。

 

これからの時代は情報を取捨選択できる力が大事!という違和感

 

情報を取捨選択する、上手に探すためのスキルが、メディアリテラシーなのか?そうなの?

 

人より早く、正確に探す、そういう競争原理の中にあるものなのか。

溢れる情報の中で、「根拠のある正しいことを見極めるための情報探索スキルが必要」という言い方を良く聞くけど、ほんとにそうなのかなぁと思う。

 

自分の中にフォーカスするスキルもリテラシーなのではないかと思う。むしろ自分の外に情報はたくさんあるのに、自分の中のことが見えなくて迷子という人も多いような気がする。カリスマ性がある人、強い表現に心酔してしまうのではないかと思う。

 

情報とは「自分の内と外にあるもの」と再定義したい。

外にある情報を取り込みながら、自分の中にある情報と掛け合わせて精製して、歩いていく。それが生きることにあるリテラシー。そうやって生きる過程=幸福ってことかもしれない・・・・・と、腑に落ちた。

 

そして、情報を社会の中でデザインしていくプロフェッショナルがライブラリアンならば、外の情報だけでなく、自分の中の情報も大切にしてほしいと思うなぁ。

 

 

縦軸と横軸のコミュニティ

配信後のお茶で、いろいろ話していて、「長野のひーさんが」「くれないのさっちゃん」とかそれぞれの地域に素敵な人がいるんですよ!って話になる。
 
そこにいた私も含めた図書館クラスター4人ほどは「あーひーさんね」ってなってる横で、「ひーさんとは?」となる非図書館クラスターの人に、「ひーさんとはですね県立長野図書館の館長さんなんです・・」と、私は、通訳をする。笑
 
ICTやAIですごい社会がやってくる、なんでもできちゃう気がするのは錯覚で、結局は村の中の「どこどこの誰々さんが、あそこのせがれが」みたいな形で人的資源は共有される。
村の外の人と出会い行き来が生まれる。大昔と同じことが人と人が出会う場では展開されているんじゃないかと思う。
 
動画配信のときの打ち合わせで、嶋田さんとのお話で出てきた、横軸と縦軸のコミュニティが交差する場所だったなだと思った。
 
縦軸が同じ領域内クラスターである図書館・またはその界隈同士(クラスターって前から使っていたけど、急に別の意味の流行語になり使いずらい・・笑)のつながりと、横軸は、地域という範囲で見たつながり。
 
縦軸にあるクラスター(まちづくり、福祉、NPO、行政職員・・など)と縦軸のクラスターが出会うと楽しいな・・と話していた。
 
それもただ、出会う、異業種交流会のようにただ名刺交換するつながりは薄っぺらい。
 
一緒に場や機会やプロジェクトや配信をつくって議論して、対話して、あははと笑ってつながるってことなのだわ・・
 

シンクタンクとDOタンク ライブ配信の裏側

3月8日のイベントの延期からライブ配信ができるまで 

3月8日に「図書館・まち育て・デモクラシー」の著者、嶋田学さんと、美濃加茂市でサスティナブルな地域づくりに取り組む加藤慎康さんをお招きしてのトークセッションを企画していたのに、新型コロナウイルス感染予防から延期。

か・な・り気合を入れて準備していて、楽しみにもしていたので、がっくりする。

でも同時に、やめてしまうのはなんかもったいない・・中止になったからこその状況を楽しみたいと思った。「ライブ配信やれないかな・・」とフェイスブックで呟いたら、「ライブ配信スタジオがあるよ!」と連絡をくれた人がいた(!)金山のライブ配信スペースCONASERUさん。

その週にすぐに見学に行き、すごい設備に目からウロコが落ちる。

そして、ゲストのお二人が会場に来てくださることにもなり、これはやれるね?!となる。当初イベント運営に協力してもらう予定だった人たちと配信チームを組んで配信することになった。

 

そもそも私もゲストもメンバーもライブ配信をしたことがない。

未経験でイメージがぼんやりしているため、ゲストへのオーダーもぼんやりしてしまうところもあり、当日やってみよう!というノリで迎えた。

届ける情報の範囲、量、質とか見せ方とか作る側になってみて、考えることができる。番組の構成や広報の仕方まで的確にアドバイスをいただけたことでできたわ・・。素人がゼロから全てやるとしたら、こんな風にはできない・・。

