図書館の遊び方「未知」の本と「既知」の本

 

 書店と図書館の違いの一つは、〝図書館は、「記憶装置」である〟という点。人は、書店に行く時、読んだことがない本、未知の本に出会いに行く。読んだことがある本は通常は買わない。(私は読んだことがあっても間違えて買うことがたまにあるけど。笑)資料を収集、保存し、利用できるようにする「社会の記憶装置である」図書館は、自己にとっての、「体外の記憶装置」でもある。自分の「未知」(読んでない本)だけでなく、「既読」の本、自分の記憶装置に所蔵されている本に、出会うこともできる。

 多くの人には、「知らない本に出会う」ことのが「価値がある」「価値ある」読書をせねばならないというメンタルモデルがある。多くの読書論においては、本を何度も読むことが推奨されている。しかし、読者は、「そーゆーのって、時間のある有閑知識人が説教的に言っているんじゃない?」「実際は難しい」と思うのではないか。読んだことある本をもう一回読むのって、「価値があるの?」「そんな時間がない」って、思っている。新しい本、読みたい本がたくさんあってワクワクしたり、義務的に読まねばならない本が積まれているのに、すでに読んだ本を読む優先度は上がらない。

 最近、わたしがハマっている、図書館の遊び方の一つ。そして、図書館での遊び方、過ごし方がわからずうろうろしてしまう人に、やってみてほしいことがある。

それは、「既知」の本に出会うこと。「昔読んだ本」それも、棚を眺めていて、すっかり記憶の彼方にあったのに、突然、「この本読んだことあるな!」「ハッ!!」と心が動くように感じた本を、取り出す。表紙を眺める。読んでみるということである。そんなに本を読んでないという人は、子どもの頃に読んだ絵本もいいと思う。

 

ぼーっと棚を眺めて、「ハッ」とした本が、「リンさんの小さな子」だ。

「あーこの本たしか読んだなぁ・・いい本だったなぁ」と思った。 

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 本の内容は、noteの方に書いてある。

 18年も前に読んだ本の「はず」で、心に残る本だったと思っていた。でも、全く初めて出会うように感じた。読みながら、この本を手に取った時、本屋さんで働いていたこと、どの本棚にあったか、働いていた時に見ていた風景が蘇ってきた。さらに、この1冊に出会えてよかったとしみじみと思えるいい本だった。

 また、もう一つは、子どもの頃から大好きだった、「赤毛のアン」。子どもの頃に、何度も読み返していたが、久しぶりに開いてみる。山本容子さんの美しい挿絵が好きで、本の中にある挿絵がイイんだなぁ・・。言葉の一つ一つは忘れている。赤毛のアンには、キリスト教の信仰や習慣やカナダの文化がわからないと理解できない言葉が満載なのだが、子どもの頃は、それも含めて、想像して読むのを楽しんでいた。「モスリンのカーテン」がどんなものかもわからないし、「メイフラワー」がどんな花なのかわからない。キリスト教の警句もたくさん出てくるが、読み飛ばしながら、読んでいた。アンの止まらないおしゃべりを聞いている時間は、心の奥底にある温かい場所に戻っていくようだ。

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 うつの回復過程にとっても、昔読んだ懐かしい本を読むことは「自分が元気でいられる」ことでいいことだと思う。「復職をどうするのか」「仕事をどうするのか」という、考えても考えても答えがないことに頭の中は、支配されてしまう。そうしたループから外れ、問題から距離を置く、遠い安全な場所に連れて行ってくれる。

 この2冊を再び読んで、自分が自分について見えていることなんてほんの一部なんだと気づく。自分の土台を形成してきたたくさんの記憶は忘れながら、生きている。経験と出会いが連関して、人生が編まれる。その流れの中に、たまたまあるのが1冊の本。

 1冊の本という形になっているからこそ、本に再び出会う時に、自分の中で見えなくなっているものも見えるようになるのではないか。「自分の中、探求の旅」という楽しさに出会った。「既知」の本に出会う宝探しのような時間を過ごすために図書館に行くのも試してみてはどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

図書館リハビリ活動 図書館は「評価」から自由になれる場所

うつ病と診断されたフリーライブラリアン・山本茜が、休職中に図書館にリハビリとして通って、本や図書館や本と人が出会う場について出会い、感じたことをまとめています。

 

