保育園保護者会とファシリテーション 

 
大阪保育運動連絡会さんの集まりのオンラインでゲスト参加しました。
 
わたしのプラクティスフィールド(このカタカナ知らなかったけど、自分が探求する場所のことこうやっていうらしい)の一つは保育園保護者会。
子ども・0歳10ヶ月の頃に、保育園の入園式で保護者会の説明をしてくれた会長さんは、フォーマルな入園式で、モンゴル衣装?みたいなのを着ていた。ここは、なんか楽しいかもしれないと思った。
 
「保護者会やりまーす」って手をあげ、初期の頃の会議で、「きっと誰も、板書しないに違いない」と思って、始まる前に早くいき、勝手に模造紙を貼って、板書係、わたしやりまーすって勝手に板書係やった。(実は超ドキドキしていた)
「森さん、板書ありがと、助かった」と思ってもらったとポジティブ解釈して、ファシリテーションを意識した運営をしていた。わたしは、「ファシリテーター」です、これが「ファシリテーション」ですなんてことは、言ったことがなく、集まる人の力をエンパワーするような場、会議をいつも考えていたら、保護者会を自分ごとに捉えてつくっていく人が育ち、コミュニティになっていった。
 
ちなみに簡単にできあがったわけではない。
役員は、義務でやると思っている規範を変えるため、自発的にやりたい人がやるようにした。
しゃんしゃんではない、総会をやるようにした。
会長職をなくした。対話の機会をもつようにした。
それまでの保護者会は会費をドーンとつかって、子どもたちに分配する活動だったが、保護者の交流・学びに予算を使うようにした。
コンテントの部分を変えていきながら、プロセスに働きかけ、コンテントの部分を変えようとすることに対して、「どうして保護者の交流や遊びにお金を使うのか」っていう抵抗勢力もあって、長文お便りももらったりなんかして辛いこともあったわね・・
 
森さん、なんかいつも対話的なやり方でやってくれるよね、いつも板書しているね・・って思われていたであろう、その心は・・・というのを、集まりで話してきた。誰でも、ファシリテーションは実践できる、自分の小さな一歩を踏み出せるといいなぁと思った。
 
以下内容。
▶︎保護者会あるある・・
 なぜこうなる、なぜ人が集まらぬ、なぜ意見があつまらぬ・・
 というのは、コンテント(見えている部分)とプロセス(見えない部分)で見てみよう。実際のよくある現象をコンテント・プロセスに分けて説明

 

 
▶︎会議ファシリテーション・対話の場の色々な工夫紹介
▶︎社会と保護者会とわたしの関わりの中でファシリテーションなぜ必要か。多様化する子育て世帯のニーズ、状況にある人の声を聴く・分かち合う、それを運動、行政、政策につながる小さな民主主義実践の場が保護者会。声を聴く・分かち合うためにはファシリテーションが必要。
 
卒園する前の置き土産で、この話今後活動するメンバーに伝えとこうと思って誘っていたが、保育園胃腸風邪大流行で、みんなそれどころじゃねーって感じで、残念だった・・・
そんな話を、モンゴル衣装着ていたかつての会長、一緒に当事者になって、活動してきた人と、新年度の保護者会スタートの時の、オープンな学習会としてやろっかと盛り上がる。
卒園した保護者がお節介で関わるのも老害にならないようにと思う反面、保護者会応援ファシリテーターですって感じで関わればいいのかなと、また違うプラクティスフィールドも現れるのかもしれないなどと思った。

ふあんそうじき

ふあんそうじき
夜、おばあちゃんちでご飯たべる。帰り道、さっきまで笑っていたのに、突然、さとちんは、「あしたはほいくえんにいきたくない・・」と言って、大声で泣き出した。
家に帰って、お絵描きしながらお話ししようかと言って、「しんぱいまっぷ」を描き始める。
字がかけるようになってきたから、しんぱいまっぷと自分で描いてもらう。描きたいペンも自分でもってきてもらう。と、この時点でいくらか気持ちが落ち着いて、前向きな様子になる。
 