NHKの情報番組でどんな風に喋ってるんだろう・・などと、テレビを自分ごとにして見るようになり、夢の中にライブ配信という言葉が出てくる日々を過ごして、迎えた当日。


ライブ配信が始まる本番1時間前

嶋田さんとは遠隔でやりとりをしてきて、しかも初めてお会いした。嶋田さん、しんやすさんと顔を合わせて、改めて本日のテーマについてお話。


その横で技術面での準備を着々と・・・

こっちのカメラ見てね〜
裏方さんからの指示はここから出るでね〜
このボタンで画面切り替え操作してね〜
ここでスライドゥ出してね〜あっという間に本番2分前。


直前に友人からのラインやりとり「ねぇねぇ、ここ見たら配信見られるの??」「そーだよ〜よろしく!」などと答え、意外と余裕(笑)

そして、スタート〜!最初は緊張したが、ちゃんと台本考えておいたのと、先週お試し動画撮っておいたのがよかったのか、あっという間に楽しく過ごせた2時間でした〜!

終了後、裏方さん・ゲストのみんなで、おやつの打ち上げも心地よい。

語りきれないことの申し訳なさ

配信の途中、裏方さんから「そろそろ終わって、まとめにください」「視聴者コメントにうつってください」「ペンカチカチすると聞こえるよ」と、ホワイトボードで、的確な指示が飛ぶ。テレビ番組のようだ!


しかしその場その場の判断とか、私が他に気を取られ、語りきれないところとか、拾えないことが出てきてしまう。

「もっとあの話拾うところだった、ああやって返したらよかったな、コメント紹介で拾っていない声をもうちょっと見たかったーーーごめんよーーー」と帰宅してから寝る前まで、振り返りが駆け巡る。

生放送とデレビ番組の限界だし、だからリアルが必要となるのだなと思う。

「情報」と「図書館」の姿については語りきれずに終わってしまったかな。地域社会からの視点、図書館からの視点での議論、もっともっと深めたいことがたくさんあった。 

地域のメディアをつくる=「出番と役割」の機会

対話の場はリアルだろ!って考えるタイプで、全く動画配信というものに興味がなかったのだが、新しい世界が見えた!

動画配信というと、ものすごい話の上手な人が一芸でユーチューバーになるみたいな印象がある。私は、リアルな場を持っており、そこで生まれる小さな物語を大切にしたいと思ってきたので、自分がお守りをするコンテンツが1つ増えるようなことの費用(自分の時間的コスト)対効果とか考えたら、動画配信は興味ないなーーーと、思っていた。

 

しかし、苦手なところはプロにお任せしでき、画面も見やすく、双方向にもなんとなくだができるというこの方法、CONASRUでまたやりたいな!と思えた。

 

「出番と役割」「関わりしろ」「協働」のための仕掛けを考えた時、配信をつくるという仕掛けがとってもよいという気づきが大きな収穫。


みんなが子どものようになり、失敗も暖かく受け止める。
何を伝えたいのかを対話をする。

それぞれの持ち味も出て、あー楽しかったと、最後におやつ食べて終わる。

 

図書館の人も行政職員も個として場を共にする草の根的な活動を通して、よりよい方向へ変わる環境や関係をコツコツ育てるというのが私の立つところなんだが、このコンテンツで、今度はあの人とこの人を呼んで、また違うチームでやりたいな・・と既に妄想。。私はやっぱ、そうした場をコーディネートするライブラリアンなんですね。

 

帰宅すると、配信をチラ見していた夫モリソンが(興味ないと思っていたけど見ていたんか!!)、「いい社会資源見つけた」「あれでバックオフィスの講座できるな」「どうやってお金集めたらいいんだろ」「お値段はおいくら?」と、ブツブツ言っている。

視聴した人がなんかやってみたいことが浮かぶのがCONASERUの力だと思った。

地域の人がつくるメディアとして、図書館にライブ配信スペースつくるところ現れないかな・・・・

 

嶋田さん、しんやすさん、強力すぎるスタッフのみなさん(プロのイベント屋さんですか?という布陣)とCONASERUさん、ほんとにありがとうございました!

 

主語を自分にして言葉にする

 私が、20代からずっと生きてきたフィールドは市民活動やNPOやソーシャルセクター。自分がやりたいこと、感じていること、これが大事かもっていう哲学を自然に口にする場。自分の考えを言わないと、「自分(自団体)にとって不都合になる!」「自分でイニシアチブ取らないと、自分が大変になる!」という現場で、生き延びるために、自分で考え、話してきたと思う。それが私の日常。

 4年前に子どもを産んで、子どもが保育園に入り、保育園の父母の会という世間に出会って、自分が関わってきた世界は特殊だったのか・・と思わされることが多い。

父母の会をこんな場にしたい、この企画はこういう思いで企画した・・と、今年は、父母の会会長だからいろいろな場面で話す。

 そのようにコンセプトを伝えることはとても大事だと思う。

 市民活動と同じ、当たり前のように話していた。

 市民活動の現場なら「そうそう思う」「そうだよね・・私はこんなことしたいなと思う」と、こちらが投げたことに対して、自分の考えを話す人がたくさんいる。

 