先日、「評価」について、自分にはメンタルモデル(自分の経験によってつくられた思い込みの)があると気づいた。そして、「図書館」「本」には、「評価」のメンタルモデルがないことにも気づいた。

 

akaneironomori.hatenablog.com

 これに、気づいた時は、うつのネガティブ自動思考が高速回転するようになっていた時。

 内省力が数倍に加速し、脳が疲れているにも関わらず、脳の高速回転は止まらない。

 ネガティブなことを勝手に次々と拾ってしまう時だった。内省して気づくことが、即、恐怖や不安として湧き上がってしまうループに入っていた。

 好きだった絵を描く。子どもの頃、他人の評価が気になっていた、自分の本当の気持ちを大事にできていなかった記憶、自分の心の傷に気づいてしまった。

 好きな水泳に行くと、人よりも自分は遅いか、速いか、うまいか、下手かということを気にしていた自分に気づいて、ネガティブな感情が湧く。「今まで水中ウォーキングを舐めていました、ごめんなさい!!」と猛烈に反省して落ち込んだり、なんでも自責につながる、望まない焦燥感、不安感がすごいスピードで駆け上がる恐怖を感じた。(今思うと、どう考えてもおかしい頭の回転の仕方してるんだけど、自分の意思ではなく勝手に湧いてきて、勝手に自分を攻撃して、死ぬほど怖い恐怖の渦に巻き込まれる。これ、大袈裟な比喩ではなく、本当にこんな感覚だった。)死ぬほど怖いことがあるとわかった時も、図書館に行った。ただ、棚の間を歩いて、棚を眺めていた。「図書館」と「本」だけは、評価から自由でいられる場、ずっとそんな場だったことを思い出した。

図書館や本は安全な基地

 思い出したのは、高校生の頃。クラスで同級生たちが、「キャハハ、まじウケる」と手を叩いて笑っている姿を見るのが苦手だった。なぜなら、私はそこに入れないし、「まじウケる」と思った人たちは、マジョリティ。私は、「マジウケる」を共有できる言語を持っていない。全然違う言語を話す人たちで、私は同じ言葉を話せない人に思えた。彼ら・彼女らが手をたたいて笑っていることが、人を卑下して、ネタにするような笑いで全然笑えなかったが、笑えない自分がダメであるように感じた。自分には価値がない人間であることを思わされていた。居心地の悪さしかない教室では、できるだけ空気を消す。一人で、高校の図書室へいく。図書室は学校の中にあるエアポケットだった。クラスでの他人の目、評価の目に晒されるわたしを忘れることができた。本の中の世界は私を拒むことはない。本の中の主人公に自分と似た人を見つける。自分が苦手、違和感のあることを見つけた。変われない自分も優しく受け止めてくれていた。高校生の私と、今の私の中で、図書館の存在は何も変わらない。

 私のうつのお供のような漫画、「うつヌケ」に、うつの中、色々な歯車が回らなくなる中でも、静かに、回り続けている、歯車があるという話があった。まさに、回り続けている唯一の歯車は、「図書館」と「本・文字」を「読む行為」「言葉に出会うこと」「著者と対話すること」

 私にとって、子どもの頃から、ここは「評価」がない安全な場所であったから、うつの中でも回り続ける歯車だったのか。これに気づけたから、内省力高速ループで脳疲労も悪くないと思えた・・

 

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 多くの人にとっての図書館または、本は、「評価」から自由になれる場所か。

 多くの人にとって、本、図書館は、「評価」がない安全な場所とは言えないかもしれない。うつの人が図書館に行くことを推奨する「図書館リハビリ活動」というものは、精神科クリニックのブログなどで知った。精神科医は、社会復帰のリハビリの過程の一つに「図書館」に行くことを挙げることもあるようだ。しかし、普段、図書館に行ってない人が、いきなりリハビリと思って、図書館に行く。図書館の遊び方、楽しみ方が、自分の中の経験にない人は、図書館に行くと途方に暮れてしまわないだろうかと想像した。

どうやって、自分はここで楽しんだらいいかとソワソワする。

ソワソワして、しかたなく、雑誌コーナーの雑誌をパラパラ見る。

楽しめなくて、結局スマホを眺めて、ベンチに座って終わってしまった。

たくさんの本がありすぎてしんどくなる。

そんなふうにならないのだろうか。

「本」「読書」を遠ざける劣等感や評価のメンタルモデル

その時、その人の中で、どんな声が聞こえているだろうか

「こんな本、読みきれないかもしれない」「自分が好きな本かわからない」「自分が何が読みたいかわからない」「ハズレを引きたくない、どうせ借りるなら、アタリの本を借りたい」