お昼ご飯食べるグループが一緒の、お友達のおーちゃんに、「さとちゃんのグループに来ないで!」と言っちゃったことが気になっていて、おーちゃんとその話をするのが心配。
「おーちゃんがやすんでくれたらいいのになぁーー」と言っている。
ついでに、仲裁に入ってなんか聴いてくる先生も「やすんでくれたらいいのに」と言っている。ふむふむとお絵描きしながら描いて眺めて話す。
結果、保育園に行ったとき、とうさんかかあさんのどちらかが、おーちゃんとさとちんの話に入って一緒話すことになる。
その後、「ふあん」「しんぱい」な気持ちについて話してみる。
「誰かとお話したら、おかあさんは、不安さんが一つずつどこかにいっちゃうんだけど、さとちゃんどんな感じ??」と聴いて、丸を描いて、不安がどっかにいく絵を描いていたら、
さとちんも、ペンでぐるぐるとまるを描いて、
「さいしょはこんなふうに大きいけど、だんだん小さくなる・・・」となんだか既に、楽しげになっている。
「ひとつずつふあんさんがすいこまれていくんだよーー」と、絵を描くのが楽しくなっている。あーなんかそうじきみたいだよね。じゃあ、「ふあんそうじき」と名付けよっかと話す。なんか面白いことになった!って感じで、キャーキャー言いながら、お風呂に入ってるモリソンに話に行っていた。どよーんとした気分は晴れやかになり、エンパワーされた感があったな・・
 
『うそっこの世界が子どもの生きる力』
この言葉、大学生の頃に人形劇を教えてもらっていた丹下進さんから聴いた言葉。
また、同じように大学生のころ、モーリス・センダックについての評論でも、子どもは、ファンタジーの世界で現実を生きる困難を解決していくと読んだ。
小川洋子の「物語の役割」にも、「困難な現実を受け入れる時 もう一つの物語をつくっている」ということが書かれていたように、「物語」「ファンタジー」は、人が生きていくための智恵だと思った件だった。
「ふあんそうじき」があるという想像で、さとちんは、また次に困った時に、ふあんそうじきを思い出して、対処していくかもしれない。
 子どもが絵本に出会うのは何かいいはず、本を読むといいことがあるはずってぼんやり大人は思っていると思う。本を読んだか、絵本読んだかは重要だが重要ではなく、「言葉」と「物語」を創造しながら「物語」と生きていくということが大事なのである。それは日常の中、日々を支える中にあるのだと思えた、大事なシーンだった。

そして旅はつづくよ システムリーダーズ実践コミュニティ 振り返り

10月から参加していたシステム・リーダーズ実践コミュニティの最終回でした。
「学習する組織」よく聞くけどなんだっけなぁ・・・くらいの認識で、豊田さんにいいよ!と言われ、参加することを決めたのが夏頃。
開始は10月だったんだが、図らずも、その直前に、ささしまサポートセンターの方で、ある日突然管理職になった。目の前には焼け野原、ぺんぺんぐさも生えてなく、断崖絶壁に立たされたような気分であった。リアルに何度も一人で泣いていた。
どうあるか、どう捉えるか、どう仲間を見つけていくか、誰と何を分かち合うか、観察するか、伝えるかということ、その考えの拠り所、世界を見る物差しが、「システム思考」の色々な考え方やツールだった。自分の中に携えて実践する、もう毎日がシステムリーダー実践の場。風土やシステムの変化は副産物であり、起こそうと思って起こすものではない。副産物になる変化は少しずつ起きていて、それをまた一緒に働くメンバーと分かち合う。話を聴いて、自分が話して、何かしてを繰り返す。その経過の中で、一緒に事業の種を蒔いて、育てるメンバーができたり、私のことを脅威だと思っていた人の在り方が少し変わってきて、一緒に植樹して畑耕す人がチームの外と中、組織の外と中に現れたなぁと、今は思うが、それは自分の一歩があったからでもある。
システム思考を本で読んだだけでは起きなかった変化かもしれないと思う。本(知)+コミュニティ+経験の中で学びが起きる。「コミュニティ」があることで、向かっていく勇気をもらうことになり、実践しながら実感した。
 
