子育て備忘録:子どもの遊びや学びの成果はちゃんとしてなくていい。

雨のお休み。
さとちん、何してあそぼっか。
この前やったように、段ボールを切って絵の具で塗る遊びをしよっか。
わーい、この前やったから準備も自分でやる。
 
 子どものためにあれこれ用意しなくてもいい。
いつも同じこと、シンプルなことをひたすら繰り返して遊ぶことに試行錯誤や発見があると思っていて、子どものためにあれこれ準備しなくていいと思っている。でも、「段ボール工作」というと、そのためのキットは販売されているし、大人は、凝ったダンボールで何か具体的な形(自販機とかケーキとかロボットとか)を子どもに作ってあげたくなる。そんな素敵なものを検索して探そうとする人もいるかもしれない。張り切って、「お母さん・お父さんが作ってあげる!」なんて言わない方がいい。ちょこっとスイッチを押す、方法を教える(段ボール遊びなら、段ボールを小さく切って色を塗るというやり方)アイディアを少し出すという関わりは少しはする(でもそれも余計な関わりであることもある)そこから、「これ作ろう、あれ作ろう」って思いつくものだと思う。
 
でも、そのとき、子どもが作るものは、大人が思い描くような具体的な形(ロボットとか自販機とか)とは違って、映えるものでもないし、見てくれはよくないし、ちゃんと動かなかったりする。もうちょっとこうしたら、上手に動くのになーとか思えるものかもしれない。子どもは大人の想像を遥かに超える。大人が思いつくものなんて、誰かが思いつく具体的な形で大したことがない。
 
大人と子どもの視点の違いってなんだろう。
大人は成果を描き、子どもはプロセスを楽しんでいて、視点が違う。
「大人にとって素敵なもの=子どもが喜ぶ、求めるもの」って思いがちだよなぁと思う。
 例えば、「段ボールで子どもと一緒にロボット作りました〜」「わーかわいい!!こういう遊びいいよね」なんてコメントがくる成果は、わかりやすい。
「そんな簡単にかわいいロボット、作るかー!」と思う。
「子どものためにいいことしている」と見られたい・見られなくてはいけないという他者評価を気にしているというのもあるのではないかと思う。
 
大人が子どものために段ボールでかわいいロボットをつくろうとしているとき、目の前の子どもは見えていないで、子どもは置き去りになる。全部大人がつくったかわいくて素敵なロボットってことはあるのではないだろうか。
 
なので、私は私で、段ボール塗り塗り作業をしていると、さとちんは、ダンボールで「おうち」のようなものや「お人形が寝るベッド」のようなものや、「赤ちゃんのベビーカーにつけるついたて(赤ちゃんがさとちんにパンチするのを守るためのものらしい)」をつくっていた。思っていたのより段ボールが大きいと、切るところに線をひっぱる。私に渡す、私は切る。欲しい手助けをする、段ボールを切ったり、はったりする難しいことをお願いされたらする。大人があれこれ用意しない方が自分で考える。「子どもの権利」を大切にするとはこういうところにもあるんじゃないかと思う。
 
以前、一緒に小学校の理科実験授業を実施していた鈴木東さんの訃報を聞いた。
あずまさんとの授業を思い出しながら、こうやって、子どもたちが自分の頭で考える授業、一緒に作ったなぁということを思い出していた。
これって「支援」「まちづくり」とかでもよくあることではないかなぁ。