そこで、スマホで検索して、アマゾンの感想を眺めてみる。感想を見ると、「つまらなかった」という評価もあれば、「面白かった」という評価もある。さらに自分にとっての「正解かどうか」わからなくなる。

 また、心が疲れている人には、「読書はよくない」と思っている人もいる。(そうした思い込みから、「本読まないで、たまには休んだら?」と、言われたこともあるが、あれは、超モヤモヤした・・!!)心が疲れている人に、「すぐやれる人とやれない人の習慣」とか、「最強の勉強法」とか、「すぐに行動できる人になるための、⚪︎と×」とか「今こそ読むべき〇〇」「40代でやるべきこと」というようなキーワードは疲れている人には危険。ジャッジする、断言する、スピードを求めたり、自分を高めて、どんどん進む、知らないことをバカにしたり、立ち止まっている自分に鞭を打つような本では、休息はできない。「こうするといい」という正解は、一見、その人が求めていることのようだ。しかし、「こうするといい」ができなかった時、また、不安な自分に舞い戻る。「正解を本の中に探そうとする」→「正解はない」「正解はある」→不安 正解を探そうとするモデルの中にいる限り、不安のループは繰り返される。

 人と本を話す時に、「私は、本が好き、趣味は読書」と言う人よりも、「本は全然読まないけど、漫画しか読めないの〜アハハ」と、本を読めないことをことさらに強調し、卑下して笑う人が多いように思う。漫画が大好きならそれでいいと思う。「漫画が大好き」なのとは言えないのは、本を読めない自分、「知らない」ことへの劣等感を内在しているからではないかと思う。「知識」や「成長」の象徴。それが、形になったものが「本」。「本」がそうした存在でしかないならば、本は、栄養にはならないかもしれない。「劣等感」「評価」「成長せねばならない」というメンタルモデルがある人は、図書館も本も苦しい存在になるのかもしれない。

どう「本」にある呪いを解くのか

 私がどんなに、本は安全、本を楽しむ方法があることを伝えても、「本」や「図書館」に対して、「評価」「劣等感」「成長せねばならない」のメンタルモデルが張り付いている人の呪いは簡単には解けない。「本」を人に渡すお仕事をしているライブリアンは、それは、「本」の全てではなく、一面であるということを、知っているのではないだろうか。呪いを解くのが図書館であり、ライブラリアンではないだろうか。でも、呪いをさらに強化していたりなんかして・・

呪いを解く本の読み方、関わり方

本、図書館にある呪いに気づいた人は、「賢く」なるため、「役にたつ」ための本を選ぶということをやめてしまおう。何も知らない自分が責められるように感じるなら、そういう本には近づかなければいい。「この本全然、読み進められない」と思ったら、「読みたくない」ということで、本とさよならする。

 自分の生活の中で好きなことについての本を借りる。例えば、私がこの前借りたのは、「くらべる世界」フォトブックのようにおしゃれな装丁。

 パラパラとどこからでも読める。全部読まないといけないと思わされる要素がない。

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 「朝ごはん」や「カレンダー」「ネクタイ」など33の項目を立て、それらが「日本とアメリカ」「イギリスとフランス」のように世界の異なる二カ国間で、どのように違うのかをくらべて解説した本です。

 

たくさんの似たものを世界中から集めた本。読んでるだけで、楽しくてワクワクしてくる。この本は、本棚からこの1冊を見つけたのではなく、テーマ展示(たくさんの本から図書館の人が本をピックアップして展示してあるコーナー)で見つけた。こんなふうに、図書館は本の呪いを解くしかけをいくつも用意している。

本を借りたら、「表紙と目次と3ページしか読めなかった・・自分はダメだ・・!!」ではなく、表紙と目次と3ページの中で、気になったキーワード、3ページ読みたくなった理由があったら、それだけでも、「本から得られることがあった。では、また会おう」と言って本とお別れしてもいい。

 読んでみたら、著者の言葉が難しすぎて、読めない、「これが読めない自分がバカなのか」と思わされることもある。著者の話がわからなかったら、「ふーん、そう思うんだね、自分は全然わからなかった」「ふーん」と言って、素通りする。

