夫は家事ができない説の違和感

いつもモヤモヤと思っていることを年が変わる前に書いておこう!

 

夫は家事ができない・・説の違和感

よく、夫・モリソンとモヤモヤしているのが、テレビや雑誌の「夫がいかに家事・育児をしないか」「ぐうたら夫は困る」「夫に家事をやってもらうとパフォーマンスが低くて困る」というような愚痴を言い、妻を慰めるような番組。

我が家の構図は逆である。

私は、家事ができないぐうたら妻。

正直にいうと、

ポケットにいつも何か入っていて、洗濯するときに困る・・!とモリソンに注意される。

脱ぎっぱなしになったパジャマが塚になっており、それを「茜塚」とモリソンは呼んでいるんだが、これ洗うの?と聞かれる・・。

冷蔵庫の中で置く場所が決まっていて、封を開けたヨーグルトを所定の場所と違うところに置くと注意される・・・。

私:「うるさいな〜」

モリソン:「だって細かい性格なんだもん」

毎日そんな会話が繰り返される。

だから、そうした番組に共感できるのは夫モリソンだと思う。

そして、妻側である私には、「家事ができなければいけない」と伝えるものでもあると思う。

「夫は家事をする能力がない」という前提に立っていると思うけど、「男は生まれながらにして家事ができない生き物」というわけではないと思う。夫のようにバックオフィスに適性がある男性なんていくらでもいますよね。(会社でそのような職種の男性は家庭内のバックオフィスにも適性はあると思うが)それが長時間労働で「できない」のと、男は「家事なんてやらなくていい」という家事を低く捉えている社会の価値観や教育によって、「男は家事ができない生き物」になっているだけだと思う。

 

妻の負担が重くなる家事・育児についての不満・愚痴を言っているという状況を批判しているんじゃなくて、「ほーら結局、こうした仕事は妻しかできないのよ」と状況を女性自ら是認しているんじゃないんですかーーーーー!!!!と、私は見るたびにモヤモヤと怒りが湧いてくる。

 

人が意識しないところにあるすりこみ

今時「男女不平等な社会」であることは誰も望まないと思うけど、実際の世の中には、「男・女はこうあるべき」という、たくさんの刷り込みがあると思う。

 

家事をする夫の象徴的な姿として、「手の込んだ料理を作れること」というのがある。そんでもって、また雑誌やテレビでは、「たまにカレーを8時間煮込んでつくるのに片付けをしないー!」と、ネタにされている。いやいや、「家事」のうち料理はフロントオフィスで、それは一部ですよね・・。

 

私たち夫婦は「性別役割分担」ではなく、「性格役割分担」という方針をとっている。夫は料理、渉外、調整などの「フロントオフィス系」家事は得意ではないため、「バックオフィス系」家事の全てを担当している。洗濯、掃除、備品購入、食器洗いのマネージメント。夫が主担当ということなので、業務を切り出してできることは私も手伝う。

私は仕事でも調整業務が得意で、家庭内でも、フロントオフィスが得意。

料理と子育てに関すること(子どものこと、保育園、病院、検診などの対応)担当。

一見フロントオフィスは目立つから価値があると思われがちな気がするが、

すべての家事が欠けても生活は成り立たないから、そこに優劣はないと思う。

 

こうした状況を人に話しても、「実際には茜さん(妻)がやってるんでしょ?」と見られたり、「茜さんがやらなさすぎ!」と、言われる。(なんで私がやらなすぎってアンタに言われなきゃいけないんだーーーー!!とまた、もやもやする) 

バックオフィス系家事というのはどんなにやっても褒めてもらえないんだなぁ・・とモリソンはぼやいている。それがうちの日々の現状。

 

でも、巷の子育てママとの会話で、「家事をやらない夫の愚痴」をいうことの方が共感されやすい。うちのように、夫が家事はやっているということは言いにくい。

子どもが何人もいて、夫の帰りは遅くて・・本当に大変な状況の人はたくさんいる。

そんな人の前で、うちのようなパートナーシップを語ることよりも同じように大変な状況を分かち合う方がその場には望まれている・・と感じてしまう。

 

それもこれも、妻が家事をやり、夫は稼ぎを担当する・・という役割。

稼いでいる夫がえらい、妻が担うバックオフィス系家事〝なんて〟と家事を低く見てきたこれまでの経緯がつくってきたものなんだと思う。

 

上から目線のパートナーシップ?

