ジェンダーもやもや会(2018年5月13日)

ジェンダーについて日頃もやっとすることを話そう!と友達と集まって話す会を行いました。みんなスクールカーストの低層に生息していたのね?!ということがわかり、みんなそれぞれサバイブしてきた歴史があったんだということがわかりました。

 

以下備忘録

たまたま、私が机に置いていた本を切り口に話は展開。

「承認をめぐる病」斎藤環 ちくま文庫

「勉強の哲学」千葉雅也 文藝春秋

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教室の「キャラ化」と「コミュ力」について

「承認をめぐる病」で書かれていたことを要約すると・・

クラスの中で、いじられキャラ、おたくキャラ、天然キャラ・・などのように、「自分」がどんな人間かが固定化されている。そしてその「キャラ化」が序列化、スクールカーストを生んでいる。

スクールカーストの序列を決定ずけるものは何か。

それは、「コミュ力」(コミュニケーションスキル)

ここで言う「コミュ力」とは、場の空気が読めて、笑いが取れるような才覚のことを言う。カースト最上位のグループは、自分はいじられることはなく、ほかの生徒をいじって笑いが取れるエリートの集団。最下層のグループはスキルが低いために他の生徒に絡むことが増えてでいじられ、笑われ、あるいはときにいじめの対象となる。

教室のような限られた空間において自分の居場所を獲得するために「キャラ」を必要とする。生徒間に身分差はないが、キャラには身分差がある。

キャラとしての承認を求めることは、必然的に承認の根拠を他者とのコミュニケーションに依存することを意味する。

承認とは本来、客観的な評価(個人の才能や能力、成績や経済力、親の地位や家柄など)に基づいて行われていたのが、承認の基準は、相対的かつ間主観的な「コミュ力」に一元化されつつある。

「承認」とはなんぞやというところについては、その後に、ヘーゲルラカンの理論から解説されているけど、今回は割愛。

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スクールカーストのようなことは、会社の中にもあることだ・・。

 中高生のクラスの中でいけていない奴のことをあざ笑ってネタにする・・という会話や関係性は企業の中にもある。

 

スクールカーストのようなことは中高生の教室の中で強く感じたけど、大学生になると、みんな大人になるのか、「教室」という閉じた場所ではないからか、互いの存在を認め合うようになる。クラスとか無くしたらいいんじゃない?

スクールカーストというものはないようで、漂っている見えない壁。

 底辺にいた人たちは、上位にいる人(キラキラ、面白い、明るい、おしゃれ)たちと話してはいけないくらいの断絶を感じていた。

 

・セクハラ×パワハラ

女であることを売りにして、仕事を取っていくということは、古くから様々な業界の中にあり、それが普通のことになりすぎて、感覚が麻痺している。

上の世代がそれをよしとしてきたために、今も残っている。

Me too のように発信する人がで始めたことで、告発をする人も出てきた。

 

働き方改革したいなら、マッチョな組織文化を変えていくことが最も大事じゃないか?

 右向けと言えばみんな右を向く、そこにある文脈、価値観に違和感を持つ人の神経を壊していくような組織の文化そのものを変えていくことなのではないか・・と思うけど、高度経済成長を支えた世代がそうしたやり方をよかった、それで鍛えられるんだ・・と善としているから変わらないのでは。

それぞれの環境の中にある価値観、文脈、「こうするもんだ」という中に、人は生きていて、ある一つの目的を持つ環境のことを「環境のコード」と言う。

そこに同調するか、そこに違和感を持つか。違和感を持ち、違う環境へとお引越しするのが勉強・・というのは「勉強の哲学」に書かれているのでよかったら読んでみてね。

 

スクールカーストがある世界に子どもを送り出す不安・・

どんなに親が受容的な態度を取っても親と子どもという関係がある以上、力関係は生まれてしまうのではないか。親が完璧な存在になろうとするよりも、スクールカーストの中で生きずらくても他で生きていけるサードプレイス、人を資源として持っていってほしい。