 本を読むことは苦行ではなく、物事が視えるようになる、自分の心がワクワクするため、ホッとするためにあっていいと思うが、苦行のように、読みたくない本を読まねばならないとストイックに自分に強いている人が多すぎると思う。

 再び本が読める、今まで読めなかった人のための本

 本が読めない、選べなくなった、好きな本を探すアンテナが錆びてしまったと感じている人は、若松英輔さんの「本を読めなくなった人のための読書論」をパラパラ読んでみてほしい。本を読もうとしなくていい。著者は、本を読もうとしないで、言葉を「書き写す」ことから始めることを述べている。「言葉」が自分の中に入っていく。その言葉が心の中で響き合う感覚を集めていく。この本によって、本と自分の間に起きる経験は、「成長」「変化」のためではない読書。

 

「とどまる」「本の中の著者と対話する」ことで、自分の外の世界、本の中には「確かなこと、答えは何もない」にも関わらず、自分の中にはすでにわくわくすることはあったと気づく。「不確かな世界でも大丈夫」本を閉じたらそんな気持ちが湧いてくる。「本」がそのような存在として、誰かの前にあってほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

図書館リハビリ活動「評価」されるメンタルモデル

最近、また、絵を描きたくなり描いてる。ザワザワし、落ちていくドライブがかかる前、心を凪にキープできる。
鉛筆をたくさん入れた箱を取り出し、カッターナイフで鉛筆を、削ってると、心が落ち着く。
子どもの頃から、造形教室に行き、お絵描きは得意。いつも賞状をもらっていた。
しかし、描いていた絵は、「こう描くといい感じに見られる、ウケるだろう」と思って描いていて、心から楽しく、対象や紙の中の世界を楽しんでいたわけではなかった。わたしにとって「絵を描く」ことは、「評価される」「褒められる」こととセットになってしまっていたと思う。デッサンしてないで、「自分の作品をつくれ」と、美術部の先生に言われたが、オリジナリティを求められるのは、しんどかった。わたしには、技術を使い新しい世界を作り出したい欲求はないことに高校生の頃に気づいた。
評価されることを、元にした、お絵描きはしんどかったなぁと、メンタルモデルに気づいてしまったー。
デッサンは塗り絵ではない、写真を写すことではなく、モノがそこにあることを、眼でなぞる、観ること。描くことは、観ること。
うまく描けてない、何かおかしいのは、観えてないということ。
コップの中心軸はどこにあるか
コップの底は見えないがどのあたりにあるか
コップの端、回り込んでいく世界を描けてるか
コップの中、持ち手の空間は、空間とコップの中、持ち手の関係は
そうやって観ることの精度を上げ、モノが紙の中に確かにあるように、立ち上がらせていく。
「うまい」人は、この観ることと、現す技術の両輪が長けている人だと思うが、対象に向き合うスタンス、経験は長けてる人もわたしも同じ。
デッサンは修練、通過点であるが、今はしみじみ楽しいと思う。
評価ではなく、プロセスを楽しむものとしての、お絵描きは、また、楽しくやれるような気がする。
しかし、わたしの心には評価のメンタルモデルは貼りついている。
 
絵画教室とか行くと、また、評価構造の中に身を置くことになり、しんどい構造にハマるんだよね。なんか、関連本ないかなと図書館の棚を見る。「デッサン」の棚には、「描き方」と背表紙に書かれた本が多く。全くわくわくしてこない。「デッサンのやり方」の本は求めてないのだなと思った。
「ものを観ること」「描くこと」「表現すること」「存在するとは」・・などなどの全く関係のないジャンルの本やメディアに自分のわくわくの種はあると思う。いつか出会えるのを待ってようと思った。
 
 
 

図書館リハビリ活動 茶々を入れてくれる本

うつ病と診断されたフリーライブラリアン・山本茜が、休職中に図書館にリハビリとして通って、本や図書館や本と人が出会う場について出会い、感じたことをまとめています。

 図書館の本棚の間を歩いていて、ふと最近、自分の行動や思考の衝動性が高くなっているような気がして、〝もしかして、私は、うつ病じゃなくて、「双極性障害」(うつ病より大変、一生モノというイメージがある・・)だったらどうしよう・・〟という不安がよぎった。

 うつの人は、視野が狭くなり、悲観的思考が暴走しがちである。それは意思ではなく、脳の病気のせいである。しかし、ふと暴走して、メンタルヘルスのコーナーに行って、「双極性障害」の本を手に取り、パラパラと見る。

