子育てと中動態

あやとりがブームなさとちん、朝、4段ばしごを本を見て、私が教えながら挑戦。
「やったーできたーーーー!」
じゃあ、もう一回やってみる・・。
うーん、うまくいかない、もう一回やってみる、あれ?!
あやとりの紐を扱うのは難しい。そして、私に八つ当たり。
「あやとりがうまくできなくて、ほいくえんにいく準備が遅くなった」から、「今日は保育園に行きたくない」と、メンタル下がりまくって、ゴネゴネ・・。
今日は事務作業しないといけないことがあるから休めないんだよね、ごめんね。
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行きたくない、ゴネゴネで膠着し、あれこれ話す。
「ぎゅうにゅうをお膝で1とか2とかで飲もっか」
(朝、飲み物を飲むとき、「何回飲む?」「じゃあ、10回飲もうか」「やだ、じゃあ、1回飲んで」「はい1回飲んだ」「もう1回飲もうか」「はーい」ってやりとりをいつもしている)
「どの服着るか選ぼうか」
「じゃあ、タクシーで行こうか」
「タクシーでまなちゃん(仲良しのお友達・前に雨の日にタクシーで一緒に行った)と行きたい」
「靴下はマイメロちゃんが履きたい」
ゴネゴネしながら、自分で選ぶこと(行為)をちょっとずつしていくうちに、「行きたくないけど、行ってもいいか」という気分(意志)に変わる。自転車乗るときには、近所のおじいちゃんにご機嫌に「おはよう〜」と、言って出発できた。
「早く帰るから、ドーナツ買いに行こうね」と、約束し、帰りにドーナツ買いに行った。
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「中動態」だなぁと思う。
親、教育者は、学習者や子どもが自分の「意志」で決めないといけない、主体的に導かないと
いけないって「意志」を持たねばならない幻想をもっている。
そこから自由になることで、もっと自由に生きられるということを國分さんの本に書いてあったことを思い出す。
 
 
P121「一つの行為は実に多くの要因のもとにあります。
それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。けれどもどうしても私たちは自分の行為を、自分の意志によって一言的に決定されたものと考えてしまいます。」
P125「純粋な自発性としての意志など存在しえないという、ちょっと考えればわかることですら共有されません。
このように意志なるものを信じて疑わない現代社会を見ていると、何か私は信仰のようなものを感じます。」