 

 

 

 

 

 

子育てトークと二元論

以前、自分よりも年上の子どもを持つ友達と話していて、友達の1人は子どもチャレンジのような通信教育をしていて、もう1人は自分もやろうかな・・と話していた。

通信教育に興味がない私も、そういうのをやらないと、情報を取りこぼしていくかのような空気になった。

 

情報過多の今の時代、「正しいことをいかに選ぶか」ということが子育てをする人を苦しめているようにも、それが子育てには大切だとも言われているようにも思うけど、「正しいことを選択」するのが子育てではないと、思って子育てするのをポリシーとして心に思っている。

 

さとちんが赤ちゃんの頃、子育て系の講座、シュタイナーなどの幼児教育の講座などに行ったほうがいいんだろうなぁ・・と思ったけど、行こうとは思わなかった・・

特に⚪︎⚪︎式という教育方法についての講座は、これがいいのよ!という「正しさ」の圧を受けそうだなぁと思った。

 

「正しいこと」はどこにもない。

何かを選択したら、何かを選択できない。

 

何がどのように作用して、出会って、どんな人になるかわからないから面白いのではないか・・と思うけど、いざ子育てになると、「正しいことを選ぶのが親の責任である」というプレッシャーが親の心の中に現れ、環境からも受けるように思う。

 

正しいことを探すんじゃなく、日々観察と観察で気づいたことを試行実験できてさえしていたらいいんじゃないかなぁと思う。

 

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「子育てには正解がない」とみんな言うけど、「正解」を結局はみんな求め、「正しいかどうか」という二元論に支配されているんじゃないかと思う。

 

ただ自分が気づいたことをぽんと置く・・そのノリで、子育てでの気づきを同じく子育てをしている人に話すと、「自分はできてすごいでしょ」みたいな構図になってしまう。

会話をする人と自分との間には、正しい・いい母であるか・・という価値基準が無自覚に流れている。

 

日々続いていく子育ての流れの中で観察て気づいたことをただ言う時、「客観的ですごいね、私はそんな風にできない」と言われるとそれは褒められたのかもしれないけど、なんだかモヤっとする。

いつも冷静で、客観的であるわけでもないし、そんな私がすごいでしょと言いたいわけなのではく・・もごもごと思う。いろいろ試行錯誤しながら気づいていくような学びは楽しい、その楽しさをシェアしたいだけなのに。「子育てに正しいことはない」という考え方さえも、相手が二元論で捉えていたら、相手には正しさとして心に届いてしまう・・。

 

中高生の時に、テスト前に「全然テスト勉強していない~」と、ほんとは勉強やってるくせにみんな言うみたいな感じで、自分がいかにちゃんとやっていないか・・全然できていないか・・ということを、謙遜して言うのが、会話のテンプレート。

そうやって言っているほうがお互いに安心する。

 

気づきをただ気づきとして言えない、一つ一つの言い方を考えて言わないといけないなんて、面倒だ・・。だから、子どもが赤ちゃんの頃から子育てをする当事者同士が子育ての話をする場所に全く行きたいと思わなかったんだなぁ。

 

でも、大学時代に一緒に子どもの保育のことを考えて色々話した友達や、子どもを産む前からの友達には気づきをただ、気づきとして置くように話すこともできる。そこには正しいかどうか、比較する、評価する・・ということは相手と私の間にはないからだと思う。

 

子育てトークには「正しいか」「いい母親か」という二元論から、そこにいる人が自由になることと、安心安全に話せるという自分と相手との関係が大切なんだなぁと思う。

  

自分が支援者(成人の発達障害の方の支援)であったとき、日々利用者さんへのアプローチで難しいこと、気づいたことや、その方が成長したこと、変化したことは、支援者同士シェアするのが普通であったし、それで支援者として救われることも元気になることもあった。

 