 「うーんでも、やっぱり違うかも」と思って本を元に戻す。

 ついでに、この棚に来たし、他の本、何か見てみよう・・

「ポップスで精神医学 大衆音楽を診るための18の断章」というタイトルの背表紙が目に止まる。松本俊彦、春日武彦、齋藤環・・すごい面々が著者に並んでるなと思う。

 「精神科医が自分のこだわりのある病気をひとつ選び、同時にそれを語る際のテーマとなる一曲を選んで思いの丈をぶつけてみよう」というのが本書の趣旨。

 借りて帰って、帰りの喫茶店で読む。家に帰ってから、寝転がりながら読む。料理して、オクラを茹でている間などにパラパラと読む。

 アーティスト自身の生きる苦しさが投影されたような歌詞は確かに多いと思う。

 本書で取り扱われるのは、乖離やら、依存症やら、深刻な様相にもなる病ではあるが、精神科医それぞれが好きな曲と病への思いの丈を語る姿が愛おしい。中でも、依存症治療では著名な松本俊彦さんの自身のニコチン依存エピソードがよかった。専門家として依存症治療を語る松本氏の姿しか知らなかったが、依存症の松本氏も同時にいる。そんな中で出会った一曲、「さよならCOLOR」(SUPER BUTTER DOG)まさに依存症に向き合う治療者に向けた珠玉のメッセージのような歌詞!!それは、ダメ絶対!というでも、このまま飲んだら、死ぬよと脅すでもなく、説教をするでもない、依存症者のしたくてもできないというアンビバレンスな面も向き合い、そして優しい。そして、うつな私にも届く歌詞だった。

 他にも、中森明菜のDESIREー情熱ー、新宿2丁目版の合いの手入りがあることを知り、動画検索して、一人で笑う。「神聖かまってちゃん」っていいなぁと思う。動画を見ている時、「〜だったらどうしよう」と不安に思っているわたしはいない。メンタルヘルスの棚で出会ったこの本は、悲観的な方向に向いてる中で、笑って「茶々を入れてくれるような」本だったと思う。

 深刻な思いを抱えて、日々暮らし、図書館にも足を運んで、「うつ」の棚に手を伸ばすという人も多いと思う。答えを探して、本棚に手を伸ばす人もいるだろう。答えや未来はわからなくてもいいかと思えるのは、探しに行った先にある隣の本が、思い詰める自分に茶々を入れてくれるからである。病とともに生きるたくさんの人に、答えを差し出すだけが支援ではなく、探してる本の隣にある本で茶々を入れる、その環境をつくるのもライブラリアンのお仕事だと思う。

 

www.nippyo.co.jp

リハビリ図書館・読書活動 ある日の記録 7月14日

 7月10日より1ヶ月休職になりました。

うつ病で休職になった人の1日とはどのようなものを想像されるのだろうか。

人によって、症状のフェーズが違い、症状の重さによって過ごし方は違うだろう。

私の場合は、朝起きて、ごはん食べて、ご飯つくって、水泳して、読書して、仕事して・・という日常のサイクルは回せるくらい、人間らしい生活は送れるレベル感であるが、仕事の方での消耗度が激しい。一旦お休みした方がいいと、主治医と相談して休むことになった。

悲観的な感情、身体のしんどさ、意欲の湧かなさが、もやもや、ぐるぐると考え続けるような時間もある。その最中に図書館に行って、本に出会っている。ライブラリアンの友人に「全部ジャーナルしておいたら、いいのでは?」というアドバイスをいただく。メンタル不調者に図書館や本はどのような存在であるのかについて、n=1の一つのデータが取れる、こんなオイシイ経験はないのではないかと思い、記録していく。

7月14日の記録

家から地下鉄に乗り、東図書館へ行く。新刊棚を見て、小説の棚を見て、手芸の棚を見て、本棚の間をぐるぐると歩く。新刊棚にメンちんしてあるモノクロの装丁が美しい「詩と散策」(著者:ハン・ジョン・ウォン 橋本智保 書肆侃侃房)が目に止まり、借りて帰った。

 

www.kankanbou.com

 