◆4ヶ月の学びはどういうものだったか。
一言で表現するなら、「内省」「学び」とは何かということを学んだ時間だった。
学ぶことは強くなるため、かしこくなるため、力をもつため、優位に立つためにあるのではない。ただ、ありのままの自分でいるため、世界を楽しく生きる自分のためにあるのが「学ぶ」ことである。
 日々、自分と誰か、誰かと誰かが集まる組織の間に起きていることを観て、何か行動する。
その連続の中に「学ぶ」ことがある。仕事、暮らし、子育て、全てにおいて。
観るための色々な方法は教えてもらい、日常の中で実践した。方法をつかって物事を見るのは自分で、自分に物理的にも心理的にもスペースがないとできない。わかっちゃいるけど、忙しくなれば、わかっていることは見たくなくなる。
 
 ここで学んだ、自分を観る・他者・世界を観る「内省」。これって、わたし、今までずっと日常的にやっていたことではないか?と思った。「本」を媒介していつもやっていたことだった。内省には「他者」の存在が必要であるが、私にとっての「他者」とは、「本の著者」も他者。一人で本を読んでいる時間は、他者とお話しし、自分を照らして、何か頭がすっきりした気持ちになったり、自分の中にある願いややりたいことを見つけることをしている。
「学習する組織」は実は読まずに終わったのだが・・多分読むことは、ピーター・センゲさんとお話ししているような気分になるんじゃないかと思う。
 
自分の中にある経験や記憶と、本。自分の体外の記憶装置である図書館という空間や図書館で出会う本。それらと学習する組織とか、システム思考についてはもっと関連づけて考えられるなーーーと思って、私の探求の場所は仕事でもあるが、やっぱり「図書館」なんだよね!!と思う。
また春から始まるんだけど、ぜひ、図書館の人、受けると、図書館や本について、思ってもみない世界が見えるかもしれないからオススメしたい。

2022年振り返り

振り返ってみました。

今年のニュース

1)豊橋まちなか図書館に通う

どこか遠くの図書館の利用者になってみようと思っていくことにした。

豊橋まで電車で1時間かかるんだが、リフレッシュ、息抜き、ちょっとした旅の時間になっている。1ヶ月ー1ヶ月半に1回は行けたかな・・

 

 

2)2月ファシリテーション実践研修 報告会

ファシリテーションが拓く・場 組織

喋り倒した楽しいお仕事だった

3)  家族スキー、モリソンとスキー合わせて3回

スキー初めて、もうすぐ10年?

毎年ちょっとずつ積み上がっている。

 

 

4)さと お料理に目覚める

保育園児には早いかなと思ったけど、果物包丁を使ってみたら、大丈夫だった。

謎の独自おかずをつくってくれ、一品増えるし、料理の手伝いをしてくれる。

 

 

5)がらぴこぷーが終わる!

NHKEテレ、それぞれのキャラクターが優等生的な大人が求めるこども像でなくていいなぁと思っていたのに。

 

6)4月に一家でコロナにかかる

4月の決算・予算・総会準備のシーズンに20日間仕事に使えなくなったのが後々大変だった。。。引きこもり生活もほんと大変。。

お家遠足で乗り切る



 

 

 

7) 委託事業のプロポーザル

4年に1度プロポーザル

この時期に、総会の準備、予算作成の上に、プロポーザルの申請書がオンされ、もう死にそうだった。。

8)ランドセル購入

スポンサー(おばあちゃん)と当事者間の揉め事勃発。笑

ランドセル売り場で、交渉は破綻し、さとちんは泣き、お店から退避、再度来店して買った。

ちなみに私は参画していなくて、モリソンが全て対応。

 

 

9) 亀山 市民ライブラリアン講座

図書館について考える市民向けワークショップを初めてやる。

 

10)シバテーブルでイベント

シバテーブルで1日鉄道イベント

鉄道好きなおっちゃんと、子どもたちがそれぞれに過ごす素敵空間になった。

11)長良川支流の清流に遊びにいく。

保育園、仕事を休んで、夏の1日。川遊び

 