 保育園では「わたし」を主語にしてどう思うかを言わない保護者が多い、うんもすんもなく、のっぺりしてるんだよなぁと思う。

 あ、そうかやはりわたしはここでは「変態」なんだったわ・・と思う。笑

 

その場が安心・安全に話していい場ではないということかもしれない。

また、思ったことがあってもそこで言うことに価値を感じないということかも。

意識が高い、意識が低いと姿だけで判断したいわけではない。

 「わたし」が感じていることと「あなた」が感じていることは違う。

 言葉にするのは、新しい対話を生み出すことになるし、自分にとって、他人にとっても意味があることだと思う。いい対話はそこにいる人の言葉でつくられていく。どんな言葉も大事な言葉、持ちよって成熟していくもの。多分、そう捉えてないということ。

言わないのか言えないのか、言う必要がないのか。どれなのかわからない。

送り迎えするだけの場所ならそんな必要もないよねということなのだが。

ある程度、自分の意思の元で集まった場でも「わたし」で話さないというのは、やはり全くの自由意志で集う、サードプレイスであるNPOとは違うんだろなぁ。

「言葉にする」というのも経験。思っていることを言葉にする経験をしていないと、できなくなってしまう。それができない、求められてこなかったという人が多いのかもしれない。それで人生の迷子や子育ての迷子になることもあると思うなぁ・・。

生きづらい明治社会

読みました。「生きづらい明治社会」松沢裕作 岩波ジュニア新書

あとがきの言葉がとてもよかった。
PISAの調査で、子どもの読解力が下がって、日本社会はおろおろしていた。どこかの国に負けるんじゃないかとか、国の競争力が下がるとか、そんなことしか考えてないように見える。本来、その読解力、言葉は誰のためでもなく自分を助けるためにあるものだなと、このあとがきを読んで思った。

・・・・・自分はそれなりにやかんとして人の役立つことによって幸せに暮らしていたのだが、ある日突然やかんの持ち主によって、電気ケトルを買ったので、お前はもういらないと言われるとか、水ではなくて爆薬を詰められて誰かに投げつけられたりするというようなことが起こらないとも限らないと思うと、ずっとやかんでいいのだろうか?という不安にかられたりするというようなことです。
・・・中略・・・
言葉を使って何かを伝えるということは、その内容を自分ではない誰かと共有するということです。歴史学とは、過去の誰かがおこなった何かについて、誰かが書き残した言葉を読み、それを現在の言葉によって現在の人々に伝えるということです。遠い過去の人たちもまた、ときに世の中のわけのわからなさの前におろおろしています。それを現在なお、わけのわからない世の中でおろおろしている人々の元に届けることは、世の中の複雑さ、わけのわからなさに立ち向かうときに、私たちが発することのできる言葉や理屈を豊かにすることにつながるのではないでしょうか。

 

明治時代をポジティブにとらえる歴史観

明治時代になると日本は近代化の道を歩み始めた、鹿鳴館ができた、欧米からの産業や文化が入ってきた・・明治の世の表現は明るいものばかりだった。でも、それは作為ある歴史観だった、自分はその中で、教育されてきたんだと気がついたのは、ここ数年。多分、網野善彦さん系の本とか?パオロマッツアリアーノの本とか?で知ったような気がする。

日本人が「伝統」と思っていることはだいたい明治の頃からなんだとわかった。それより以前は言葉も文化もバラバラに存在していた。それを一つにしようとした、多様性を排除したとも言える。
富や権力を持つ、体制側からの見方だったんだね・・
幕末の志士とか、明治政府の偉人をリスペクトしている経済人を見るとやっぱりそっち側、強者側なのかぁと思う。

 

クーデータによってできた明治政府にはお金がなく「小さな政府」


お金がないから「小さな政府」になる。その後、政府にお金が入るようになっても、それを再分配には回さず、軍備増強に回していた。
「通俗道徳」の檻の中に人々はいて、これは私の「努力が足りないから」だと思わされてきた。この通俗道徳は、歴史学者安丸良夫さんによると、江戸時代後期、市場経済が広がり、貧富の差が激しくなって行った時に、人々の規範を律するための基準として生まれたということ。
そこから始まっていたのかーーーーと、思った。

