野菜嫌いと子どもの意見表明権

子どもを産む前、よくある子育てや料理のテレビ番組で、「子どもの野菜嫌いを直すには?」とか、「こうしたら子どもは食べてくれます!」というような番組は、ぼーっと他人事として見ていた。〝自分でつくったら食べます、お野菜をかわいい形にしたら食べます、何かと一緒に混ぜて、ゲーム形式で探すようにすると食べます〟・・・ふーんそういうもんか・・
 
子どもを育てて5年、当事者になってみると「野菜が嫌い」というのは誰にとっての
課題なんだろうかと思うようになった。野菜が嫌いというのは大した問題ではないとわかった。
メディアが教えてくれるような色々な方法をあの手この手で試して、向き合うような
問題でもないと思って、野菜を星形やハートの形にするような手間はめんどくさいから
かけていない。
子どもの好き嫌いは気まぐれである。
我が子、さとちんも「おやさいいらない〜」と言って、味噌汁に入っているネギや、焼きそばに入っているキャベツを一つ残らずとって!と求める。
「嫌い〜」と言っているのは絶対的なものではないということにも気づいた。
ある日は嫌いだし、ある日は嫌じゃない。そして、「ほいくえんでは食べますからーー!」と言って、家では食べない日もある。
 
焼きそばに入っているキャベツは、マカロニサラダに入っていたら食べるし、スープに入っているキャベツはいいらしい。
そして、ちょっとでも自分がつくることに加わる(マヨネーズ混ぜるとか、たまご割るくらいの参画)と、旨そうに食べる。子どもの野菜嫌いというのはかなり気まぐれだし、見た目や食感などの感覚に左右されている部分がある。初めて見るものだと食べないし、食感が苦手だと食べないということもある。「嫌い」と感じるのは、感覚の鋭敏さによるもので、いずれ違う感覚を感じて、「好き」になることもあるとわかった。
 
好き嫌いがあるのは子どもに問題なのか
仮に強固に「にんじんは絶対食べない!」とか「レタスは絶対いや!!」と言ったとしても、それ食べられないことで、栄養的に問題があるわけでも成長できないわけでもない。野菜が嫌いだったから、発達に問題があったか、因果関係なんてよくわからない。
自分に置き換えると納豆が強烈にだめとか、トマトはだめとか、椎茸はだめといって、元気にしている大人はたくさんいるじゃん?
なので、子どもの好き嫌いを問題にする時、それは誰にとっての問題なのか。
子ども的には全く問題がない。
 
「好き嫌いがダメである」から子育てが大変になる。
好き嫌いを「問題」に昇華させているのは大人。
「好き嫌いはダメである」という思い込みと、「野菜嫌いをなくすためには・・」と、
子育てにまつわるネタとして取り上げている子育て支援したい領域(メディアも含めて)なのではないかと思った。中には、自閉症スペクトラムのように極端な偏食があるということもあるとは思うけど。
 
好き嫌い・野菜嫌い克服のための色々な情報があることで、子育てをより大変にさせていると思う。好き嫌いがダメって思わなかったら、そんな工夫のあれこれに頭を悩ませたり、子どもが好き嫌いになるのは親のせいとか、親がつくる食事が悪いからだとか凹む必要もない。
 
私は子どもの頃、野菜が嫌いで、「レタス食べない」ことに対して母は「もう食べなくていい!外に出ていきなさい!」と怒ったらしい。
そして、ほんとに出て行った・・
「あんたは、強い意志がある子だと思った」と懐かしむようによく言っていたのだが、レタスくらいでそこまでやらなくてよかったんじゃないかと思うし、そのように言いたくなった母も想像できるし、きっと「レタスは食べないといけない」と母も思っていたのかもしれない。
 
好き嫌いと子どもの意見表明権
子どもの権利条約の第12条に、意見表明権というのがある。

子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。その意見は、子どもの発達に応じて、じゅうぶん考慮されなければなりません。

 
 
意見表明権としてみると、子どもが「野菜が嫌い」と言うのは、子どもの意見表明でもあるんだよなぁーと思う。
 
意見表明としての好き嫌い < 子どもの将来のため、子どもの栄養のため 
そう考えて、子どもの育ち発達のために好き嫌いはなくすべし!と考えるのが、「野菜嫌い」を直した方がいい人の理屈。もしかするとそれは子どものためではなく、大人側の「せっかくつくったのに!」という都合が潜在的に存在する気持ちなのかもしれない。
 
子どもが将来野菜嫌いのままだったら・・とか、子どもの成長が心配・・と思うなら、そうなった時にまた考えたらよく、子どもの将来を今引き受けなくてもいいんじゃないかと思う。「いまここ」に生きようぜ!ってことなんだが。
それよりも、今意見表明して、「これは嫌い」と言っていることの方を大事にしたいよねって思う。