その後、朝、マクドナルドへ行ってコーヒーを飲む時に開いて読んだ。

丁寧に編まれた「言葉」が心に染み渡っていくようである。著者が日々の中で出会う詩を携えて、散歩して暮らす。そういう毎日をスケッチしたような本。

引用した箇所を読んでいて、私が日々何に傷ついていたのか、何に苦しめられてきたのかを振り返るためのたくさんのお休みをもらったのだと思った。私が大事にしたいと思っている時間を思い出した。自分の目に映る取るに足りないものたち、見過ごしてしまうもの、小さなもの、なんでもないものを大事にしたい、それらの中の美しさと、自分の中に起きることを一つずつ集めたい。

P20

「あなたという目的地を入力して一気にたどり着くのではなく、途中、あれこれささやかな苦労や美しさを経て、それらのすべてが合わさったとき、はじめてあなたに辿りつける。そんなプロセスがあったらいいのにと思う。」

 

 

P21引用

「猫たちが横になれる場所、実をつけるかもしれない木、泣きながら眠った人たちの家・・散歩をするとき、私がきょろきょろ見渡すものも、どれも取るに足らないものばかりだ。

しかし、私の心の中には、大きなものとそんなささしなものが共存するために、それほど傷ついたり長く苦しまなくてすむ。日々の暴力や陳腐なものにめったに染まることもない。」

 

ところで、P20に、地図学者のデニス・ウッドという人が、教え子たちと特別な地図を作ったと書かれている。従来の地図には場所や道路名など、客観的な情報が明示されるだけだが、彼は、名前のないもの、目に見えないものを書いていった。街に暮らす犬の名前、紅葉で色づいた、葉の色・・「この地図見てみたい」ググってみたけど、出てこない・・

レファレンスして聞いてみようかな。休んでなかったら、ふと疑問に思ったこと、面白いこともそのままにせざるを得ない。気になったことはもっと近づいてみることができるし、図書館はその行為とともにあるのではないだろうか。

 

 

 

 

うつ病日記:働きながら治療する

休職する?働きながら治療? 

うつ病=休職する。と、クリニックの先生にすぐに言われると思ったら、そうはならなかった。

 

3月7日にうつ病と言われ、そこから週1受診(4月下旬も継続して週一受診)で、服薬治療で様子を診る。休職の方がいいかどうか、見る期間だったんだなと後から振り返ると思う。

飲むお薬は、体の回復に必要な睡眠を取るためのもの。(うつ病といえば、変なクスリをガンガン増やされる、精神科の先生はクスリをただ出すだけの人だと思っていた、ごめん)身体が回復していける状態になる(ちゃんと眠れる)ためのお薬だったのですねーーー。

回復が追いつかない消耗ならば、もっと休息が必要(休職)という判断になる。

◆私の場合は・・

即、休職もできない感じもあったので、休職しないで休息しながら働く方針で様子みようとなった。

その時に先生に言われたこと

→うつの根本課題は、わたしの場合は、組織構造。

であるならば、その根本課題、管理者が孤立していた環境がよりよくなっていく実感が重要。よりよくなっていかなければ、回復は難しくなりますねと言われた。

休職をしないで回復軌道にのって働くことを続けるならば、根本課題がよりよくなるというのは重要なんだ・・と理解した・・。ちなみにその課題がよくなる鍵を握っているのは組織の中では自分しか立場的にいないとわかっていた。そのため、うつの回復&組織改善のサポーターに、「私が信頼できる2人にサポーターになってね」とお願いできる、信頼できる人がいたというのがよかった。

 

※ ちなみに「休職ができない=なんてよくない組織なんだ!」と、これを読んでる人は、ジャッジしてしまうと思う。その人の立場や置かれた環境、組織によると思うので、休職ができない気の毒な環境で働きすぎているというご心配するかもしれないけど、大丈夫です。

とはいえ、自分の生活と身体が一番なので、自分の時間や人生をあまりにも犠牲にするならば、休職しようと思っていたけど。

受診3回目 

先生はハチクロに出てきそうな線の細い、穏やかで優しい笑顔でいつも「どうですか、もりさん」と私を診察で待っている。「あと、3週間でよくならなかったら休職した方がいいということですね。」と言われ、ガーーーーーンと思った。

職場のメンタルヘルスサポーターKさん(うつ病サバイバー、メンタルヘルス事業経験あり。)は、「そうやって言われるもんだから!」と、言う。「なんだ、そうやって言うもんなんだ・・じゃあ、脅さないでよ・・」と思いつつ、しかし、脅さないと、頑張りすぎるということだなと思った。