血のつながらない人同士ならそれができるのに、「親」と「子」となると、評価がどこからともなくついてくる。お互いに観察したこと、気づいたことをただシェアできたらいいのにな・・。

 

さと1歳8ヶ月の記録

1歳8ヶ月の記録(2018年2月)

 ・イヤー!となると倒れこんで泣く。
 朝起きてから、保育園から帰宅してからずっとイヤイヤ、泣いてる気がする・・

 

・服を選ぶようになる。

今までなんのきなしに、今日着る服を出して着せていたのが、今日はこれがいい!と伝え、ちがーう!とそれがスイッチになって泣くことしばしば。なので、昼間からはらぺこあおむしのパジャマを着ていたり、昨日履いたアンパンマンのズボンを今日も履いていたり。靴下も選ぶ~といって選ぶ。

 

・問題はそこじゃない!

これも嫌、あれも嫌って言っている時は、嫌なのではなく実は眠いかお腹が減っているか疲れた時。

 

・テキトーに返事をする。

 

夜ごはんを17時台に食べると、19時くらいにおやつ~となって、おやつがあるところに手を伸ばす。

「1個だけだよ」というと、

(おかーさん何言ってるかわからんけど、とりあずウンウンって言っとこ!)という感じで、ニコニコしてウンウンとテキトーに返事。すぐに食べてもう1個!と言いに来る。

 

・両足で足踏みできないでもどかしそう。

 

・保育園で、お友達との関係ができる。

 いつもはぼーっと見ていることも多いらしいけど、触発されて一緒にやるようなことも増えてきたらしい。

 

・怖いという感情がある。

 NHKでばい菌みたいなオバケのぬいぐるみが登場した時、怖くて怯える。

  

・甘える

 おかーさん抱っこ~と甘える。

 

・ハングル、中国語みたいな抑揚のさとちゃん語を話す

 まだ日本語ではなくて、バブバブ赤ちゃんっぽい言葉ではあるんだけど、一応さとちゃんなりのリズムに乗って喋っている。

 

・泣くのをこらえる

 終わり、ダメというニュアンスを受け取ると、半べそになってぜーはー言って泣くのをこらえている時がある。

 

・わんわん・とーたん・たーたんに加えて話せる言葉が追加。

 「あいしぃ~」(美味しい)「こぅでぇ・・」(コレ)

運動トラウマ

今シーズンもスキーに2回ほどこっそり行きました。

 

たった2回なのに、ちゃんと成長する!

前はターンや急なところも転ぶというリスクは常に頭にあって恐る恐るなところはあったけど、今年は転ぶ不安がない。

「曲がろう・ターンしよう」と思わないでいいときは上手にターンができる。

これって多分、無駄な力が入ってないということなんだろうなと思う。

そして板をまっすぐにしたままターンもできる・・!すごい!!と一人で感動してニヤニヤしそうだったけど、モリソンによれば、初級の中の一番上、あと少しで中級だそう・・。

 

でも、私の人生史上で「運動して何かができるようになっていく」とか、「人と同じように成長曲線に乗れる」ということはなかったので、自分の人生史上ではこれはすごい出来事。

 

「運動が苦手キャラ」でずっと生きてきて、むしろ、運動部的なノリとかキラキラ感から距離を置いて眺めていたときもあったのに、今更、「運動ができる」という体験とか、「スキーって楽しい〜」とか声に出すことが死ぬほど恥ずかしいけど、スキーは楽しい・・。

 

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ちょうど、「運動トラウマ」がある人のためのランニング教室のことを知り、運動トラウマ・・自分にもあるなぁと思った。

 