12)ささしまサポートセンター JAMMINとコラボ

オリジナルTシャツをつくってキャンペーン。

13)ひょうたんカフェ 月1ワークショップ通い

さとちんが、すきなものづくりできる居場所をつくれたらいいなと思って、行ってみたらハマる。

 

 

14)まちなか図書館でイベント

念願の図書館でのイベント

knowledge-net.hatenablog.com

15)インフォツリー作成

参加型パスファインダーとして、今後も広がりそう。

infotoukaiknet.wixsite.com

 

16)喫茶七番通い

週1は行って、デトックスしている・・

 

17)火中の栗を拾う

ささしまサポートセンターで、事務局次長になり、いよいよ法人の中枢の仕事を担うようになり、多くの仕事と課題にたいして、やっていけるのだろうかと思っていたら、それを上回る試練がきた・・委託事業の管理者になり、引き継ぎもマニュアルもなく、リーダー、マネージャー、庶務、総務なんでもやる管理者にいきなり立たされ、求められる。

10月からの2ヶ月が辛かったが、希望も見えてきた。。

18)ハイデガー 存在と時間

読書会を通じて、ハイデガーの思想が自分の世界を見るものさしになる。

19)学習する組織についての学び

システム思考は、17の渦中の中でかなり助けられ、このコミュニティがあってよかったと思う場面が多々あった。

 

20)喫茶七番、延藤文庫とのコラボ

11月に絵本のお話会イベント、延藤文庫の活用支援について話し合う。

knowledge-net.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

行事がしょぼい保育園はいい保育実践をしている

さとちんの保育園の劇ごっこの発表会見に行った。昨年度はコロナでビデオに撮ったのを見せてもらったんだった・・発表会!とは認識していなくて、保育園の劇ごっこ見る感じ??と勝手に思っていたら、行ったらちゃんとした発表会的なのだった・・笑
朝から緊張していて、自転車の後ろにさとちんを乗せ、緊張したらどうするの??って聞いたら、
「〝ひーと〟って、てのひらに3回書いて、ごくんとのみこむといいんだよ」という超古典的なおまじないを教えてくれる。笑おばちゃん先生が教えてくれたらしい。
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劇の題目は、「王さまと9人の兄弟」
大人が一生懸命子どもたちを指導した成果ではないところがいいなと思った。そのワケは・・
おばあさん役の子が2人出てきた・・
出てきたが、二人で緊張してもじもじして、勇気を出してせーので言う。
その後も、家来役、おじいさん役・・なかなかセリフが出なかったりするが子どもたちが、フォローし合う。さとちんは・・「ろうじん」役で、相方Yくんと手をつないで頑張ってセリフ、いっておった。
セリフ忘れると、他の子どもたちが、
「Sくん、次は〇〇○だよ・・!」とこしょこしょと、いう。
出るのを忘れている子がいると、
「Aちゃん次だよー」って教えている。
登場の仕方も、真っ直ぐ歩くわけでもないし、みんなそれぞれの登場の仕方。
大道具、小道具が子どもたちが自分で出して、自分でしまう・・
間が空いたりもするけど、先生の手伝いなしで、全部子どもたちで20分の劇をやっていたーー。
衣装は子どもたちが手作りした、ゴミ袋に色紙貼ったりなんかしたもの、頭には画用紙でつくった帽子みたいなのをかぶってる。
 
〝行事がしょぼい保育園はいい保育実践をしている〟
これ、保育関係者から聞いた言葉なんだけど、ほんとそう。
うちの保育園、行事が少ないし、運動会・発表会も、「大人を感動させる系」のことはいっさいないのがいいなと思っていた。大人の手をかけないから、子どもが自分でつくって愛着が湧くゴミ袋衣装。大道具や小道具は段ボールでつくったものや、保育園にあるおなべなど子どもが取り扱いやすいもので、最小限のしょぼさ。
劇の進行の大道具を大人が出したりすれば、劇は滞りなく行くが、先生は手出ししないで、自分たちでやる。そうするとたどたどしくなる。
ミュージカル並みに立派な、手作りの衣装で、みんながお揃いのものにすれば、見栄えはするし、「かわいい〜、すごい〜」と言われるものになる。しかし、しょぼい行事には、「見栄えがする、親ウケするためのことをする」ために、先生がヘトヘトにならなくていいと思う。見栄えしない行事にすれば、「見た目はしょぼく」なる。その方が、大人の過剰な介入なしに、子どもが自分で創造に関わって学んでいるっていいうことだと思うのよね。
 