貧困やニート、非正規雇用の人、働けない人などに対して、「個人の頑張りがないから」個人の努力次第でなんとでもなると、できないのは怠けているから、我慢が足りないから。
生活保護バッシングとか、引きこもりの人を無理やり引っ張り出すことが行われていることとか。
新自由主義の現代の特徴なのかと思っていたらそうではなく、もっと長い歴史(長いといっても100年くらい)の中で生まれたものだった。

明治の世と人々が置かれている世界は同じではないか・・。

結婚をめぐる問い

読みました。「結婚」橋本治
橋本治さんを認識したのって、30代に入ってからで、「桃尻娘」の衝撃的なデビューとかを知らない世代で、「わからないという方法」が最初に読んだ本だったかなぁ。キャッキャッしてる女子、現代の結婚や婚活が描かれているこんな小説も書くんだって思った!その時々の社会の状況を見て変化し続け書ける多彩な人だったのだなぁと思った。もう新しい世界が描かれることはないのですね・・
 恋愛・結婚=競争・序列の世界

この本の主人公は、〝早く結婚しないといけない〟という思いにとりつかれて焦るけど、その結婚は一向に近づかない倫子、28歳。倫子は、結婚というゴールに到達するためには、必要な条件があり、条件に合う人を探す・見つける・結婚式をするのが「結婚」と倫子は思っている?思わされている?でもそうなのか?とも思ったりしている。就職活動はうまくいったけど、結婚はうまくいかない。何言ってるの?という周りの友達は、あっさり結婚していく。 

 

わたしは、結婚するとか、できるとか、誰かと付き合うとか、そういうことを考えることは、自分の人生の中にはないんだろうなーと、20代までは、思っていた。
恋愛は、こうしたら可愛く見えるという受け答えとか振る舞いが自然にできちゃうような人たちができるものだと思っていた。自分のような他愛のない世間話も、意味のない会話もできないし、何が面白いかわからないことで手をたたいて笑ったりもできない人には関わらない世界。連れていかれた合コンの2時間は、ひたすら評価の眼差しにさらされるのが辛い。目の前の人が自分のことを置物のように思っているということを感じながら、気まずい時間を過ごす。
 
「競争」のように見え、そこに入れないし、入りたいとも思わない・・。条件のいい人(背が高いとか、収入とか、シュッとした感じとか)をお買い物するかのような・・。
この本にも、私にとっては違和感しかない世界が描かれているが、これが恋愛で結婚。レースを勝ち抜くように「結婚」を手にいれる。異性愛者の女性はみんな、シュッとした爽やかな男性が好きなわけではないのに、明らかにこういう人がいい人という基準があり、その条件の中でしか人を判断しないというえげつなさ・・。
私はシュッとした、爽やかな男の人は寒気がするほど苦手・・みんながイケメンという人が本当に苦手。(かっこよすぎて恥ずかしいとかではなくて、生理的に無理!という感じ)
そうした多様な価値基準はない世界が恋愛・結婚の世界と思ってた。逆にそういう基準に乗っからないわたしも恋愛の世界に行く人ではないと思っていた。そんな観念があるようにも思う「恋愛」と「結婚」。その枠組みを外したら楽になれるのだと実体験としてわかったけど、それが結婚なんだとみんな思って、その中で、うまく進んで行く人も、はじかれる人もいる。
「結婚」とはこうあるものの中で倫子は彷徨う。
結婚って何?と言っている間に周りが結婚する 
結婚しよう!
でも、結婚って何?と倫子は考え始める。
私も32歳の時に「結婚」ってなんでするんだろ?と思ったわ・・。それを聞いても、中二病的な問いのように受け止められるだけだった。どうして結婚するのか?は考えず、最初から結婚するもんだと思って結婚していくものかもしれない。
私の場合は、結婚するなんて想定にはなかったため、自分のライフデザインもかっちり決めてなかったから(何才までに子どもをうむ!とか)、30代過ぎても大して焦りもしなかった。気負わなくてもいい、シュッとしてもいないモリソン知り合い、暮らして1年半が経ち、「結婚」しんの?という周り(親)の見えないプレッシャーみたいなのを感じたり、結婚してしまった方が親戚縁者や親はわかりやすいのだろうなと思った。
でも、一緒に暮らしていたら、もはや結婚しているようなものである。結婚がしたいわけではなかったため、わざわざ「結婚」という手間のかかる手続きをこの日にやるってのはなんだろう?結婚とは「家と家の結びつき」なんていう考え方ではない。わざわざ「結婚」をどうしてするんだろう。
結婚そのものをめぐる問いは世の中にはない。
どうやってみなさん結婚することを決めるんだろねって素直な問いに、なんでだろうねと答える人よりも、「あかねちゃんは結婚したいのね」と、マリッジブルー的な悩みを抱えていると思う人ばかりで、そうじゃないんだってば!と思った。
 