一番古い思い出は、小学校のドッジボール。いつも一番に当たる。当たっても中に入れない。とろくさいので、一番に狙われる・・。

大縄跳びで、みんなで数をカウントして入る・・そんなの絶対タイミングとって取れない、記録をぶち壊すだけ。私はご遠慮願いたいわ・・と思う。

ポートボールのチーム編成で、選手をトレードするときに、チームの人から「能力」がないとみなされた私は、トレードに出される。

持久走も、持久走の日までに地震が来て学校が休みにならないかなとか、学校が爆発されたらいいのに・・と、思いながら迎え、持久走の日1日が嫌で嫌で・・。

走るとみんなを待たせて周回遅れでゴールする。

そういうことばかりで、体育の時間(あと音楽の時間もだ)は、自分はみんなに迷惑をかける存在でしかない・・と思っておりました。

 

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 体育の授業の中でも、水泳だけ得意だったけど、水泳もスキーも自分との対話型のスポーツだと思う。

こうするといいかなと自分でやって、振り返って試して・・で、うまくなっていく。他の人に迷惑かけないように上手にできないといけない・・・という圧力がかからない。

夫・モリソンも「学校の体育」の球技や大縄ではおんなじ思いをしていたみたい。

モリソンも私も多分そうしたタイプの人間なんだと思う。

 

そう思うと、学校の体育の授業の本当の狙いは、スポーツを楽しむということよりも、お友達と仲良くやるとか、協調行動、集団行動を培うという狙いの元で設計されていたのではないかと思う。

 

そのフォーマットにはまっていける一定の運動能力とか器用さがある人はそのフォーマットの中で運動への自己肯定感を高めて、成功体験を積んでいく。

そのフォーマットに乗れないモリソン・私的な人間に向いてるスポーツの種類もあるのではないかと思う。学校が提供するスポーツのフォーマットにはまれないだけで、運動を楽しめる能力が全くゼロ、「運動が得意なあの人たちの世界にはいけない」ということを思わされていたのだなぁ・・と思う。

 

 

夫は家事ができない説の違和感

いつもモヤモヤと思っていることを年が変わる前に書いておこう!

 

夫は家事ができない・・説の違和感

よく、夫・モリソンとモヤモヤしているのが、テレビや雑誌の「夫がいかに家事・育児をしないか」「ぐうたら夫は困る」「夫に家事をやってもらうとパフォーマンスが低くて困る」というような愚痴を言い、妻を慰めるような番組。

我が家の構図は逆である。

私は、家事ができないぐうたら妻。

正直にいうと、

ポケットにいつも何か入っていて、洗濯するときに困る・・!とモリソンに注意される。

脱ぎっぱなしになったパジャマが塚になっており、それを「茜塚」とモリソンは呼んでいるんだが、これ洗うの?と聞かれる・・。

冷蔵庫の中で置く場所が決まっていて、封を開けたヨーグルトを所定の場所と違うところに置くと注意される・・・。

私:「うるさいな〜」

モリソン:「だって細かい性格なんだもん」

毎日そんな会話が繰り返される。

だから、そうした番組に共感できるのは夫モリソンだと思う。

そして、妻側である私には、「家事ができなければいけない」と伝えるものでもあると思う。

「夫は家事をする能力がない」という前提に立っていると思うけど、「男は生まれながらにして家事ができない生き物」というわけではないと思う。夫のようにバックオフィスに適性がある男性なんていくらでもいますよね。(会社でそのような職種の男性は家庭内のバックオフィスにも適性はあると思うが)それが長時間労働で「できない」のと、男は「家事なんてやらなくていい」という家事を低く捉えている社会の価値観や教育によって、「男は家事ができない生き物」になっているだけだと思う。

 

妻の負担が重くなる家事・育児についての不満・愚痴を言っているという状況を批判しているんじゃなくて、「ほーら結局、こうした仕事は妻しかできないのよ」と状況を女性自ら是認しているんじゃないんですかーーーーー!!!!と、私は見るたびにモヤモヤと怒りが湧いてくる。

 

人が意識しないところにあるすりこみ

今時「男女不平等な社会」であることは誰も望まないと思うけど、実際の世の中には、「男・女はこうあるべき」という、たくさんの刷り込みがあると思う。

 