合奏とかお遊戯会とかで、「みんなで、おなじことを一生懸命やっている姿に感動した」とか、「先生、こんなかわいい衣装つくってすごーい、かわいい」と、思わず声が出るような舞台衣装並みなやつは、その裏では、子ども主体ではなくなっているかもしれないと思う。
思うけど、だいたい「子どもたちが喜んでいた、達成感を感じていた」って言葉でまとめられる。
 
多様性や創造性を詰むような介入があるかもしれないし、先生が一生懸命、はっぱかけて指導しているかもしれない。寝る間も惜しんで衣装作っていたり、または親がつくっていたりするかもしれないよね。
 
保育士の専門性って、すごいミュージカルや舞台をつくるために衣装作ることや、みんなが同じことができるように指導することじゃなく、子どもたちが遊び、学び、創造するプロセスを設計し、寄り添うことだと思うのよね・・

「支援者」にあるメンタルモデル

先日、ある支援の現場でのやりとり。
 
「やりたいようにやらせていていいんですか?」「こんなんじゃ支援にならないんじゃないですか?」と、わたしと同じように「支援者」の立場で、ある方を支援している方が、そのようなことを言う。「はぁ???」とさすがにムカついて、これは、見過ごせないと思ったので、バチバチやった・・。
コントロールしたい、鋳型にはめたい、被支援者、利用者は優等生的であらねばならない・・って見方をする方だなと思っていた。そして、被利用者はルールを守れないこともある、周りとトラブルを起こす。支援者の間では、困った人、常識がない人という見方が共有されていた。
「こんな好き放題やらせていいのか」という言葉の根底には、支援者の支配したい、逸脱が不快というメンタルモデルが自分にあることに気づいていない。
被支援者をどうにかしたいと思って相手に向ける指のうちの3本は自分に向いてるんだよねぇ・・。
はぁ?!とムカついてバチバチやる・・・
わたしは、「生活困窮者支援やりたい」ってささしまサポートセンターに入って、お仕事始めたわけではなく、この領域への経験はないがNPOマネジメント系で働き先の1つでささしまだったんだが、すっかりささしまの反骨精神とか支援観が身についているなと思った・・笑
いつか生活保護窓口の福祉事務所でもバチバチやるのかなぁ。
 
▶︎メンタルモデルとは・・
メンタルモデルは、「学習する組織」について学ぶ中で出てきたこと。学習する組織は、ピーター・M・センゲさんが提唱した。学習する組織の要素の1つに「メンタルモデル」を挙げていた。
「メンタルモデル」自分の中にある無自覚の思い込みのこと。その思い込みをもとに、脳内では、事実を評価し、行動する・・人は超高速でやっている・・それを「推論のはしご」と呼んでいる。
推論のはしごについて学んだ時、支援の現場でこういうことあるある!!と思った。
 