では、本当はどんなあり方だとよいのか。

〝あるべき姿が、妻は家事・育児。夫は稼ぎ。

イレギュラーな姿が、妻が家事をしない・妻が稼ぐ、夫が家事をする。〟

そうではなく、協働を考える上で、それぞれの強み・弱み・やりたいこと・希望を生かして、そのカップルなりの分担で考える。

それが前提の世の中だったらいいのに・・と思う。

建前、理想として語られることはあっても、個々人の意識レベルになると全然そうではない。

 

産後のパートナーシップについて本やインターネットの記事を見ていて、「夫をいかに育てるか」「妻にいかに協力するか・・」と、なんだか上から目線だなぁ・・と感じることがある。でも、そういわざるを得ない現状というものがその人の視点に立てばあると思う。

諸々の事情で「夫が家事・育児を担えない・能力がない」というのが現状把握としてあるならば、「育てる」というところからスタートしないといけないというのは分かる。

でも、パートナーシップはお互いがフラットであるということが大事だと思っていて、夫には家事ができないという弱みがあるとすれば、同時に自分にも弱みがある。

その上で、どうするのか・・と発想しないと、結局は「妻が家事・育児をやる」という前提は変わらないままなのではないかと思う。

 

フェミニズム=女のためのものではない。

私やモリソンが感じる「もやもや」は何だったのか?

フェミニズム」という考え方を二人とも持っているからなんだと気付いた。

先日、ジェンダーもやもや会で、大学でジェンダーを研究してきたというKちゃんに教えてもらったことだ。

フェミニズム=女のためのもの。女の権利「だけ」を主張していくことだと思っていた。

家事を担う夫・モリソンのモヤモヤがなくなることもフェミニズムなんだと思った。

 

女性「だけ」の権利を主張するだけでは、対立構造になるし、女性だけの問題と片付けられてしまうと感じていた。男も女も「あるべき姿」から自由になって生きていく、それができる世の中を志向すること。それがフェミニズム

 

最初に結婚するときに「私は稼ぎは7割、家事は3割」「ぼくは稼ぎは3割、家事は7割」なんて、お互いにシェアして結婚できたらいいんだけど。。そのあたり言葉では語られず「相手はこうだろう」と、お互いに思っているような気がする。

 

今時の男性は「家事には協力しません」なんて、言い切る人はあんまりいないけど、

根底の価値観は「家事はやるけど、妻が得意なはず」とか「子どもができたら家庭に入ってほしい」と、今でも思っている人は多いのではないか・・?

「男・女はこうあるべき」は家庭や学校教育の中で形成されると思うから、そこが変わらないといけないんだろうなぁと思う。

 

雇用の形が社会をつくり、個人の意識もつくってる?

世帯を維持するための、収入を妻・夫でどちらがどれだけ担うのか。
世帯を維持するために発生するタスクをどちらがどれだけ担うのか。

それをフラットに二人で考えることができたらいい。

 

それができるフレキシブルな働き方ができることと、性別による賃金差がなくならないとできないと思う。夫にも家事・育児を役割をになってほしい!という声は高まっているけど、実際にやれるのか?

 毎日夜の8時、9時に帰ってくる・・というような状況で。

 妻の方が稼げそうだ・・では、妻が稼ぎ、夫が家事という風にしよう・・

 でも、そうすると世帯収入が減ってしまう。

 

夫の意識の低さの問題であると捉えられがちなんだけど(そうした夫を妻が育てるものだ・・)という意見からも感じるように、そうではなく、社会構造がつくっていること。妻が家事・育児、夫が稼ぎという前提に会社組織が成り立っている。それが一番の問題。

とにかく、我が家みたいな役割分担のあり方が特異なことではなくて、普通に語られることになるといいなぁと思う。