家事をする夫の象徴的な姿として、「手の込んだ料理を作れること」というのがある。そんでもって、また雑誌やテレビでは、「たまにカレーを8時間煮込んでつくるのに片付けをしないー!」と、ネタにされている。いやいや、「家事」のうち料理はフロントオフィスで、それは一部ですよね・・。

 

私たち夫婦は「性別役割分担」ではなく、「性格役割分担」という方針をとっている。夫は料理、渉外、調整などの「フロントオフィス系」家事は得意ではないため、「バックオフィス系」家事の全てを担当している。洗濯、掃除、備品購入、食器洗いのマネージメント。夫が主担当ということなので、業務を切り出してできることは私も手伝う。

私は仕事でも調整業務が得意で、家庭内でも、フロントオフィスが得意。

料理と子育てに関すること(子どものこと、保育園、病院、検診などの対応)担当。

一見フロントオフィスは目立つから価値があると思われがちな気がするが、

すべての家事が欠けても生活は成り立たないから、そこに優劣はないと思う。

 

こうした状況を人に話しても、「実際には茜さん(妻)がやってるんでしょ?」と見られたり、「茜さんがやらなさすぎ!」と、言われる。(なんで私がやらなすぎってアンタに言われなきゃいけないんだーーーー!!とまた、もやもやする) 

バックオフィス系家事というのはどんなにやっても褒めてもらえないんだなぁ・・とモリソンはぼやいている。それがうちの日々の現状。

 

でも、巷の子育てママとの会話で、「家事をやらない夫の愚痴」をいうことの方が共感されやすい。うちのように、夫が家事はやっているということは言いにくい。

子どもが何人もいて、夫の帰りは遅くて・・本当に大変な状況の人はたくさんいる。

そんな人の前で、うちのようなパートナーシップを語ることよりも同じように大変な状況を分かち合う方がその場には望まれている・・と感じてしまう。

 

それもこれも、妻が家事をやり、夫は稼ぎを担当する・・という役割。

稼いでいる夫がえらい、妻が担うバックオフィス系家事〝なんて〟と家事を低く見てきたこれまでの経緯がつくってきたものなんだと思う。

 

上から目線のパートナーシップ?

では、本当はどんなあり方だとよいのか。

〝あるべき姿が、妻は家事・育児。夫は稼ぎ。

イレギュラーな姿が、妻が家事をしない・妻が稼ぐ、夫が家事をする。〟

そうではなく、協働を考える上で、それぞれの強み・弱み・やりたいこと・希望を生かして、そのカップルなりの分担で考える。

それが前提の世の中だったらいいのに・・と思う。

建前、理想として語られることはあっても、個々人の意識レベルになると全然そうではない。

 

産後のパートナーシップについて本やインターネットの記事を見ていて、「夫をいかに育てるか」「妻にいかに協力するか・・」と、なんだか上から目線だなぁ・・と感じることがある。でも、そういわざるを得ない現状というものがその人の視点に立てばあると思う。

諸々の事情で「夫が家事・育児を担えない・能力がない」というのが現状把握としてあるならば、「育てる」というところからスタートしないといけないというのは分かる。

でも、パートナーシップはお互いがフラットであるということが大事だと思っていて、夫には家事ができないという弱みがあるとすれば、同時に自分にも弱みがある。

その上で、どうするのか・・と発想しないと、結局は「妻が家事・育児をやる」という前提は変わらないままなのではないかと思う。

 

フェミニズム=女のためのものではない。

私やモリソンが感じる「もやもや」は何だったのか?