 

休職するための調整・・

「私がやるんだよね?!誰が仕事やるの、やれる人いたっけ?その調整丸投げできる環境がないから、調整ストレスで死ぬわ!!」と、思った。

先生の言葉を真摯に受けとめ休憩しながら働く、診断から1ヶ月目。

 

休息しながら働くとは

自由度の働き方が許される職場(フルフレックス)なのと、自分が管理職であったがために、管理職の判断を仰いだりしなくてよかったという環境要因がある。

どの職場でも適用できないし、普通こんな働き方できないよな・・と思う。

 

例えば、いまのわたしの1日は例えばこんなん

ある日のわたし

【午前中】

職員会議 

会議進行は複数人の人が話している環境が聴覚刺激が多くてムリ。

午前中の早い時間は調子が悪いため、打ち合わせや会議は午後入れるようにする。

しかたない時は負荷を減らす。

会議が終わると昼になり脳疲労

★工夫:進行はわたしのうつを理解している公認心理師・部下にお願いして、わたしはグラフィック役に徹する。求められたところだけしゃべることに負荷が高いことを知る役割分担工夫する。

★工夫:昼間に寝転がりに帰る。布団を頭からかぶって目を瞑る。

    それができない時は、誰もいない相談室椅子に足を伸ばして、目を15分目を瞑る。

【午後】

・利用者面談へ行く

★途中で休息 カフェで仕事 環境を変えて働く

・事務所に戻り、事務仕事。午前中よりメンタル上がってくる。

★工夫:本日の鬱日報を書く。

 

鬱日報に対して、たまにコメントがメンタルヘルスサポーターの二人から来る。

こんな環境真似できないですよね。。

ここから色々な工夫が生まれた。↓

★心の調子を心のお天気に表現して書いてみる(心理学で言うフォーカシング)

★しんどーいと思ったら、「あかねは今しんどいと思っている」と心のなかで口に出すといいよ。

★茜さんの健康上の快に共感してくれる人にはどんどんそのことを話すといいよ。

 この場合、わたしの趣味の水泳のことを、職場の同僚に話す。

★明日は低気圧が来るから調子悪くなると思いますよ。

★今日は凹んだことがあった・・といったら、体のどこがきずついているか?

 心の中にいる子どもはどんな言葉を求めているか?

 声を聞いて、想像して、体をトントンしたりしてみてくださいね。

 

ーまとめ わたしのうつ病と仕事の両立のための工夫ー

▶︎予備電源で走っていると思って、予備電源が、酷使した、疲れたなと思ったら、1日単位で調整する。(これは先生に教えてもらった考え方)例えば今日頑張った、夜しんどくなったと思ったら、翌日はブレーキをかけ、できるだけゴロゴロしながら働く、環境を変えてノマドワークで一人時間取るなど。仕事がフレキシブルだからやれることを最大限活かす。

▶︎脳疲労を和らげるため、昼寝をしに家に帰る。(事務所が自宅から徒歩1分という好立地でよかった・・)昼寝できない時は15分くらい目を瞑る。

▶︎しんどい時はしんどいと堂々と言える環境。休む、お願いする、委ねる、甘える。

メンタルヘルスサポーターOさんは、私が管理者の事業のマネージャーでもある。

「この仕事お願い」「今日はいけないから、代わりに担当をお願い」・・と言いやすい。

「ちょっと休憩したいので、打ち合わせは30分後で!」とか言っても、「はいはーい」と言ってくれて、過度に心配されたりしないのが楽である。「急にいけなくなる、キャンセルになっても大丈夫なので」と、了承してくれている安心感。

▶︎苦手な仕事を切り刻む

優先順位がつけられない、計画を整理できない。

前にできたことができないため、最小単位に切り刻んで一つずつやる。

しかし、自分のパフォーマンスが落ちているがために、自転車操業状態になり、仕事のうまくいかなさで落ち込む。そのため、優先順位をつける、整理するのを、メンタルヘルスサポーターに手伝ってもらう。

