パターン化される情報提供

 ある日、子どもを出産して、母になる。その日から、世の中から「ママ」と呼ばれるようになり、「子育ママ」カテゴリーでの情報が提供されるようになるってことにとても違和感を感じるまま、今に至る。

 子育してるからって四六時中、子育てのことを知りたいわけではないのに、「子育てママならこういうこと知りたいでしょ」みたいな情報があふれている。

 子育てママじゃなかった時は、「子育てママはこういうこと知りたいんだろう」って思って情報提供、発信していたかもしれない。

 ちょっとインターネットで検索したり、子どもの育ちについて投稿するだけで、インターネットのアルゴリズムによって、子育てママ向けの民間資格とかパートの広告が出てきたりする。

 こんな風にインターネットさえも、子育てママはこういうこと知りたいはずだって思って情報を私に届けてくれる。でも、その「はず」という言葉によって、本人も知らない間に「そうあらねばならない」という不自由さの中に押し込められていることはないのだろうか。意識が集中しすぎて逆に視野が狭くなるということもあるかもしれない。

 子育てママの知りたい、学びたいに答える「ママの読書会」ってのも世の中にはあるんだなぁと、母になってわかった。チーム育児とか、ワークライフバランスとか、キャリアアップとか、育児休暇の間を豊かに過ごすためのライフハックとかスキルアップ系の本をママ同士で読む・・というのは私には直球すぎて、そして子育て中の女性または、女性同士という集まりがしんどいから行ったことがない。(ファシリテーターなんて役割があればいられるけど、参加者としているのは辛い。笑)

 それも一つのあり方で、そこを通して多様な世界に出会え、救われる人がいるなら、その場がある意味はあると思ってる。でも、それも一つだよねって思う。

 むしろ、子育てしている母なんて一人もいない、年齢も立場も性別も国籍もバラバラ。たまたま母である、たまたま発達障害である、たまたまLGBTである・・・えーそうだったんだと話してたまたまわかるくらいの場所がいい。そういう属性を持った人として存在している場所で、それぞれの見え方を分かち合っていくような場の方に私はエンパワーされる。

 でも、一方で直接的な情報と支援は社会資源として必要としている人もいるからその存在を否定するわけではなく、そうじゃないレアな人もいるということを伝えたい。

 全然関係ないことこそが自分への生きる支援なんだと思う。

 昨日、私が図書館で調べたり、読んだ本は、名古屋の中村区に流れる庄内用水について、飯田街道について、中島岳志の「保守と立憲」、愛知県の社会運動史・・と子育てとは全然関係ない。でも、そこから多分、人としてどう生きるか、暮らすか、どんな社会でありたいのかということを考えていて、その先に自分の目の前にある子育てとか、男女共同参画とかがあるんだと思ってる。その視野の広がりが、私への「子育ての支援」である。

 障害者だからこんな情報、病気の人はこんな情報、ママだからこんな情報って、カテゴリーして無自覚に届けられる情報にウンザリしている人も多いのではないかなぁと思う。人には、多様な世界と興味関心と暮らしがあるってことなのだ。