フェミニズム」という考え方を二人とも持っているからなんだと気付いた。

先日、ジェンダーもやもや会で、大学でジェンダーを研究してきたというKちゃんに教えてもらったことだ。

フェミニズム=女のためのもの。女の権利「だけ」を主張していくことだと思っていた。

家事を担う夫・モリソンのモヤモヤがなくなることもフェミニズムなんだと思った。

 

女性「だけ」の権利を主張するだけでは、対立構造になるし、女性だけの問題と片付けられてしまうと感じていた。男も女も「あるべき姿」から自由になって生きていく、それができる世の中を志向すること。それがフェミニズム

 

最初に結婚するときに「私は稼ぎは7割、家事は3割」「ぼくは稼ぎは3割、家事は7割」なんて、お互いにシェアして結婚できたらいいんだけど。。そのあたり言葉では語られず「相手はこうだろう」と、お互いに思っているような気がする。

 

今時の男性は「家事には協力しません」なんて、言い切る人はあんまりいないけど、

根底の価値観は「家事はやるけど、妻が得意なはず」とか「子どもができたら家庭に入ってほしい」と、今でも思っている人は多いのではないか・・?

「男・女はこうあるべき」は家庭や学校教育の中で形成されると思うから、そこが変わらないといけないんだろうなぁと思う。

 

雇用の形が社会をつくり、個人の意識もつくってる?

世帯を維持するための、収入を妻・夫でどちらがどれだけ担うのか。
世帯を維持するために発生するタスクをどちらがどれだけ担うのか。

それをフラットに二人で考えることができたらいい。

 

それができるフレキシブルな働き方ができることと、性別による賃金差がなくならないとできないと思う。夫にも家事・育児を役割をになってほしい!という声は高まっているけど、実際にやれるのか?

 毎日夜の8時、9時に帰ってくる・・というような状況で。

 妻の方が稼げそうだ・・では、妻が稼ぎ、夫が家事という風にしよう・・

 でも、そうすると世帯収入が減ってしまう。

 

夫の意識の低さの問題であると捉えられがちなんだけど(そうした夫を妻が育てるものだ・・)という意見からも感じるように、そうではなく、社会構造がつくっていること。妻が家事・育児、夫が稼ぎという前提に会社組織が成り立っている。それが一番の問題。

とにかく、我が家みたいな役割分担のあり方が特異なことではなくて、普通に語られることになるといいなぁと思う。

 

 

ジェンダーもやもや会vol.1

マドレボニータの産後ケアクラスでつながった友達でお茶をしました。
大学でジェンダーについて研究していたというKちゃんを囲んで、ジェンダ−
にまつわるもやもやを話そう!ということで、「ジェンダーもやもや会」と
名付けました。

以下備忘録〜

 

・間違った「人権教育」
 「かわいそうな人たち」の権利を守ることではないのに・・
 自分が生きるための権利であるという意識が希薄。
 
・子どもの性について
 赤ちゃんがどうやってできるのか、どうしてお股から血が出てくるのか・・という
 ことは子どもの年齢によっては説明してもなかなか理解は難しいが、
 大人がはぐらかすことなく、一所懸命話しをして、向き合ってくれたということが大切。

・保育園の先生たちに子どもの性、性犯罪への意識が低い。
 HPに乳幼児の裸を乗せることに違和感を感じない。人権を守る・・・というようなことを掲げているのに!

・人権=行政の標語のイメージがあるよね。

・男尊女卑がにじみ出てしまう人たち
 巷にあふれる表現
 「女は可愛いのがいい、勉強なんかできなくてもいい。」
 そんな考えを持っていないよ〜と言っている人がにじみ出ていたりするよね!