自分のメンタルモデルが、相手に大きな影響を及ぼしていることがある。
そこに自覚的になることが支援者にはとても重要って思う出来事だった。
 
参考:学習する組織について

システムリーダーズ実践コミュニティ DAY4 ビジョンとは温かい、じんわりするもの

【システムリーダーズ実践コミュニティ DAY4 ビジョンとは温かい、じんわりするもの】
DAY3の振り返り書けなかった・・本日で基礎編も終わりということで、半分まで来たので、もう終わりに向かっていくのねーーーとちょっと寂しい。
ビジョンとかリーダーシップとかっていう言葉、「上から指し示すもの」「上からの力」「高い目標」という「自分」の中にはない、遠くにあるものと世間では思われているように思うが、そうじゃないというお話の会だったなぁと思う。 ビジョニングとかビジョンってググると、会社組織が出てきて、市民活動色の強いNPOにそぐわない・・
「えー茜さんがビジョンとか言ってる」などと言われそうで、ビジョンなどという言葉は使わないように慎んでいた・・笑
ビジョン=願い 深く願っている思いとか喜びとか、強いものではなく、温かい身近にあるものと、捉え直しすることになった。
▶︎印象に残ったお話
問題解決とクリエイティブであることは違う
この前のさとちんのお悩み相談は、問題解決とクリエイティブがどう違うのかがよくわかる事例だったと思う。
クリエイティブは元々の意味は、「存在させること」で、学習(ここでいう学習は広い学習、生きること、暮らすことにある学習)を通して、願っている状態を作り出す、存在させること。
「おしゃべりが上手にできない」という相談に対して、おしゃべりが上手にできるようになるための方法(ソリューション)を考え、おしゃべりできない問題を解決することが本人の願い、ビジョンではなかった。
おしゃべりできるようになるための解決を考えることで、さとちんの涙が止まり、元気になるようには全く思わなかった。
結果、「問題」と本人が思っていることを解き明かしていったら、元気になっていき、問題は解決していないにもかかわらず、「明日も保育園に行く」「おしゃべりできる方法はわからなくても大丈夫」と、力が出てきたし、問題解決できてない、ありのままでも大丈夫と思えるようになっていて、まさにクリエイティブな状態。さとちんにとっての願いは、「保育園が楽しい、行きたいと思えること」だったのですよねー
なので、「問題解決の方法を考えていると大事なことは見えなくなる」と福ちゃんが話していた通りのことが起きていた事例だった。
でも、支援の現場だと、本人の願いは違うところにあるな・・と思っても、その願いにまでは至らないということがよくあるなと思った。
例えば、子どもについての親の悩みの相談なんかだと、「子どもの願いは違うところにあるね・・」ということもある。「解決してほしい」オーダーに答えることを相談に乗る方に、求められている場合なんかもあるだろうね・・親と子どもという関係の中で、「問題解決することが喜び、子供のため、親の喜びである」となっている・・
被支援者が逸脱する行動をしまくる、どうしたらいいんだ・・みたいな場面もある。その時の支援者がなんとかしなくてはとか「こんなことを許していいんですか」という声を聞く時に、被支援者の問題を解決しないといけないと支援者が思っている・・そうじゃなく、支援者が困っているってことなんですよね?って思うけど、そういう問いというのはなかなか入らないなんだよなと思う。
そうした問題を取り違えているままで進むことにモヤモヤする私のメンタルモデルがあり、自分に向かってくるんですね。。
自分の思考のクセ(メンタルモデル)に気づいて、問題をシステム(関係性とか場とか経過とか)で捉えるための考え方、以下2つの方法をこの間で学んだ。
「推論のはしご」:何かあると、こうなってああなって、どうせこうなる・・とすっ飛ばして思ったり、行動する自分のパターンに気づくためのフレーム
「ループ図」:問題だと思っていることを分解していく。
これを携えて、自分の日常を豊かに生きていくための場がこのコミュニティ。システム思考を学ぶと自分が遭遇することへの見え方、解像度がが変わるなぁーと思った。もう始まる前の私には戻れないといいますか・・
図書館や情報と人や社会にどう関わるかに関心があるので、図書館の課題解決支援とかビジネス支援とかにも想いを馳せた。
「問題解決のためのソリューション提供は、クリエイティブな状態を生み出さず、副作用として、問題が見えなくなり、不安や恐怖によって問題に向き合うことになる」という講師福ちゃんの話を聞いていて、この時のソリューションは、図書館では情報となり、課題解決のための情報支援じゃなく、自分の願い(ビジョン)につながる情報支援、図書館のあり方ってーというのを図書館の人と話したくなった。
私自身が、これまで図書館の空間そのものには、自分の内省とビジョンに触れる場所として関わってきた。
忙しい世の中で内省できる唯一の場が図書館ではないかと思っているので、課題解決支援しないサービスとして、瞑想できる空間提供もありなんじゃないかとさえ思った。