▶︎環境を変えて働く

職場にいると、いろんな人に声をかけられる、電話が鳴る、落ち着かない・・ため、

自分一人落ち着けるカフェで仕事する。

▶︎外在化・フォーカシング

自分を観察するように、心や体調を言葉にする。

やる気が出ない、しんどいのはお天気であり、自分が悪いのではない。

▶︎運動療法

 プールに行ったあと気分が爽快仕事が進む。

 プール行くのは仕事だと思って、仕事の合間にプールに行く。

▶︎外在化、ジャーナリング

 毎日うつ日報を送る。

 送るとメンタルヘルスサポーターが、コメントしてくれる。

▶︎自分のレジリエンス(以下のことを守りながら、仕事・生活に織り込みながら暮らして働く)

・水泳

・カフェ、一人時間

・図書館

ジャーナリング(ミュートアプリ、ストレス日記・うつ日報)

・環境を変えてノマドワーク 一人ぼーっとする、考えを整理する時間

 

参考になった本

▶︎「セルフケアの道具箱」/伊藤絵美 昭文社

▶︎うつヌケ  / 田中圭一 /  KADOKAWA

 

うつ病日記:受診するまで

3月にうつ病と診断されました。

服薬治療とカウンセリングで子ども1人の子育てと働くことを継続しながら治療しています。

仕事はNPO法人の管理職ですー。

 

始まり、受診前

2月の初め頃から、なんか最近うつっぽいし、理由なく涙とか出るなぁ・・と思っていたと思う。わたしの場合は定期的に抑うつ症状はあって、セルフケア(1人時間を取る、症状を外在化する)して、付き合ってきたので、この症状よくあるやつって思っていた。

こんな症状→動悸・息がつまる感じ、悲嘆(悲しさがやってくる感じ・特に理由はない)、理由はないが涙が出る。ストレスの原因は組織の構造的な課題や風土、軋轢やトラブルの中で仕事してきたことだろうと思っていた。

 

適応障害か??うつ病じゃないだろ。

知り合いのカウンセラーに話を聞いてもらう、職場の公認心理師の部下に話聞いてもらう・・

聞いてもらったら、症状強くなってるー。なんでかね・・

「安心を知ったがための副反応」と知る。ナルホド。

ネットで調べて適応障害かな・・??と思う。2週間続いたら、受診か・・。

職場に行くとしんどい感じが増してくるため、カフェで1人時間を取りながら働く。

2週間経つ、収まらない・・・。

適応障害は、将来うつ病に移行する確率が高い」と知る。ああ、恐ろしや・・。

受診をしてしまうと、「アナタは病気です!休職してください!」と印籠をもらってきてしまうような気がして、病院受診は躊躇っていた。そして、クリニックはどうするか??

 

「もっと重症鬱、動けないレベルになってしまうよ!!」と同僚に言われたのと、お医者さんもサポーターの1人だと思えたことに後押しされ、同僚のおすすめで面接が上手な先生のいるクリニック受診。

 

うつ病診断もらう・・ガーン!

3月1日に初診。ベーシックな抗うつ薬SSRI エスシタロプラム)をもらい薬飲み始める。

この時は睡眠障害はなかった。3月7日に受診2回目。

ドクター「仕事が休みの日はしんどいですか?」

「しんどいですね」

ドクター「うーん、そうするとうつ病ですねぇ・・」

うつ病・・・!!!!!適応障害じゃなかった!」ガーンとなり、職場の心理職の2人に、帰宅後、メールをする。「わたしの職場内メンタルサポーターになってください。毎日、アカネの鬱日報を送ります。スルーしてください。」

 

そして、その翌日からは、睡眠障害も出始める。

寝たいと思っているのに神経がイカれているようで、眠れなくなる。

うつ病診断の翌日、メンタルヘルスサポーターになってくれた、わたしの部下で公認心理師のOさんとお話する。その時初めて、今まで誰にも言わないでいた想い、辛かったことを全て話した。誰も来ていない早朝の事務所で大泣きをする。ただ、Oさんは横で聞いていてくれる。

「1人じゃないから、大丈夫ですよ」

この言葉が暖かく、染み渡っていく。洗いざらい話したから、もう丸裸になった。そうしないと多分回復しないんだろうなとぼんやり思っていたので、お話できてよかったなと思う。

1人でストレスを打ち返し、1人で闘っていた果てに心が疲れていたということだったんだとわかった。うつ病=休職と短絡的に判断されるものではなく、自分のストレッサーを自覚し、休息の時間をとり、回復のために必要な睡眠をちゃんと取る、覚醒状態をやわらげ休息を促す薬を飲む。そうすることで、働きながらの治療は可能と知り、即休息にはならなかった。

うつ病治療と働くはまた次の回で。