・男卑女尊?
 「世の中の夫はダメ」説に立って、妻の方が「だから夫は家事ができない、こんなに大変・・」「夫をいかに育てるか、手綱を握るか」というような、妻を慰める・上から目線に立つ番組ってどうなのよ、もやもやするよね。「夫ダメ説」ってそもそも、前提としておかしいのではないか?洗濯・掃除・洗い物のようなバックオフィスの家事に適性がある人もいる。(わが夫)

 
 そうやって、メディアは「家事を担うのは女」という状況を批判しているようで、女はこうあるべきということを是認しているのではないか・・・と。

 K先生によると、それも男尊女卑の考え方から出てきたことで、家事のようなシャドウワークが認められない、評価されないのは、女がやればいい・・、そして男が稼げばいいい・・そのように認識されてきたから。
 そしてその前提をもとでの社会構造があるから。

 実際に夫が「家事スキルが低い」というのも育ってきた環境で「夫は家事をしない」という価値観があったり、実際やりたくても長時間労働で時間をとれなかったり・・という状況にあるカップルも多いのが現状。だから夫を「育てる」ところからスタートしないといけない・・・ってのもわかりますが。でも、パートナーシップを考える時に、お互いにフラットに現状をとらえる、そしてこれからを考えるというスタンスが大事なのではないか。

 

私の夫は、どんなにバックオフィス系家事(洗濯・掃除・洗い物・備品購入)をしても、認めてもらえない・・とぼやいている。産後の過ごし方についても、女性はこんなに大変なんだ、だから男は協力してよねっ!というテンションもなんだか違うなぁと思っていて、お互いに話し合う、お互いに得意・不得意なことを理解して、それでも進んでいくことなのではないか・・と思っていた・・。その夫が感じているモヤモヤというのは、「フェミニスト」的な考えを持っている夫と世の中との軋轢ということだったのか〜!

フェミニズムって女性だけのものではない。
 
 フェミニズムフェミニストって、女性が権利を主張して、要求・戦っている 
 イメージがあって、いや、それで得られてきた権利もあるし、戦わないといけない
 状況があったから・・ということなんだと思っていたけど、
 それでは、対立するばかりなのでは・・・?と思っていた。

 女のもの、女のためだけでなく、それは男のためでもある。
 性別と役割を紐つけない、男・女はこうあるべきという考え方、刷り込みを捨てて、
 ニュートラルに役割分担を考え、ともに進んで行く。
 それがフェミニスト
 
 しかしながら、それを実現するには、フレキシブルな働き方ができる組織と、長時間労働ではないことと、
 夫が世帯収入を稼ぐというモデルを変える、男女の賃金格差をなくす・・ということがないとできない。
 例えば、夫が家事が得意、妻は稼ぐのが得意だったとして、それに応じて、収入モデルを構築しようと
 しても、世の中は、男のが賃金が高い・・それでは、世帯を維持していくために、妻が稼ぐモデルにはできないよね・・
 
・働く女性のための・・・と言っていると、対立構造にしかならない。
 すべての人にとってのダイバーシティな環境となること。


 (子育て世帯だけでなく、外国人、疾病を持つ人、がんサバイバー、外国人、障害者)

 そのためには、業務分担の再構築、フレキシブルな勤務形態が必要。
 いろいろな人が少しずつ関わる形だと、調整コストがかかって、マネジメント力が大切になる。
 「すべての人が8時間働けます」から、「働けない人もいます。」と、組織の中に異質な存在が入らないと、
 変わっていかない。
 その人にしかできない仕事(属人的な仕事)と、その人でなくてもできる、誰でもできる仕事にする(汎用性のある仕事)
 に業務を見直す、再構築、分担をする。誰でもできる仕事を集約する。

時間がないのは本当か

 毎日朝起きて→就寝までがあっっっっという間に過ぎていく。

 時間がないー!と思えるけど、それは本当か?平日に2〜3時間くらいゆっくりしたり、本を読んだり、買い物をしたりする時間が欲しいなぁ・・と思って、今週はその時間を捻出するように工夫した。

朝1〜2時間仕事をするように早起き。4時、5時には起きて夜は9時に寝る。

毎日、それができたから、5時間は捻出。これで1日分だ〜!ということで、

平日の昼間にお茶をする時間ができた。やればできる。

時間がないように思える、16:00にはお迎え時間になる・・そういう制約があるから、時間の使い方も工夫するようになって、子育てという出来事はいい効果をもたらしてもいるとも思う。