倫子や私のようななんで結婚するの?って考えないでも結婚はできてしまうものなのかもね。
倫子は最後の最後に、「結婚」と「人生」を別々に考えていた!!ということがわかり、自分の悩みが氷解する・・
そうか人生か!と思った倫子は、今度は、自分探しという方向に向かうのかと思わせて終わった。結婚も自分も、どこかにあるものではないのかもねぇと倫子を見て思った。
 
異性愛での「結婚」がテーマで、倫子の結婚しないといけないという思いの発端は35歳を超えると卵子が老化するという事実を知ってのこと。パートナーの子どもを出産するという想定でのことだったんだが、ここに同性愛者である主人公が描かれたら、どうだったかなぁと思った。
「結婚」 橋本治 
https://www.amazon.co.jp/結婚-橋本-治/dp/4087715663

世の中のテンプレートを疑う

とーちゃん会・かーちゃん会の違和感

保育園の世界では、とーちゃん会とか、かーちゃん会という風に、お父さん同士・お母さん同士で飲み会をセッティングし、そこから関係性を深めていくという方法をとるということが、一つの方法として脈々と続いてきたということを、子どもが保育園に入って知った。え、なんかそれって、違和感がある。

かーちゃん会をセッティングする。ママは子どもをパパに預けて、クラスのママと交流する。パパがいないところで、「ったくうちのパパは・・」などと話して、笑って楽しく過ごす。

とーちゃん会をセッティングする。日頃なかなか話さないパパ同士、男同士の話をする。家庭内で肩身が狭かったりするパパ同士肩を組む・・・。

というような画を、設定する保育園の先生たちは描いていると先生と話して感じる。受け止める保護者の方もそんな画を想像する。

それって性別役割分担が前提(例えば、夫は家事をやらないとか、夫は家事ができない、ママのがしっかりできる・・というような愚痴をママは言いたいであろう)が元になっている。

そうしたコミュニケーションでつながりたいとも、積極的に行きたい気もわかないんですけど・・。

私は、その人がどんな風にはたらき、日々どんな風に暮らしているか、何が好きかという物語に触れる、違う顔が垣間見えるような話が好きだから、そこに男女は関係がない。戦略として、「飲み会」を企画すると、現在の日本ではお母さんしか出てこない、だからとーちゃん会をやるという意図してやるというのもわかるが、男女共同参画とか志向している人たちがおかしさに無自覚でいいの?!

 

前提にあることを問うと引かれるのね・・

たまたま、割と仲良くなった保育園の保護者さんと、その話をしていて、とーちゃん会・かーちゃん会と分けることの違和感を話したら、「え?なにがだめなの」って伝わらない感じがした。

ジェンダー的にわたしは好きじゃない」って話したら、「ジェンダー」とかそういう意識高い系なことを言うのはまだ早いと思うよ・・とやんわり言われ、いやいや、遅いとか早いとかあるのか?

 

何かイベントや企画をするときにはターゲット、市場に合わせていくことも必要だけど、たとえ市場では、「とーちゃん会」として、実施することが一般的でも、今ある前提のおかしさを受け入れていていいの?「ジェンダー」を叫ぶ人はこうやって疎まれるのかと思った。

 

偏見という檻から自由にしてくれる=批評

わたしはこんな風に、テレビを見ても、新聞を読んでも、本を読んでも、人間関係や巷の何気ない会話の中に、「ジェンダーもやもや」なことにたくさん出会い、日々怒ったりしている。

そうした事象に飲み込まれるのではなく、客観的に捉えるのが「批評」ということだったのかーーーと、北村紗衣さんの「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」を読んで、わかった。

「批評」って、難しく難癖つけることみたいに世間では捉えられているようにも思っていた。きちんと見る方法が確立されているのが批評理論。

あとがきの、「私たちはフツーに生きているだけでいろいろな偏見を身につけてしまって、檻に入ったような状態になっています。」「私を檻から出してくれたのは文学とフェミニズムでした」という言葉に共感し、批評というツールを持って、世界の中で立つことができるのかとわかった。

38年も生きてきたのに、そんなことも知らなかったなんてーー。

自分には受け入れがたいこと、自分が好きではないもの、嫌な感情にであっても、それがどうしてなのか。

批評という方法を自分のものにすれば、見え方も変わるかもしれないと思う。

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」北村紗衣

書肆侃侃房

https://www.amazon.co.jp/お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門-北村紗衣/dp/4863853653